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2019年/短編まとめ

愛すべきフォンダンショコラから

作者: 文崎 美生

時折、書斎から微かな呻き声が聞こえる日が続いていた。

MIO(ミオ)ちゃん曰く、書斎の主たる(サク)ちゃんは仕事が修羅場に陥ったとしても、癇癪は起こさず、しかし内に溜まったモノの吐き出す場所を探し、あー、とか、うー、とかの母音で呻くらしい。

その光景については、同棲後、何度も見掛けているので、まぁ、あまり不思議に思うところはなかった。


在宅ワークの修羅場と言えば、割と缶詰になることが多く、息抜きの機会すら与えられずに悶々とすることが多い。

物作りに携わると、刺激が必要だ。

こう、外に出て新しい知識や感性を手に入れることは、萎む心に水をあげることであって、それでまた創作意欲が溢れ出るというもの。

それがなく、何なら、食事時すら顔を見せない作ちゃんは、刺激どうこう以前に、生きている人間としてヤバい。


「ヤバいと思うんだ」

「思うってか、ヤバいんだよ」


近所のスーパーに出て来て、合流したMIOちゃんは、相変わらずきゃらきゃらと楽しそうによく笑う。

しかし、ヤバいと断言するところには、密かな毒を感じるが。

学生の頃は腰まで伸びていた赤い髪も、変わらない鮮やかさを保ったまま、それでも肩口手前で短く切り揃えられていた。


「大学までは、オミくんに飛び掛ってお腹に呻き声を叩き付けてたんだよ」

「何それ俺知らない」

「だからヤバいんだよ」


俺が僅かに眉を寄せたにも関わらず、MIOちゃんは笑い、スーパーのカートの上下にカゴを置いた。

ガラガラと押し出したMIOちゃんから、やんわりとカートを奪えば、今度は少しばかりイタズラっぽい笑みが向けられる。


「楽しい?」

「え?」


MIOちゃんは一瞬俺の顔を覗き込んだが、あ、と声を上げて青果売り場のいちごをカゴに入れた。


「作ちゃんと暮らして、楽しい?」


丁寧に切り揃えられた前髪の下には、ちゃんと笑顔が浮かべられている。

目尻も眉尻もまだまだ下がっていない。

その笑顔を横目に「うん。楽しいよ」と俺は答える。


「作ちゃん、本沢山持ってるから、よく借りるようになったんだけどね。純文学とか、あんまり読まなかったから新鮮だよ」

「あぁ……作ちゃん、純文学は全部取りそろえてます、みたいな本棚してるから」

「嫌そうな顔しないでよ。MIOちゃんの写真集もあったんだよ」


いちご以外に、りんごやみかんもカゴに入れていったMIOちゃんは、俺の言葉にぼんやりと頬を染める。

波打つ唇が喜色を示しているのが分かった。

「当然だよね」嬉しそうな横顔で、驚くほどに自信満々な声色でその言葉を吐かれて、俺は苦く笑う。

幼馴染みという決して短くも細くもない縁で繋がれた二人は、確かに自信喪失する必要がないほどにお互いを知って、お互いを思っている。

いや、もう、それは羨ましいほどに。


「……まぁ、でも、俺もMIOちゃんは好きだし」

「えっ」

「え。いや、そうじゃなくて、友達だし」

「うん。そうじゃなかったら、張り倒してる」

「怖い」


果物だけをカゴに収め、野菜には見向きもせずに歩き出したMIOちゃんについて行きながら話すが、俺の言葉にアーモンドのような瞳が丸まった。

次の瞬間には、取り繕ったような笑みを浮かべて、右手をビンタの要領で素振りする。


ヒュンッ、ヒュンッ、と音を立てて空気を切る小さな手を見ながら、俺は続けて「(アヤ)ちゃんも、オミくんも好きだよ」と言う。

もちろん、友情的な意味で。

友人的な意味で、親愛的な意味で。


高校時代はほぼ毎日のように顔を合わせていたメンバーで、なおかつ、MIOちゃんを含めた三人は揃って作ちゃんと幼馴染みで、そんな四人は常に一緒だった。

高校入学後すぐにMIOちゃんと親しくなり、他の三人と知り合うのは必然的で、有難くも卒業した今でも変わらずに友人としての縁を紡ぎ続けている。


「でも、作ちゃんは違うんでしょ」


卵はあるの?と聞きながらの言葉に、流されるように頷く。

「でもあった方がいいよね」と更に続けてカゴに卵のパックを入れるので、何で聞いたの、と問いたい。


「と言うか、同じだったら引っ掻くかな」


含み笑いが聞こえたが、弧を描く口元を抑える指先に自然と目が向く。

原色そのままとも言える赤い髪に比べ、大人しすぎるという印象のアプリコット色をしている。

だけども、長さがあって普通に皮膚裂いて肉を抉るイメージが簡単に出来てしまう。


「……好きにも色んな種類があるけど、MIOちゃん達への好きと作ちゃんへの好きは違うよ。俺は、作ちゃんに親愛なんて言えないから」

「うん。それでいいんだよ。むしろ、そうじゃなかったら、今日なんて付き合ってないもんね」


目尻が少しばかり下がるのを見た。

ついで、カゴの中にはバターが放り込まれる。


「それはそれとしてさ」

「うん」

崎代(サキシロ)くんって、そんなにお菓子作りするの?」


次は調味料売り場だよ、と迷いなく足を進めるMIOちゃんに、俺ものんびりついて行く。

MIOちゃんの目は、高めの明るい天井からぶら下がっている商品案内の看板をきちんと見ていた。


「ゼロではないけど、作るよ、って断言も出来ないかなぁ……。人並み?」

「普段、お茶の時間はどうしてるの?」


動きやすそうな柔軟性のあるパンツルックのMIOちゃんは、商品の並んだ棚を前に、下の方の商品を見るために素直にしゃがみ込む。

砂糖は家に普通にあるということでスルーし、薄力粉を選んでいた。


「差し入れとかいっぱいあるから……」

「あぁ……。分かる……」


キッチンの戸棚に入れっぱなしのクッキー缶などを思い出す。

それに関してはMIOちゃんも身に覚えのあるところらしく、若干遠い目になって薄力粉をそっと棚に戻した。

写真集を出して個展も開いている写真家のMIOちゃんも、差し入れの量は多いのだろう。


俺のところは、俺のと作ちゃんので二人分置いてあるので、殊更、場所をとるのだが。

その辺を察したMIOちゃんは「虫歯にならないようにね」と言う。

いやそれは本当お互いにね。


「差し入れが嬉しくないわけじゃないんだけどね。やっぱり、私も自分で作ったりは減ったかな」


薄力粉のパッケージ裏に記されている成分表示などは見るわりに、値段は見ていないようで、そのままカゴに放り込まれた。

チラリと確認したところ、棚に並んでる薄力粉の中でも、一番高いやつだった。


「俺も最初はクッキーとか作ってたんだけどなぁ」

「可愛いね」

「えっ。照れるよ」


放り込まれた薄力粉をカゴから取り出し、裏の成分表示を見てみるが、他のものと見比べていないのでいまいち何が違うのか分からなかった。

それとは別に、MIOちゃんのお菓子作りに関しては、高校時代にも見たことがあり、よく揃ってお茶をしていたが、慣れた様子だったことを覚えている。


「後は、チョコレートかな」

「ビターでいいんだよね?」


カゴの中身を見るMIOちゃんの言葉に、俺は一つ問いかけを投げた。

俺の問いかけに頷いたMIOちゃんと一緒に、素直にお菓子売り場へ向かう。


「砂糖も混ぜるし。チョコレートの生地に、チョコレートが溢れてくるならビターのがいいよ」


ミルクだと甘過ぎるから、とMIOちゃんは続ける。

俺はお菓子作りに関しては、レシピがあれば出来る、といったタイプで、それに反してMIOちゃんはレシピなしにも覚えていて、更にはアレンジもかけられる実力なのだ。

この差は、お菓子作りにおいては大きい。


例えば、普通にご飯のおかずを作る時には、レシピがなくとも大凡の勝手が分かっていれば出来る。

味付けも慣れてしまえば、目分量だ。

作ちゃんなんか、リットルの醤油をそのまま鍋に計ることなく注ぎ込む。

その逆で、出汁を取る時には必ず同じ分量、同じ手順で行う矛盾っぷり。


「あ、そうだ」


子供が数人いるお菓子売り場に着いたところで、MIOちゃんは手を伸ばしてカートの動きを止めた。

赤い毛先が小さく揺れて、俺を振り返る。

まつ毛は黒いんだよなぁ、と思う俺にMIOちゃんは「私が付き合えるのは、買い物までだからね」と釘を刺す。


「この後、次の写真集の打ち合わせだから」


人差し指と中指がピンッと立たされて目の前に突き出される。

ふふん、と効果音の付きそうな得意げな笑みを向けられた。


「やっぱり?……あと、多分、作ちゃん発売予定出たらすぐに予約すると思うなぁ」

「レシピはあげるから。それと、発表予定出たら、書店特典とかと一緒に知らせるね」


レシピ、と言った通り、MIOちゃんはミリタリージャケットのポケットから四つ折りの紙を出す。

受け取り、開けば女の子らしいカーブの緩やかな文字が並び、小さな絵も添えられている。

「可愛いね」素直な感想だったが、横腹に手刀を叩き込まれた。


「そうじゃなくて。ちゃんと、作ってよね」


おもちゃがメインのお菓子を見ていた子供達が、俺達を見ていた。

MIOちゃんはそんなこと気にした様子もなく、チョコレートの並んだ棚から、黒いパッケージのチョコレートを五枚掴んで入れる。

レシピを見れば、五枚も必要ないのだが。


「大事なのは、愛だよ」


ツヤのあるアプリコット色の爪が俺に向けられて、俺は目を細めて頷いた。


***


チョコレートを刻んで、バターと揃って湯煎で溶かしたそれを前に、既に甘い匂いで満たされたキッチンの空気を吸っては吐き出す。

買い物を手伝ってくれたMIOちゃんは、俺が支払いを終えて袋詰めまで手伝ってくれて、スーパーを出ると「じゃあ!」と元気にバンザイの形で大きく手を振って別れた。


別れた後、俺はレシピ通りに進め、薄力粉を振るい終わったところだ。

久方振りに、お菓子作りをして、楽しむドキドキではなく緊張のドキドキを感じている。

料理自体は、普段の食事として自炊するためにキッチンを使うけれど、やっぱり勝手が違う、というのが本音だ。


「愛かぁ……」


卵を二つ、別のボウルに割り入れながら呟く。

作ちゃんに習って、辞書で引けば、そのものの価値を認め強く引きつけられる気持ち、とある。

また、可愛がり、慈しむ心。

更には、大事なものとして慕う心、とある。


辞書で引いたところで、成程、と思っても、納得するところではない。

MIOちゃんが言いたいのも、そういうことではないのだろう。


丁度一ヶ月前に、締切に追われて燃え尽きた俺に差し出されたマグカップの温もりは、記憶に新しい。

それを俺は、愛と考えよう。

辞書に記された三つのそれのどれに一番噛み合うのか、そんなことは知らないが、ドロリとした甘いカカオを俺は愛だと考える。

事実、消耗し切った心身に、その甘さは染みた。


「でも、まぁ、難しいよなぁ」


シンクの三角コーナーへ卵の殻を入れ、あらかじめ計って置いた砂糖をボウルへ更に追加する。

一ヶ月前に差し出されたホットチョコレートは、もちろん、美味しく頂いたが、俺にホットチョコレートを渡した後の作ちゃんは書斎に立てこもった。

照れての籠城ではなく、単純に仕事のため。


こう、俺は素直に作ちゃんを好きだと言えるが――当然恋愛の男女の意味で――作ちゃんは基本的に嫌いじゃないから好き、というひどく曖昧な好意だ。

時折、それを好意と呼んでいいのか分からなくなる。

しかし、俺よりも長い付き合いのあるMIOちゃんから言わせればそれは間違いなく好意らしい。


「バレンタインチョコだと思うんだけど。本人はそう言ってないし。でも、俺は嬉しかったし」


泡立て器でカシャカシャと軽快な音を響かせて、ボウルの中身を混ぜる。

レシピには、砂糖のザラりとした感覚がなくなるまで混ぜる、と書いてあったのでとにかく混ぜる。


特別、愛してるとか好きだとか、そういう言葉を欲しているわけではなかった。

そもそも、作ちゃんの性格を考えれば、好きでもない人間と付き合うことはない。

当然、それに同じで、同じ時間を共有するのに苦痛な人間とは同棲出来ないだろう。

傍から見れば、なんてハードルの低い話をしているのかと思われても、俺達にとっては割と真面目に大切な話である。


ザラつきが消えたボウルを見下ろし、それに、チョコレートとバターを溶かしたもう一つのボウルの中身を投入した。

それを更に混ぜて、振るいにかけた薄力粉を入れ、今度はゴムベラで混ぜる。

レシピには目つきの悪いイノシシが描かれ、そこから伸びた吹き出しに『粉っぽさをなくせ!!』と書いてあった。

なんで、イノシシなんだろう。


疑問を抱きながらも、混ぜ、すっかり粉の白さが消え、用量の増えた生地が出来上がる。

後は、前もってバターを塗っておいたマグカップに分けて入れていく。

分量を計ったり混ぜたりするよりも、タネを入れる作業の方が神経を使う気がするのは気のせいか。

周りを汚さないように入れ、残っている板チョコを銀紙を付けたまま割り、小さくした欠片を重ねて生地の真ん中へ押し込んでいく。


既に余熱を終えているオーブンに入れて、時間を設定してスタートボタンを押す。

軽快な音が響いてから、俺は無意識に詰めていた息を吐き出した。


ホワイトデー近くになって突然連絡をしたにも関わらず、嫌な顔一つ見せなかったMIOちゃんには本当に感謝しかないな、とオーブンを見つめて思う。

瞬きをしてから、使った道具を洗うために立ち上がる。

レシピは濡れないように折りたたんで、エプロンのポケットに入れた。


「嫌な顔どころか、レシピまで用意してくれたし……」


連絡の内容はバレンタインデーの出来事と、それに対するホワイトデーの対応だった。

学生の頃なら、迷わずにホワイトデーに贈り物をしたが、生憎、今年のバレンタインデーを思い返せばなかなか出来ない。

単純に、俺も作ちゃんもバレンタインデーに貰った贈り物の消化が出来ていないから、というだけで、重くもなければ深くもない話だが。

MIOちゃんにも身に覚えのある話らしく、分かる〜、と明るい声も聞けた。


スポンジを泡立てながら、お湯と水に漬けておいたボウルや泡立て器を泡まみれにする。

モコモコとした白かったはずの泡が、茶色っぽくなってしまう。


蛇口を捻り、茶色っぽくなった泡を流す。

ちなみに、作ちゃんが食器洗い機は構造がいまいち分からないので、あまり使いたくないと言って俺達の家には存在しない。

乾燥機もまた然り。

全て洗い終えて、手の水を弾き、引っ掛けてあるタオルで手を拭く。


「……MIOちゃん様々」


呟きながらオーブンを見る。

まだ焼き上がりには時間がかかりそうで、俺は冷蔵庫の野菜室を覗き込む。

MIOちゃんがカゴにぼんぼん入れた果物が詰め込まれていて、順番に消費しなくては行けないな、と思う。


学生の頃には、大量の果物やマシュマロで、チョコレートフォンデュをした覚えもある。

ちなみに、MIOちゃん達の実費で機械を購入していた。

その流れで、MIOちゃんがレシピに書いてくれたフォンダンショコラも、作って貰って食べたことがある。


懐かしいなぁ、と目を細めて野菜室を閉じた。

焼き上がるまでに少し、作ちゃんの様子を見に行こうかな。

考えて、そっと書斎へ近づく。

閉じられた扉からは、特別物音は聞こえない。

扉に耳を付けて見ても、聞こえない。


基本的に、こもる時には鍵を閉めているので、ドアノブを捻っても開かないだろう。

MIOちゃんじゃなくても、文ちゃんもオミくんも気配がせずに夜中のシャワーなどがなくなった際には、問答無用で扉を壊せとのお達しがあった。


俺は、そのまま扉に背中を預けて座り込み、膝に額を当てて目を閉じる。

じっとしていると、僅かな物音が聞こえてきそうだ。

本を捲る音や、ペンが紙の上を走る音を思い返しては、扉の奥から聞こえたような錯覚に陥る。

ぼんやりとして、船を漕ぎそうになった時、キッチンの方からオーブンが焼き上がりを知らせた。


「あ、やばっ」


近寄る時には気を付けたものの、慌てて足音を隠さずにキッチンへ走る。

キッチンには香ばしに匂いで満ちていて、焦げ臭くはなく、鍋つかみをひったくるように取り、慎重にオーブンの扉を開けた。


ぶわりとチョコレートの甘い匂いがして、取り出せばふっくらとしたチョコレート色の生地が輝いて見える。

ちゃんと焼けているのか、竹串を刺して確認すれば、プスリと入ってすんなりと抜けた。

綺麗なままの竹串の先端を見て、よし、と頷く。


戸棚に入れてあったトレイを引っ張り出し、その上にチョコレートフォンデュとフォークを並べてもう一度書斎へ向かう。

歩く度に、カップとフォークがカタカタ音を立てた。

書斎の扉の前で止まれば、その音も止んだが、今度は考え込む俺の動きの微細な振動でまた音がしそうだ。


息を吸えば、甘いチョコレートの香りが鼻を擽り、吐き出して同時にノック。

作ちゃんの『ノックの回数にも意味がある』という発言から、作ちゃんの寝室も書斎も、三回ノックがベターとなった。

三回叩いたが、暫く待っても返答はない。


おや、と思い、もう三度。

コンコンコン――ガチャ、沈黙を挟んで、鍵が回される音と扉の開く音。


「……はい」


長い前髪がぬるりと扉の隙間から現れ、僅かに上げられた顔で前髪が流れ、黒目が覗く。

元々白い肌が青さを際立たせ、目の下には目立つ色濃い隈があった。


「お腹、減ってない?」


ガラス玉のような黒目に俺が映っていて、それを見ながら俺は考えた結果に当たり障りのない問いかけをする。

緩慢な瞬きで、まつ毛が揺れた。

それから、皮が小さく剥けた唇が開くよりも先に、薄っぺらなお腹の方が――ぐぅ、と返事をする。


笑い声を殺し、笑みを浮かべてトレイを掲げれば扉が大きめに開かれた。

無言で黒いシャツの袖を捲り、フォンダンショコラの収まったマグカップを左手に持つ。

右手にはフォーク。

小さく「頂きます」と聞こえた。


仕事モードが切れていないようで、反応が鈍く静かだ。

じっとフォンダンショコラを見下ろして、そっとフォークを差し込む。

生地が柔く窪んだ。


「……ど、どう?」


中のチョコレートを巻き込んで生地に添え、そのまま口に放り込んだ作ちゃんは変わらず無言で、咀嚼音も静かだった。

表情を作る気がないような表情筋が、咀嚼のために動く様を見ていて、トレイを抱きながら問う。


「うん、うん……」ゆるゆると頷く作ちゃん。

元々生気のない瞳だが、今日は特に生きた心地のしない、本物のガラス玉のようだ。


「……うん、美味しい」


ほぅ、と緩やかな息が吐き出された。

よく咀嚼してから飲み込む動作を繰り返して、マグカップの中身がどんどん減っていく。

口の端に付いたチョコレートは、舌先で舐め取る。


「あぁぁぁぁ〜、よかったぁ」

「……」


その場にずるずると座り込めば、頭上に突き刺さる視線。

マグカップとフォークの擦れる高い音だけが、俺達の間にいた。


「……作ちゃん」

「ん」


カラン、とフォークがマグカップの中に収められる音がして、顔を上げればやはり目が合う。


「バレンタイン、ありがとう」

「……」


作ちゃんがゆったりと膝を折り曲げ、指先でちょい、とトレイを引っ張り、マグカップとフォークを置いた。

目線がピッタリ、同じ場所にある。


「どういたしまして、ご馳走様」


指先が俺の手を撫でた。

骨の浮いたところを擽っていったとも言える。

俺は目を丸めて、薄い笑みを刻む。

パタン、と音を立てて扉が閉まるまで、俺はその場を動けなかった。

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