2話 状況
羊飼いトーマスと出会い、彼の家に厄介になることにした滝と三橋は公用車に乗り目的地に向かっていた。
当初滝はトーマスとその孫ハンスも一緒に乗せようと提案したが、トーマスは家が近いし羊たちを率いて連れて行かねばならないからと固辞しハンスのほうも祖父について行きたがった様子だったので、彼らは滝達とは別に徒歩で進んでいる。
徒歩で進む彼らと羊達を誤って轢くことがないように、滝達は公用車をゆっくりと注意して運転せねばならず、その動きは遅々としたものだった。おまけに公用車に乗り動かそうとした途端、その様子を見てトーマスやハンスが驚き、興味津々に公用車に触ったり覗き込んだりしたのでますます遅れ、築けば太陽が沈もうとしていた。車というものがないこの世界の住人である彼らにとって滝達が乗ってきた公用車は珍しいものだったのだ。
公用車に乗りながら滝は三橋とこの世界について議論を交わしていた。
「三佐、君はこの世界についてどう思う?」
「はぁ・・・統幕長、正直自分でも信じられないのですが・・・やはり・・・」
「構わん。貴官の思うところを述べてくれ」
言うのを憚っている様子の三橋に発言を促す滝。
「は。統幕長を待っている間いろいろ考えましたが・・・やはりこの世界は東京はおろか日本・・・我々のいた世界ではありません。この大自然、東京都は明らかに違う景色。我々は朝霞駐屯地に向かっていたはずですが、霧を抜けた途端、この景色の中に、この世界の中にいました。つまり・・・」
「もったいぶった言い方をするな。直接言え」
「はい。我々は、その・・・違う世界に・・・異世界に迷い込んでしまったのではないかと考えました」
異世界という言葉に滝は黙り込んだ。
その様子を上司の不服と受け取った三橋はあわてて付け加えた。
「ああ、統幕長これはあくまで仮説であって、自分でも突拍子もないことだということは分かっています。ただ、これ以外に状況を説明できそうなのが・・・」
「分かっている。正直自分も同じことを考えていた。事態を説明するにはそれ以外になさそうだ。実は捜索しているときに変わった花を見つけてな」
「花・・・ですか?」
うん、と滝は頷いた。
フロントガラスの向こうでは、太陽が連なる山々の陰に隠れ、オレンジ色とも紫ともつかない光のグラデーションが空と山と大地を包み込んでいた。東京でも日本でも見慣れた光景は今見ると幻想的でこの世のものとは思えなかった。
「花は桜に似ているんだがな。茎が途中で二股に分かれてそれぞれの先端に花が咲いているんだ。雄蕊も雌蕊も変わった形になっている」
「茎が二股に、ですか。確かに日本じゃ見かけない花ですね。」
「ああ。本当に異世界なのかもしれないな・・・」
滝はじっと窓ガラスの向こうの夕日を眺めていた。
そうこうしているうちに滝達はトーマスの家についた。
着いた時には日はすっかり暮れ夜になっていた。東京とは違い空気が澄んでいるここでは満天の星空が輝いていた。
トーマスの家は簡素でしかしそれなりの大きさはあるものだった。
中に入ると、それほど装飾は施されてはおらず慎ましいがしかしテーブルや暖炉、ベッドといった設備はしっかりと整えられていた。
それなりにちゃんとした暮らしを送っているらしい。
それから滝達がしばらく寝泊りする部屋として空いている寝室を供された。
聞けばこの家には寝室が二つあるが一つはトーマスとハンスのもの、もう一つはハンスの父と母のものであったが、母はハンスを生んで直ぐに亡くなり、父のほうも今は軍隊にとられているとのことであった。
パンとチーズとスープの簡単な夕食を共にとりながら滝と三橋はこの世界のことについて情報を得ていった。
この国はバルトシュタット王国という小さい王政国家であること、つい最近国王が亡くなり、今はフリーデリケという十七歳の若き女王が即位していること、東西南北にフランベル王国やコーシェンコ王国といった強国に囲まれていること、最近戦争が近いらしいといううわさを聞くこと・・・
得られたこの世界に関する情報は決して多いものではなく、正確ではないものもあったがそれでも今の滝達にとっては貴重な情報であることに変わりはなかった。
食事を終えると、滝と三橋はトーマスに促されて就寝することにした。
それから明日の朝には畑仕事等を手伝ってくれと頼まれた。
会ったばかりの見ず知らずの人間に食事と寝る場所まで提供してくれたのだ。この親切な老人の男のもっともな要求に頷いた後、滝と三橋はそのまま固いベッドに潜り込んだ。
ここ最近、統合幕僚長として激務が続いていた滝にとって久しぶりのちゃんとした睡眠だった。
ヴァルトシュタット王国首都バルデンブルク近郊。
首都近くにありながら、森や草原が広がり遠くに山々が連なる大自然豊かなその地を一人の少女が歩いていた。
華美ではないがしっかりとした仕立てのドレスに身を包み青々とした草原を進むその少女はヴァルトシュタット王国女王フリーデリケ・メルセン・フォン・ヴァルトシュタットその人であった。
彼女は宮殿を抜け出しこの大自然の中を散歩していた。彼女にとっては政務を忘れリラックスし、女王としてではなく一人の少女としての時間を過ごすことのできる貴重な機会であり、数ある方法の一つだった。
遅い朝食と形式だけの国務を済ませ、宮殿を抜け出ししばし国務のことを忘れようとしていた彼女はしかし溜息をつき自らが、祖国が置かれている状況を嘆いていた。
(・・・まさか自分が即位して、ここまで状況が悪化しようとは)
女王として即位して半年が過ぎた。が、いま祖国であるヴァルトシュタット王国はフランベル王国とコーシェンコ王国両国から宣戦布告され今まさに戦渦に巻き込まれようとしている。
単独で二大国を同時に相手できる国力はない。
同盟国もいるにはいるが同じく国力が低く、すぐには援軍を出せない。出たころにはすでに敵が首都バルデンブルクを占領しているだろう。
最早この国にできることは何もない。
(なぜ・・・こんな時に自分が王などに・・・)
フリーデリケは女王となった自分の運命を嘆いた。こんな時に国が亡びるかどうかの国難が到来するとは。もちろん皇族として覚悟は全くしていなかったわけではない。だがそれでも、まだ十七歳の彼女にとって国を率い、これほどの国難に対処する覚悟と技量を求められるのは過酷なものであった。それを無責任と責められるものはそういるまい。彼女は国の長としては幼すぎるのだ。
彼女はあたりを見渡した。
木々が生い茂り、遠くには大草原が広がり山々が連なっている。鳥が鳴き、虫が花々の間を飛び、リスが木の実をかじる。
人々が国難を嘆いている中自然はいつも通りの平和な営みを続けている。
(・・・平和だな。いいものだ、自然は・・・何もかも忘れさせてくれる気がする)
フリーデリケは幾分か心が安らく気がした。もちろんこれで今直面している状況が良くなるわけではないことはよく分かっていたが・・・
少し森の中を進んでいると川が見えてきた。
歩き続けて少し疲れのども乾いていたところだ。ちょうどいい、ここで喉を潤し少し休むことにしよう。
川は人一人が泳げるくらい深めで、流れる水は澄み底まで見えていた。川の中を川魚が元気そうに泳いでいる。川の流れは強く、近くに小さな滝があった。
フリーデリケは白手袋を脱いで、屈みこみ、両手で水をすくおうとした。
この様子を執事や宮殿の者が見たら眉を顰め、皇族たる者、はしたないと咎めたであろうがここには誰もいないから構うまい。それにつかれて喉が渇いた。
両手を水に浸そうとしたところで――滑った。
「!?」
ずるっと足が後ろに滑った。
どうやら地面が川の水で濡れ滑りやすくなっていたらしい。その上前かがみになっていたので悪いバランスをさらに悪くし崩れる。
そのまま顔面から水面に突っ込んだ。顔が、体が、全身が水に浸かった。
「うっぷ!?おぼっ、ぷはあっ!?はっはっ」
顔面からいきなり顔面に突っ込んだ上に、人が泳げるくらいの深さはある川である、あっという間にフリーデリケの体は水中に沈み、すぐに呼吸が出来なくなった。
「うっぷ、ぷはっだ、誰・・・誰か・・・ぷふう!」
生まれた時から水泳など全くしてこなかった彼女、しかもいきなり水に突っ込んだのだ、まともに泳げるはずがない。
正常に呼吸が出来ず、新鮮な空気を取り込むのが困難になった彼女はしばらく川の中でもがいていたがやがて意識が遠のいていった。
意識をなくし動きがぴったりと止まった彼女の体はやがて水に浮いてそのまま森の奥地へどこかへ流されていったのであった。