3話 救命
地図とか登場人物の紹介とかもそのうち載せます。
羊飼いトーマスの家で食事と睡眠をとった翌日、滝と三橋はトーマスの仕事の手伝いをしていた。
鍬を持ち小さな畑を耕したり、鶏に餌をやったり・・・今まで自衛隊幹部としてデスクワークが多かった滝と三橋にとっては久しぶりの肉体労働であった。
(意外と汗をかくな)
重い鍬を持ちながら滝は思った。
車といった文明の利器を知らないこの異世界。当然、農業の方法も機械ではなく人力に頼ったものである。
重い鍬を持ち上げるたびに腕の筋肉が軽い痛みとともに躍動し、地面に振り下ろすと同時にどしんと腕と土が震える。
久しぶりの肉体労働、その上、滝は45歳のりっぱな壮年の男性だ。少々きつい。鍬を一回動かすたびに汗が出そうだ。仕事の前に制服を脱いでおいたが正解だったらしい。
動きを止め片手で鍬を杖のように持ち、少し休んでいると声がした。
「統幕長、変わりますよ」
声の主は部下の三橋三佐だった。制服の所々に麦か米粒の殻のようなものがついている。どうやら鶏や家畜への餌やりを終えたところらしい。
「統幕長に畑仕事やらせるなんて申し訳ないですよ」
「いや、いいさ。久しぶりの肉体労働だ。結構いんもんだぞ、体を動かすのは」
滝は笑いながら言った。
「ここ最近デスクワークばかりで満足に体も動かせなかったし、その上、激務のおかげで毎日寝不足だったからな。昨晩たっぷり寝かせてもらったうえに、昨日いただいた食事も悪くなかった。この畑仕事も体動かすのにはちょうどいいしその上空気もうまい。ここにいたら健康になれるんじゃないか」
ここ最近激務が続いていた滝達だったが、昨日たっぷり睡眠をとり、農作業で体を思いっきり動かしているからか、いつもより清々しい気分がしていた。
「かもしれませんね、案外此処の生活も悪くないかも」
滝の言葉に三橋も冗談を言って笑った。異世界に迷い込んで翌日のことである。まだ状況を完全に把握したわけでも元の世界に戻る方法を見つけたわけでもない。普通、異世界に転移でもしたりしたらこんな風に冗談を言い合って平常心を保っているなどできなさそうだが、彼らは特に慌てたり悲壮感に襲われている様子はなかった。いや、あるいはこういう状況だからこそ平常心や余裕の心を保とうとしているのかもしれない。
「・・・出来れば今すぐにでも日本に帰りたいがな」
滝はそう呟き空を仰ぎ見た。
名前も知らぬ鳥がさぁっと大空を翔けて飛んでゆくのが見えた。
午前中の労働が終わり、しばしの休憩とパンとチーズの簡単な昼食の後、滝と三橋は桶を手に持ち近くの川まで水を汲みに行っていた。トーマスの手伝いというのもあったが、この世界をもう少し探索してみることも兼ねてのことだった。水道設備が整っていないこの世界、水を得るのも一苦労であり重要な仕事だった。
一応公用車もあるが残りのガソリンのことなども考えればおいそれとは使えない。
桶を担いでしばらく歩いていたが、やはり風景は昨日と変わらず青い草原と青い空がどこまでも広がっている。遠くには連なる雪山の山脈。どうやら機能の探索以上の成果は得られそうになかった。
「あ、統幕長あの川じゃないですかね?」
三橋が声を上げ指を差した。指先の向こうには草原を分かつように細い川が流れていた。
「多分そうだろうな。トーマスのじいさんの家から歩いて15、20分くらいか・・・そんなに遠くはなかったな」
観察すると水は透明で底まで見えるぐらいに澄んでいる。飲用に適しているようだ。もちろん澄んでいるからと言ってその水が飲めるわけではない。寄生虫や病原体、重金属といった有害物質が含まれている可能性があるが、この豊かな自然の中を流れる川である。それにトーマス一家が常に利用している川だ。少なくとも変なものは入っていまい。
「よし、それじゃあ水を・・・ん?」
滝が川まで走って水を汲もうとしたその時だった。
視界の端に何か気になるものが写った。
それに焦点を合わせてみると、川辺に白い、それなりの大きさの・・・大型動物ほどの大きさ、あるいは人間ほどの大きさのものが横たわって見えた。
「あれは・・・なんだ?」
「近づいてみましょう」
桶を手に持ったままそれに近づいてみる。正体はすぐに分かった。
「人だ!人が倒れているぞ!」
純白の高級そうな衣服に身を包んだ若い女が川辺に寄りかかるように倒れていた。うつ伏せになって両腕をだらりと地面におろし、下半身は完全に河に浸かっている。
どうすべきなのかはすぐに分かった。
「もしもし、大丈夫ですか!?もし!」
滝と三橋はすぐに女性の元に駆けつけ、その体を川から引き上げ仰向けにして地面に横たわらせた。
緊急時の救命処置の方法なら二人とも防衛大学校で習っている。もちろんあくまで応急措置は応急措置であり医者や専門家がいたほうが理想的なのだが、だが近くには頼れそうな人はいないし当然のことながら病院や救急車は無い。自分たちで何とかするしかないのだ。
軽く頬を叩いたり声を掛けたりして意識があるか確認する。だが、反応はない。唇は青く、頬も青白い。
川辺で倒れていたところ見ると溺れてそのまま意識をなくしたのだろう。誤って水を飲みこんで気道に水が入ってしまっているかもしれない。いずれにせよ危険な状態だ。やるべきことは決まっている。
「三橋、トーマスの爺さんを呼んできてくれ!俺は救命処置をする!早く呼んできてくれ!」
「分かりました!!」
滝の命令を受けトーマスがいるであろう家に向けて三橋は走り出した。こういう時はスピードと的確な判断が必要だ。
滝は胸骨圧迫と人工呼吸を試みることにした。
女性の胸に手を当てることになるので一瞬躊躇しそうになったが、人の命がかかっているのだ、すぐに両手を組み胸の真ん中、肋骨の下半分あたりに置く。そのまま体重を掛けるようにし、両腕に力を入れて胸部を圧迫する。強く、早く、絶え間なく。
胸骨圧迫を始めてほどなくして突然、女は口からゲホッと水を吐き出した。
胸骨圧迫をやめすぐに顔を横に向けた。咳き込むように女は水を吐き続けたがすぐに咳き込むのは止まった。飲み込んだ水はすべて吐き出したらしい。だがまだ油断はできない。
胸骨圧迫を続ける一方で、滝は人工呼吸も行う。気道を確保し、顎を下すようにして口を開き、唇と唇を合わせ酸素を送り込む。
それまで青白かった唇がだんだん血の気を取り戻し、青白く生気のなかった頬がほんのり赤くなってきた。見ると意識こそ回復していないが、胸を静かに上下させながら小さいながらも安定した呼吸をしている。首に手を当てた。脈も安定している。
どうやら命の危険は脱したらしい。胸骨圧迫と人工呼吸が功を奏したようだ。
ほっとため息をついて滝はその場にへたり込んだ。
何とか、助けられたか。
そう思いながら滝は改めて助けた女を見た。
先程まで女を助けることに気を取られてよく見ていなかったが、改めて観察するとどうやらこの女はそれなりのあるいはかなりの社会的地位を持っていそうな人だった。
純白の生地を下地にコバルトブルーの生地やフリル等で華やかに仕立て上げられたドレス。全体的に絹などのかなり上質な素材で作られているようで、仕立てもきっちりとしている。胸には宝石のはめ込まれたブローチ。見ただけで明らかに上流階級の人間だと分かった。
そのまま女の顔を観察する。つやつやした、ハリのある肌。まだ若い、白人のヨーロッパ系の少女であった。歳は17、18ほどだろうか。美少女だった。筋の通った先が少しつんとした高い鼻。ぷっくりとした唇。ハリのあるつやつやとした光が透き通りそうな西洋の白人女性特有の白い肌。長いまつげをたたえた繊細そうで大きい目。今はまだ瞳を閉じたままだがその奥には宝石のような輝く瞳があるに違いない。子供のようなあどけなさと繊細さがあり、触れただけで壊れそうな感じがした。
なによりも全体的に品がある。上品な顔立ちだった。
貴族の娘か、資本家とかの娘か。いずれにせよ服装と顔立ちから滝はすぐにこの美少女が上流階級に属する人間だと分かった。
どうやら俺は大変な人間を助けてしまったかもしれん、と思い頭をポリポリ掻いた。
さて、どうしたものか。このまま放っておくわけにもいかない。川に浸かって全身が濡れているからすぐに着替えさせて体を拭いてやらねばならないが、相手は上流階級に属していそうな少女だし・・・
これからどうするか、考えていると少女の細い指がぴくん、と動いた気がした。
咄嗟に少女のほうを見る。
ううん、と小さく唸りながら長いまつげがピクリと震え、ゆっくりと瞼を開き青い透き通るような瞳をあらわにする。腕を動かし地面をトントンと探る。
どうやら意識が回復したようだ。
青い瞳が滝の姿を捉えた。
「お気付きになりましたか、お嬢さん。大丈夫ですか?」
滝は覚醒した少女に声をかけた。
それが日本国自衛隊統合幕僚長滝慶一郎とヴァルトシュタット王国女王リーデリケ・メルセン・フォン・ヴァルトシュタットの最初の出会いだった。