プロローグ
・軽いグロテクスな描写、またはホラー的な描写がありますので、ご注意ください。
2003年2月16日
透き通るような冬空の下に、赤い回転灯を点したパトカーが到着したのは、午後4時を過ぎた頃だった。
静けさを打ち破るようにサイレンが鳴り響いて、すぐに止まる。中から警官が2人、慌しく降りてくる。
辺りはすでに薄暗がりに包まれていた。遠くの空が真っ赤に燃えている。空気は身を絞めつけるように冷たい。警官たちが吐く息も白く、藍色の闇に浮かんでは消えていく。
警官たちが到着したのは、僻地の倉庫街である。にも関わらず、すでに倉庫の前には人だかりができていた。
彼らが集まっているのは緑色の屋根をもつ、大きな倉庫の前だ。警官は野次馬たちを掻き分け、走って倉庫を目指す。
「おまわりさん」
人だかりの最後尾にいた、焦げ茶色のジャンパーを着た中年の男が、警官を呼び止めた。そして自己主張するように、鼻の辺りを指す。
「通報したのはわしです。散歩しとったら、この中からそらでっかい音が」
「音?どんな音です?」
「そら……音といえば音ですわい」
警官の問いかけに、男は自信なさげに眉尻を落とす。
「少し前から、変な音はしてたのよ」と顔をしかめながら話すのは、頭にパーマをかけた小太りの女性だ。3、40代にみえる。
「気味悪くてねぇ。近寄らずにいたんだけど」
「俺なんか、この中に人が大勢入っていくのみたぞ」
「みたみた。この辺、確か不審者が出る、とかいわれてなかったか?そいつらじゃねぇの?」
「なら、この中にいるのは不審者か?」
「不審じゃない奴が、こんなことするわけないだろうが。俺だって見たぜ。朝に赤い車が停まってた」
2人の発言を発端にして、その他大勢の野次馬たちも好き勝手にわめきはじめる。どれが真実で、どれが妄言なのか分かったものではない。騒がしくなる現場に、小柄な警官が、静かに!と声を荒らげた。
仲間に野次馬たちを任せている間、倉庫の前にたどり着いた警官が、その扉に手を伸ばした。鼻の頭にある大きなほくろが、特徴的な人物である。扉は鉄製で、頑丈に閉じられていた。ほくろの警官はしばらく取っ手をガチャガチャやったあげく、舌打ちした。どうやら鍵が閉まっていたらしい。
「ダメだ、閉まってる。おい、車に工具積んでないか?」
「取りにいきましょうか?」
「あぁ。だが、わりときついな。この様子だと、道具を使っても時間がかかりそうだ」
両手を広げ人々の壁になっている小柄な警官と会話している間も、ほくろの警官は何度も取っ手を引いたり押したりしている。だが錠は思いの外厳重にかけられ、道具を使ったとしても骨が折れそうだった。
「あの窓からいけないですかね?」
小柄な警官が人波を押し止めながら何かを見つけ、声をあげた。その視線の先には、人が1人くぐれるかどうか、というほどの小さな窓があった。赤い空を反射し、薄く光っている。
「ヤナ、お前ならいけるかもな」
ほくろの警官は、小柄な警官のほうを振り返るなり、そう返答をよこした。
ヤナ、と呼ばれた小柄な警官はその返答が意外だったらしく、俺ですか、と自分を指差して、窓を見上げた。
「野次馬はこっちに任せて、ちょっと行ってこいよ。」
「はい。でも、あそこまで届きますかね?」
地上から窓までは、3メートルちょっとある。
「脚立かなんか、持ってきてありました?」
「ここは物置場だ。探せばそこらにあんだろ。緊急事態だ。勝手に使っても構わんよ」
「はぁ……」
渋々、ヤナは先輩警官に野次馬たちを任せることにした。野次馬はしばらくすると徐々に興奮が冷めてきたようでもあり、待機を命じると意外に大人しく従い、指定の場所に固まって座った。
ほくろの警官の言う通り、隣の雑穀倉庫から、すぐに脚立は見つかった。赤く錆付き、今にも折れそうな危なっかしい代物だ。
窓の前にそれを立てかけ、ヤナは恐る恐る脚立に足をかける。額には脂汗が光っている。
それを見受け、ほくろの警官は苦笑した。
「ヤナ。お前、高所恐怖症か?」
その言葉に、ヤナは顔を赤らめ、後頭部をぼりぼりと掻いた。
「えぇ、まぁ。でもこれは高所恐怖症じゃなくても怖いですって。靴の下でじゃりじゃりいってますよ」
ヤナが両足をかけると、脚立は地面に沈み込むような気配を発し、軋んだ音をたてる。
「まぁ、誰もが通る道ってやつだ。市民のために頑張ってくれよ」
「はい。なんとか……頑張ります」
そう強気に返そうとする声もどこか、上ずっている。
ヤナはゆっくりと脚立を登っていく。そしてやっとのことで頂上までたどり着くと、息をつく間もなく、窓に手をかけた。
窓を破壊するために、一応金鎚をベルトに挟んできていた。それに手を伸ばそうとするが、触れる直前で引っ込めた。これは最終手段だ、と思いとどまったのだろう。
ヤナは、窓を横にスライドさせて、開けようとした。期待は少しもしていなかったに違いない。扉に鍵がしてあるのだから、窓も同じ結果だろう。そんな固定観念が、ヤナの頭にはあったのかもしれない。
だから何の滞りもなく、手の動きのままに窓が開いたとき、ヤナは危うく脚立からふり落とされそうになった。
右足が宙ぶらりんになり、片足だけでバランスをとる。脚立がみしみしと嫌な音を発する。ヤナは慌てて窓のへりにしがみつき、両足の行きどころを見つけて、安堵の息をついた。
「なんだ、窓は空いてんのか。ずいぶん不用心だな……。まぁ、いまは手間が省けたことを喜ぼう。おい、ヤナ、なにやってんだ。早く行け。重大事件かもしれないんだぞ」
「う、うぃっす」
脚立の下に立つほくろの警官に促され、ヤナは汗だくになった手を制服で拭い、開いた窓のへりに改めて手を置く。
そして、びくびくしながら体を前に傾け、開いた窓の中に顔を突っ込んだ。
固まった薄い闇が、ヤナの目の前に広がる。
そしてヤナは、声を失った。
その瞬間彼は、自分が地上3メートルの位置にいることさえも忘れていただろう。
嗅覚を突いたのは、むせかえるような血の臭い。
聴覚に届いたのは、ただしんしんと佇む沈黙の海。 視覚に映し出されたのは、倉庫一面に倒れ伏した、人、人、人。
外が薄暗くとも、それらを明瞭に見ることができた。夕闇を背負い、影の中にそれらは横たわっている。
「なんだ、これ……」
地獄絵図、という言葉がこれほど似合う光景も早々あるまい。
何十人もの人間の死体だ。それらが折り重なるようにして、倉庫中に転がっている。一様に手足が千切れ、内臓が飛び出し、虚な眼窩はてんでばらばらの方向を見つめている。
ひどいものになると、首がなかったり、体が真っ二つに切断されていたり。頭になにか鋭いものが、貫通している死体もある。
それらは皆、赤いペンキをぶちまけたような、血の池の中に沈み込んでいた。
人々の間を縫うようにして落ちているのは、ナイフや包丁、拳銃、鉄パイプなどの物騒な品々だ。そのどれもまた、赤く汚れている。
ここで何があったのか、想像するにかたくない。だがそれでも、非現実的であることに違いはない。
その違和感の正体はまさに、死んでいる人々にあった。
本当に老若男女さまざまなのだ。中学生くらいにしか見えない少年少女や、腹に脂肪のたまった中年。色白で痩身の男性。ど派手なピアスをつけ、ワンピースを身に纏った女性。
素人目に見ても、その種の人たちによる抗争の結果とは到底思えない。彼はただの、一般人のように見えた。
そしてヤナの目は、そのまま流れるようにある一点に吸い込まれる。
死体の山から、少し離れた場所に、それは転がっていた。
茶色い布切れだ。長方形で、ここから見下ろす限りかなり大きい。
それは旗だった。ヤナもそれに気づいたらしく、「旗だ」とうわ言のような声をあげる。
その旗のデザインは、ここからではよく見えない。薄暗がりの中にそれはあって、旗と分かったこと自体が奇跡的だった。ただ、その旗に描かれたマークは鮮やかな金色で塗られていることだけが、かろうじて分かる。
その旗だけは血と屍にまみれた室内の中で、烏の群衆の中に混じる白鳥のように、ひどく際立って見えた。
昼間ではなく。そして完全な夜でもない、この中途半端な明るさがかえってこの現場の、おぞましさを煽っているようだった。
驚く以外にない現状を前に、しばらく呆然としていたヤナだったが、突然弾かれるようにして呻き声をあげ、口を両手で塞いだ。
青い顔を窓の外へと引っ込め、半ば落ちるようにして脚立を下っていく。
それから数十分を経て、壊された扉からようやく警官隊が突入した。そしてそこに広がる光景を目にし、一斉に声を飲み込んだ。
「なんだこれは……」
警官の誰かがやっと発した一言も、間抜けに室内を反響する。
この凄惨な景色は、いかにして塗りあげられたのか。そしてなぜ、こんなことが起きてしまったのか。
誰も分からない。分かるはずがない。
血の中に散乱した肉片たちは、何も返してはくれない。
誰ともなく問い掛けた言葉は虚しく、鉄臭い空気の中に溶けてなくなっていく。
開け放たれた扉から吹き込んだからっ風が、あの茶色い旗をはためかせる。
そこで初めて、旗はその全貌を晒した。やはり巨大な旗だ。畳3枚分はあるだろうか。
茶の下地に、描かれた金色のマーク。それは、翼を広げた鳥の形をしていた。
鷹か鷲か。少なくとも穏やかな種類の鳥ではないことは、明らかだ。目にした人々に恐怖感を植え付けることを、目的にしたようなデザインである。
絵の鳥は鋭い眼光で見あげていた。
天井に磔になった人影を。両手足首を釘で打ち付けられ、血を下界に滴らせている様を。その人物には、首がなかった。天井には下界よりも黒い闇が立ちこめていて、しかもあの窓からは遠い位置にその死体はあったので、ヤナは気がつかなかったのだ。
鳥は知っていた。その人物のベルトのバックルに銀色の羽を模したマークが、刻まれていたことを。そしてこの人物が人知れず行われた戦いの犠牲になり、苦痛の末に死んでいったことを。
2007年6月26日
雨が降り続けて、今日で4日目になる。コンクリートに雨音が反射し、雨雫が草花を濡らしていく。車道を走る車は水溜りの中を突き進み、大きな波を歩道に吐き出していた。
空には、暗雲が腕組みをしてとどまっている。それもまた、今日で4日を数える。しかしまだまだ、そこをどこうとする気はないらしい。
しとしとした雨が、町中に降り注ぐ。湿っぽい空気が人々の体にまとわりついて離れない。今日もまた1日中、この雨は降り続けるだろうと誰もが予想していた。天気予報でも朝からそう言っている。最近の天気予報は信用できないと多くの人が語気を荒らげるが、現実には抗いようもない。実際に雨脚は、少しも緩むことはない。そのせいなのだろう。外は静けさに満ちていた。雨の音と、水飛沫をあげて駆け抜ける車の音だけが、一定のリズムを奏で続けている。
そんな状況だから、外を見ても昼なのか夕方なのか、それとももうとっくに夜なのか。いまいち判然としない。だから人々は時計に目をやることで初めて、自分たちが何をするべき時間帯なのか理解する。今の時刻は、午後5時を回ったところだった。
『次のニュースです』
若い女性キャスターが今日のニュースを、テレビの中で告げる。6畳間のリビングに置かれた、小さなテレビである。もう5年以上使い続けているものだ。埃をかぶっていて、画面は少しばかりぼやけている。
ソファーに腰を下ろしていた佐伯俊充は、そのキャスターの声に顔をあげた。顔は土気色で、瞼の下には痛々しいほどのくまが浮かんでいる。凍りつくような無表情で、佐伯はテレビを凝視する。
『25日未明に起きた“少女ひき逃げ事件”の犯人が本日の正午、警察署に自首をしてきました』
佐伯は息を呑んだ。ずっと下を向いていたため、ずり落ちてしまった眼鏡を押し上げる。そして震える手で、佐伯の膝ほどまでしかない、低いテーブルの上のリモコンを手に取る。
『この事件は昨日、榛名山の山中において両親と一緒に遊びに来ていた佐伯零ちゃんが、何者かの乗った自動車にひき逃げされたというものです。零ちゃんは頭を強く打っており、今日の昼過ぎ、搬送先の病院で死亡しました』
ニュースキャスターは冷静に記事を読み進めていく。どうせ自分と関係のない世界だと思っているのだろう、と邪推すると胸に熱いものがこみ上げてきた。憤怒と不安と理不尽さと、そういうものがすべてごっちゃになったどこにも行き場のない感情だった。
佐伯はリモコンの電源スイッチに指を這わせ、テレビを切った。ぷつん、と無機質な音を立てて画面がかき消える。消えたのはテレビだ、現実ではない。分かっていたとしても、佐伯は少し安心した。そしてその直後、今度は急激な空しさに襲われた。
「お父さん。うちは、ぷらずまってやつにしないの?」
コロッケを頬張りながら、夕食の席で娘がそう訊ねてきたのは、つい1週間前のことだ。あの時自分はなんと答えたっけ、と佐伯は自分のこめかみを叩き、どうしても思い出せないことに一抹の怒りを覚える。
佐伯は医者だった。蓄えも十分にある。それなのにテレビを買い変えることに即答できなかったのは、長年連れ添ってきた腐れ縁、というものを感じたからかもしれなかった。まだ使えるんだから変えなくても、という貧乏くささもあったかもしれない。
とにかく、佐伯は当時、娘の提案にあまり乗り気ではない返答をしたと思う。娘の拗ねたような顔が脳裏に過ぎる。怒っても、泣いていても、もちろん笑っていても可愛い娘だった。だがその姿はまるで霞のように、ばらばらに散って消え去っていく。
あの時、素直に娘の言うことを聞いてやれば、と後悔する。たとえテレビの購入を約束したって、結局娘は事故にあったのかもしれない。しかし、こんな悔恨の情を抱くこともなかったはずだ。いや、結局はどこかに自分の落ち度を探して、こうすれば娘は死ななかった、こうしてやればよかった、と悲観に暮れるだけか。
娘の死から数日経って、佐伯はどうにか自分を俯瞰して見ることができるようになっていた。だからこそ、考える。自分に一体、何ができるのか。これから、何をしなければならないのか。独りよがりではだめだ。他人に聞いても納得できない。ならば、自分を“第3の眼“から見つめるしかない。手を膝の上で組み、俯きながら、佐伯は思案する。
ごろごろと雷の唸る声が、どこか遠くから聞こえた。
「式原明、か……」
自分の娘を殺した犯人の名前を、佐伯は自然に口に出していた。その男は今日の昼間、警察署に自首してきたという。その報道を聞いたとき佐伯は、「娘を殺しておいて、いまさらよくのこのこ出てこられたな」という憎悪と、「よく名乗り出てきたな」という驚きが一緒くたになっていた。
式原明は、もともと指名手配犯だった。何の罪でそうなったのか、ニュースに関心の薄い佐伯にはよく分からない。指名手配犯だったという事実も、自首を通して始めて耳にしたぐらいだった。凶悪犯罪者がさらに罪を重ね、しかも自首してきたというだけでもマスコミを騒がせるのに十分な要素だというのに、式原が佐伯の娘を殺すのに使った車が、さらにマスコミを煽り立てた。
その車は最近週刊誌などを賑わせている新進気鋭の政治コメンテーター、二条裕美の所有物だったというのだ。25日の朝、榛名山近くの旅館に宿泊していた彼が東京に戻るため駐車場に行ってみると、すでにそこに自分の車はなかった、という具合らしい。二条氏は式原によって車を盗まれた、と証言している。警察の調べによって裏づけは取れており、その証言に間違いはないという。
2人のある種、真逆の有名人が絡み合ったこの事件に、マスコミの矛先は当然のことながら佐伯にも向いた。連日自宅に押し寄せる報道陣たちに、佐伯もその妻もすでに疲れ切っていた。何でこうなったのか、まったく分からないままに、世間は佐伯を追い立てていく。娘の死を迎え、佐伯は初めて社会の無情さを呪った。
一時は式原を殺そうと思い、殺害計画まで練った佐伯だったが、いまやそんな気も起きない。たとえ式原を殺しても娘は戻ってこない。そのことに気づいた瞬間、急にすべてがどうでもよくなってきてしまったからだ。結果的に、その判断は正しかったと思う。“第3の眼”のおかげだ、と佐伯はシニカルに思った。
多くの命を救い、天才と持てはやされながらも、自分の娘の命1つ助けることができなかった。父親としての責任さえも、果たすことができなかった。
佐伯は悔やみ、そして苦悩する。答えは時が経つに応じて、まるで海岸の砂のように指の間からすり抜けていく。地面に零れていくそれはかけがえのないもので、なくしてはいけないもののはずなのに、止め処もなく佐伯の手から消え失せていく。
「一体、どうすればいい」
手で顔を覆い、口に出して、佐伯は自分に問いかけてみる。一筋の汗が、頬に流れ落ちる。カチリカチリと、壁掛け時計が時を刻む音が、否が応にも鼓膜を震わす。カーテンの向こうではいまだ雨が降り続けているのだろうか。この静寂が、佐伯の精神をさらに窮地へと追い詰めていた。
そうしているうち、彼の頭に数ヶ月前に出会った1人の少女の顔が思い浮かんだ。確か、あれは診察室でのことだったか。そのとき彼女の口から発せられた言葉を口の中で反芻し、佐伯は唇をゆがめる。当時はくだらない、と思っていたがいまの佐伯の状況ではまさに少女は、救世主であるかのようだった。
「やはりこれしか、ないか」
独り心地呟くと、佐伯は立ち上がった。戸棚の引き出しを開け、財布を取り出す。それをポケットに乱暴に突っ込み、壁にかけてあったコートを引っつかむと、佐伯は玄関に続くドアへと向かった。
佐伯がドアノブに手を伸ばすと、先にドアが開いた。顔をあげると、眼前に瞠目した女性が立っていた。花柄のエプロン姿で、顔には赤いふちのメガネをちょこんと乗せている。
それは佐伯の妻の、かえでだった。
「あらら? あなた、どこに行くの?」
元気とその明るさが取り柄の彼女の声もわずかに擦れ、頬もわずかにこけている。その様子が痛々しくて、佐伯は顔を背けてしまう。
「鳥を」
佐伯は一旦言葉を切ったが、顔をあげ、妻の目を真正面から見つめて言った。
「鳥を、探しに行ってくる。すぐに戻るから、心配しないでくれ」
楓の横をすり抜け、佐伯は玄関に足を進める。後ろでかえでが何か言うのが聞こえたが、佐伯はそれを無視して靴をつっかけ、早々に家を出た。背後で、大きな音をたてて玄関が閉まる。それがかえでとの別離を表すメタファーのように思えて、佐伯は胸がちくりと痛んだ。
雨はやはり、粛々と降り続けていた。天気予報は今日もまた、大当たりらしい。傘を持ってくるべきだった、と後悔するが再び自宅に戻る気にもなれず、構わず道路に繰り出す。マスコミを恐れていたが、どうやらそれは杞憂に終わったようだった。物影に隠れているという可能性も否定できないわけだが、とりあえず、家を出てすぐに邪魔が入らないのは都合が良かった。マイクを向けられる前に、早くこの場から離れよう。佐伯は曇天から降り注ぐ雨を振り払うように、駆け足で自宅から離れた。
いまや、佐伯の目は決意に燃えていた。こんな世界は嘘だ。娘がいて、妻がいて、これからも何の変哲もない、だけど幸福な世界が続いていく。それこそが、本当の世界だ。ならばそんな世界を奪い返さなくてはならない。誰の手でもない。自分の、この手で。
佐伯は指を1本1本折り曲げ、掌を握り締めると、びしょ濡れの翳った町の中を必死に駆け抜けていった。
その様子をすれ違う人々や、近隣の住民が目撃している。後に、女性週刊誌で取り上げられたことでそれは明らかになった。
その日を最後に、佐伯稔充は自宅に戻っていない。
2010年 7月12日
その夜は黒々と広がる雲の裂け目から、満月が見え隠れする空だった。まだ梅雨のあけきらない、じめじめとした夏の空だ。
そんな暗雲の下に、家路を急ぐ女性が1人。駆ける彼女のハイヒールはコツコツと激しいリズムでアスファルトを叩き、白いハンドバッグに吊り下がった緑色の鈴と慌しいハーモニーを奏でている。
肩まで伸ばした髪が揺れ乱れるが、女性にそれを気に留める余裕はないように見える。左手首の時計を確認し、焦りをさらにその表情に色濃くさせる。ますます短い間隔でハイヒールの音が打たれるようになり、伴って鈴も透き通った音色を響かせる。
周囲に人気のない、閑静な住宅街である。等間隔に置かれた外灯が女性の行く先をあぶり出し、申し訳程度の夜風が急ぐ背中を後押しする。遠くで犬の遠吠えが聞こえ、それと重なって救急車のサイレンが鳴り渡った。もう1度、時計を見る。そして女性は、つんのめるようにして、さらに走る速度を上げる。
バスはあと3分もしないうちに、出発してしまうはずだった。そして彼女の頭には、ここからバス停まではいくら全力で走ったとしても、最低4分弱はかかってしまう計算式が成り立っていた。汗が頬を伝い、足元に落ちる。全身が汗ばみ、ジーンズとパーカーが肌に張り付く。喉は干上がり、短く浅い呼吸が唇の間から漏れる。
焦眉する女性はそこで、すがるような思いで左手のほうに視線を動かした。最終手段だ。女性は思い、道を斜めに横断する。毎日の通勤で、彼女はもう少し行ったところに、小さな公園があることを記憶していた。そしてその公園を横切ることで、時間を1分は短縮できることも、もちろん知っている。不審者がかつて出たという噂があるために、彼女は普段、多少遠回りになってもこの公園は通らないようにしていたのだが、この際、背に腹は変えられない。ためらうこともなく、進行方向を変え、公園の中に侵入する。
そこは遊具が2、3個あるだけの、ささやかな公園だった。それも滑り台やアスレチックなどの類はなく、シーソーやブランコなどの小ぢんまりとした遊具が、薄暗がりの中に佇んでいる。彼女が夜にこの公園に入ったのは、これが初めてだった。
女性は速度を落とさぬまま、しかし周囲をきょろきょろと窺って、背筋に寒いものを覚える。夜の公園に不気味な印象を受けたからだ。昼間ではなんてことのない、大きな樹木でさえも、巨大な人間の手のように見える。こんなところ、早く立ち去るに限る。女性は前方に見える出口を見据え、そこまで一心不乱に駆け抜けようとする。
そのとき。
女性は髪を捕まれ、後ろに引っ張られるような感覚を受けた。強い力ではなかったが、呼び止められた感じだった。ぎょっとして、足を止める。素早く辺りを見回す。
ところが近辺には人っ子一人どころか、猫の子一匹さえも見当たらない。気配さえもない。少しうろうろと歩き回ってみるが、やはり何者の姿も認められなかった。先ほどの感覚は気のせいだったのだろうか。久々に走ったものだから、酸欠で軽く眩暈をおこしたのかもしれない。女性は自分に言い聞かせ、嫌な想像を頭の中からかき出そうとする。
神経を集中させてみると自分の心臓がやけに大きく聞こえ、思わず胸に手をかざした。そして肩で息をしながら女性は、自分がいま公園のちょうど真ん中あたりに立っていることを知る。
日中、賑やかなイメージの強い“公園”という場所だからこそ、こうして静寂と闇の中にこんこんと沈んでいるのを見ると、何だか取り残されたような気分になって恐ろしさが這い上がってくる。夜の学校や病院が怖いのと同じ理屈だ。普段の明るい表情が目立っているからこそ、その裏側に潜むもう1つの姿に、人は怯えを抱いてしまう。
さらにたちの悪いことにこの位置から、月を見ることはできなかった。この公園からの角度では、雲の向こうに隠れてしまっているのだ。唯一の照明である外灯は切れかけているようで時折明滅し、不安定な明かりを公園内に提供している。外灯の光は途絶え、再び点灯する度にジジジ、と死にかけの蝉のような音を漏らす。孤独な公園にはそんな些末な音でさえも、まるで出血部を塞いだガーゼのように皮膚の内側まで染み入ってくるようで、女性は思わず唾を呑み込んだ。
こんな場所にいるのも、退社間際になって仕事を押し付けた上司のせいだ――頭の中を無理やり憤りで満たし、彼女は公園の出口へと足を踏み出す。草むらを踏みしめたため、足元でくしゃりと音がした。
「ねぇ」
声が聞こえた。女の声だった。甘ったるい、媚びるような声だった。胸の奥で心臓が飛び跳ねる。女性は5秒ほどその場に硬直した後、恐る恐る首だけで振り返った。
そこには、また、誰もいなかった。
生ぬるい風の中に、遠方で走り抜けていく自動車のヘッドライトが浮かんでいるように見える。覚束ない外灯が一際大きな音をたてて、明かりが弾けた。
ゴトリ、と何かものが落ちる音がした。それはデスクの上に、カバンを乱暴に放ったときの音によく似ていた。不可解な事象が気づき、神経が過敏になっていた女性は、ひっと声をあげて跳びあがった。
唇を震わせたまま、石像のような顔で、足元に目を移す。初め、彼女はそれが何かわからなかった。それがあまりにも常識を逸していて、信じられないものであったがために、意識がついていかなかったのだ。しかし徐々に、思考回路が繋がり、頭の中で音をたてて歯車が回り始める。
重ねて襲い掛かったのは、激痛。そして喪失感。恐怖感。脳に靄が生じ、目の前がかすんで見えなくなる。
手からハンドバックが零れ、地面に落ち、鈴が1つ震えて呻く。その後を追うように、女性は天を裂くような叫び声をあげていた。
彼女が見たのは、まるでゴミのように地面にうち捨てられた、自分の左手首だった。
その“怪物”は、微笑みを湛えながら女性の前に立っていた。背丈は女性と同程度、二本足で立つ“怪物”は基本的な部分で人間と似てはいたが、そのシルエットは大きく異なる。
闇の中で映える白色の身体に、額から突き出た2本の大きな角。岩のような顔面に、小さな朱色の双眸が光っている。右腕は人間と同じく5本の指があるが、左腕の手首から先は黒く大きな鋏になっていた。腰周りには薄茶色の布が巻かれ、左足首には赤色のアンクレットがはめられている。
女性の声が消え失せるその瞬間を待つことなく、彼女の前に立っていた“怪物”は女性の首を左腕の鋏で切り飛ばした。そして血だまりの中に崩れ落ちる女性に目をくれることもなく、彼女のハンドバックと左腕を、両手で丁寧に拾い上げる。
“怪物”は愛おしげに女性のそれら2つの遺品を腕の中で抱えると、大きくジャンプし、月の隠れた空の中に姿を消した。
女性が公園に入ってから、1分足らずの出来事だった。何事もなかったかのように、あたりは静けさを取り戻し、外灯は相変わらず不気味な明滅を繰り返している。
その傍らの茂みに、小さな鏡が引っかかっている。携帯電話の画面ほどの、四角い小さな鏡だ。誰かの落し物なのか、それとも意図的にそこに放られたものなのか。鏡は鉄の臭いに満ちた公園の中で、自己主張するように外灯の光を反射し、輝いていた。
多くの人たちからキャラクターを使わせていただく許可をとり、書いています。その皆様の思いを無駄にしたいためにも、頑張って執筆していきたいと思いますのでよろしくお願いいたします。