1話 探索と出会い
朝霞駐屯地の東部方面総監部に向かっていたはずが、気づけば見知らぬ大草原の真っ只中にいた——
この明らかにおかしい事態に滝は自らがまだ夢の中にいるのではないかと思い何度も自分の頬を抓ったり、三橋に頬を叩いてもらったりした。が、結果は何度やっても同じ。普通に痛かったし、目の前に広がる大草原の光景が変わることはなかった。
草をむしってみる。僅かに湿った土が指にこびり付き、青臭い匂いが微かにした。
肺に大自然の清々しい空気が送られる感覚が確かにする。
どうやら夢ではないことは確かなようだ。そして此処が自分達が知っている世界ではないということも。
「三橋、どうやらここが東京・・・日本ではないことは確かなようだぞ」
「そして夢でもないようです、統幕長。いったい此処は・・・ここは何処なんです?我々はどうなるんですか?」
三橋が不安そうな面持ちでこちらを見た。
無理もあるまい、霧を抜けた先が見知らぬ世界だったのだから。
もちろん不安なのは滝も同じだ。
だが不安だからといって何もしないわけにはいかない。
「とにかくここでじっとしても仕方ない。三橋三佐、とりあえず手分けしてここら一帯を捜索して回るとしよう」
「情報収集ですね。確かに情報を集めるのは作戦を立てるときの基本中の基本です。・・・いや、私一人で行きます。統幕長はここに居てください。とりあえず移動手段の車は確保しておかないといけませんし、もしものことがあった時に統幕長を危険に晒すわけにはいきません」
いざという時のためにどちらか一人が残って公用車を確保しておこうという三橋の言葉は理に適っていた。が、三橋が上官を危険に晒したくないように滝も部下を下手に危険に晒すわけにはいかなかった。ここは安全な日本ではないのだから。
「それなら俺だって部下をへたに危険に晒すわけにはいかん。少なくとも此処は日本じゃなさそうだからな。それに俺はレンジャー徽章持ちだぞ」
そう言って滝は制服の左胸につけられた月桂樹とダイヤモンドの徽章——レンジャー徽章を見せた。
三ヵ月の地獄の訓練を見事突破した者にのみ与えられる精兵の証だ。
「私もレンジャーですが」
三橋も左胸のレンジャー徽章を見せる。三橋は上官を行かせるわけにはいかないらしい。
滝は最後の手段を使うことにした。
「三橋、お前の階級は三等陸佐だったよな」
「はい」
「じゃあ、俺の階級を言ってみろ」
「・・・陸将です」
「陸将と三等陸佐じゃ明らかに陸将——つまり俺の方が階級が上というわけだ。三橋三佐、命令だ。お前は此処に残って移動手段を残してくれ。俺は周囲の捜索に出かける」
上官の命令には逆らえない。それが古今東西の軍隊を軍隊足らしめてきた、原則であった。そしてそれは自衛隊とて例外ではない。
「了解しました」
「その前に武器を確認しておくか。拳銃を」
滝と三橋は車内から自衛隊の正式採用の拳銃である9㎜拳銃を取り出し、動作や弾薬、安全装置等の確認をした。
このよくわからない場所に来てしまった以上、何があるか分からない。武器の携行、そしてその自分の持つ武器の点検・確認は重要だった。
拳銃をしまった滝は三橋に後を託すとそのまま周囲の散策に出かけた。
しばらく周囲の散策をしていた滝だったが、どこまでも広がる大草原の景色が変わることはなかった。
時折、時折、花畑や小さな川、草を食む野生の羊を見かけたがそれだけだった。
民家らしき建物も見当たらない。
どこまで見渡してもスイスか、日本アルプスのような光景が広がっているだけだった。
探索する中、滝はいったいここは何処なのか考えていた。
自分は先ほどまで東京の朝霞駐屯地にある東部方面総監部に向かっていたはずだった。
本当なら自分が居眠りから覚めた後には駐屯地の光景が、東京都内の光景が広がっているはずだった。
それが深い霧を抜けるとスイスのような見知らぬ大自然が広がっていた。
明らかに東京では、日本ではない。夢ではないことも確からしい。
ではいったいここは何処なのか、いったい何が自分達の身に起きているのか。
そういえばこの前、休憩の時に読書をしている三橋に何を読んでいるのかと聞いたことがあった。
三橋が読んでいた本は特にこれといって特徴のない平凡な男が異世界に迷い込み活躍するという内容だった。三橋によれば最近流行りのものらしい。
まさか、自分たちはその本みたく、その『異世界』とやらに迷い込んでしまったのか――
普段の彼ならあり得ないと一笑に付しただろう。
だが、今起きている状況を考えればそれ以外にこの状況を説明できそうなものはない。
滝は傍らに咲いている野花を見た。
澄んだ緑色の茎が途中で二股に分かれそれぞれが桜のような薄い桃色の花を咲かせている。おしべとめしべの形も見たこともないものだ。日本では、いや自分のいた世界では絶対に見かけない花だった。
ここは、自分たちの世界ではないのだ。
これ以上探索しても成果はないと判断した滝はいったん引き揚げることにした。
三橋が待っているであろう公用車の位置に向かうと、公用車の周りは白い雲のようなもので埋め尽くされていた。よく見ると羊であった。近くには1匹、頑強な大型犬がいる。
野生の羊はいくらか見かけたが集団で、しかも犬がいるということはもしや・・・
「あ、統幕長!人です!人がいました!人に会えましたよー!」
無数の羊達に囲まれる中、その中心で、三橋が帰還した滝の存在を認め手を振って叫んだ。
よく見ると三橋の隣には見知らぬ人物が二人もいた。
1人は麦わら帽子に少々薄汚れたセーターとマントに身を包んだ中年の男だ。手には杖を持っている。状況からしておそらく羊飼いだろう。もう1人は活発そうな栗色のくせっ毛の10歳ぐらいの少年で顔立ちが似ていることから中年男性の息子もしくは孫と思われた。
どうやら三橋はここで待機しているうちに現地住民であろう羊飼いと羊の集団に遭遇、この見知らぬ世界の住人とのコンタクトに成功したようだ。
それはつまりこの世界の情報をより正確に知れるということだ。
無数の羊の群れを掻き分け、三橋に近づいていく。
「おい、三橋その人たちは誰なんだ?」
「見れば分かるでしょう、現地人ですよ。見てのとおり此処で羊飼いをやって暮らしているそうです」
滝の予想通り、羊飼いだったようだ。
「なんだ、連れの人がいたのかね」
滝の登場に中年の羊飼いの男が反応した。
無精ひげを生やし、人懐こそうなその羊飼いの男性は滝を見て話しかけた。
「長いことここで羊を飼って暮らしているがね、ハンスが丘に何かあるというから着てみたらあんたらと、この変わった・・・馬みたいなのがいてね」
馬みたいなの――おそらく滝が乗ってきた公用車のことを言っているのだろう。この人たちは馬を知らないのだろうか。
三橋がそっと小声で囁いた。
「どうも此処には・・・この世界には車というものがないみたいなんです」
なるほど。
どうやらこの世界には車はないらしい。つまりそれはこの世界の、少なくともこの地域のインフラ等の発展レベルは現代日本ほど高くないということか。
羊飼いの男が続けた。
「あんたら、此処じゃ見かけん顔だね。旅人かい?ずいぶん立派な服を着ているが」
そう言って男は滝と三橋が着ている糊の利いた深緑の制服をまじまじと見つめた。
この男に実は自分は日本という国から着ました、別の世界から着ましたなんていっても信じてもらえないだろうということはすぐに分かった。突拍子もない話だからだ。
この羊飼いの男と少年はこの見知らぬ世界で初めて出会った男だ。貴重な情報源である。あまり変なことを、突拍子もないことを言ってまともに取り合ってもらえなくなる、ということは避けたかった。
滝は少々自分たちの身の上を取り繕うことにした。
「ええ、はい・・・二人でちょっと旅をしていましてね・・・少し休んでいたところなんです。ところであなたは?」
自分たちを自衛官ではなく旅人だと言った滝に隣に立つ三橋は少し驚いた表情をしたが、滝が目配せをするとすぐに察して、そうですそうですと男に頷いた。
「ああ、ワシの名前を言うのを忘れとったな・・・ワシはトーマス、見ての通り羊飼いです。そしてこれは孫のハンスです」
トーマスと名乗った羊飼いの隣に立つ少年――ハンスはぺこりと滝達に頭を下げた。特に何も言わずじっとしていて大人しそうな少年だ。
「トーマスさんにハンス君ですか。私は滝、滝慶一郎です。それで彼が三橋幸一です」
自己紹介を返した滝はこの男から可能な限り入手できる情報を聞きだすことにした。
「トーマスさん、実は私達、旅の途中で迷ってしまいましてね・・・この通り、どこまで行ってもただっ広い草原が広がっていて、此処が何処だか分からなくなってしまいましてね。此処が何処なのか教えていただければ助かるんですが・・・」
「ああ、道に迷っていらしていたのか。なら、どうです、一旦ワシの家に来ませんか。そこで少し休みませんか、いろいろ話を聞きながら」
「いいんですか、お邪魔して」
トーマスは人懐こそうな顔で笑った。
「いいですとも。実はこちらも家の近くの畑仕事で少し人手が欲しいと思ってましてな。手伝ってくれるのなら大歓迎ですとも」
どうやら、この世界のことについて聞き出せれる上に休める場所まで提供してくれるらしい。
トーマスの誘いに一瞬、滝の頭に警戒心が浮かんだが、孫のいる人懐こそうなこの男のことだ、悪い人物ではないだろう。それにこちらは拳銃と車を所持しているのだ。何かあってもすぐに対応できる。
思わぬ幸運に感謝しながら、滝と三橋はトーマスという羊飼いに付いていくことになった。
これが、滝が異世界の人物とのファーストコンタクトだった。