ルマンドの魅力について、語らずにはいられない人の1600字。
ルマンドについて、熱く語る。
※記載された文章には、一部フィクションが含まれています。
私はルマンドの魅力について、語らずにはいられない。
降り立ったその駅は、出来上がった当時から一度も改装はされていないふうだったし、おそらく今後もそのつもりはないというような雰囲気だったが、ふとホームに腰をかけると存外落ち着いてしまうのだった。さてこうしてはいられないと待ち合わせまでの時間を確認するが、大丈夫。ルマンドを食べる時間は確保できると分かり、ほっと胸を撫で下ろす。
少し休むにも、十分に時間が取れない。そういった場合であっても、ルマンドをコートの内ポケットに忍ばせておけば、私は心を落ち着かせることができた。もっともこれは相当昔、父親にそう教えられた幼少期からの癖になってしまっている。つい髪を撫でつけたり、顎をさする、指の第二関節をポキポキと鳴らしてしまう、人間には誰にもつい癖でやってしまうことが多々あると思うが、私の場合ルマンドがこれに当たる。
さて、食べよう。至福のときだ。ルマンドは一つひとつが小包装でしっかりと守られている。鮮やかな紫色のリボンに装飾されて、ルマンドは静かに、穏やかに眠っている。開封時、もとい目覚めの儀式においてもっとも注意していただき点は、縦に袋を切ろうすると稀に(もっとも私はこのような初歩的な失態を、ルマンドの御前で晒したことはないが)ルマンドそのものを崩してしまうことがある。サクサクに焼き上げられたクレープクッキーが、見るも無残な姿で零れ落ちる。私から言わせれば、この時点ですでにゲームオーバーだ。歴史的に見てもこのような罪咎は、ベルリンの壁崩壊とルマンド崩壊の他に類を見ないだろう。
さて、しっかりと包装を解いた私を待っているのは、ココアクリームで包まれた、そう、ルマンドである。昭和四十九年から、我々日本人とともに時代を歩んできた、ルマンドである。戦勝国が確立した世界秩序、戦後レジームを甘受し、バブルの崩壊を経験し、IT革命によって目覚ましく進歩を遂げたこの日本で、長きにわたりご愛嬌頂いている商品、ルマンドである。
ルマンドの開封は、ヴィーナス誕生と言い換えても差し支えない。実際、私にはそのように見えた。ではそれを口に入れるのは罪か。否、それは曲解である。ルマンドは生産過程の初期段階からずっと、我々に変わらない味を提供するために、工場を出発し、小売店に下され、こうして家庭に届けられるのだから。
口に入れる。言わずもがな、私は天を仰いだ。
見事だ。私は思わずホームで一人、スタンディングオーベーションをしてしまった。恥ずかしがることはない。これは人として自然な反応なのだから。嗚呼、ルマンド。ルマンド、ルマンディド、ルマンディング。どんなに活用しても、やはり美しい。
昨今の消費税増税を受けて、我が国の小売業界は戸惑いに揺れているかもしれない。そんな中でもルマンドは、進化を止めることなく、様々なフレーバーを展開し、アイスクリームの中に忍び込み、アレンジレシピなどというポテンシャルも発揮して、我々を驚かせてきた。
全国でルマンドの消費がもっとも著しいのは神奈川県であるが、理由は至極簡単で、私が居住しているからである。剣豪である宮本武蔵は、飛んでいる蝿を箸で掴んだという逸話が残っているが、実際には箸ではなくルマンドだったという文献も残っている。そのようなことにルマンドを使用するのは甚だ不届き者と言わざるを得ないが、この歴史的ニュースはルマンドが時空を超えるという証明になり、世界中を驚かせた。
さて、そろそろ行こう。私はルマンドの包装を丁寧に折りたたんでコートの内ポケットに入れた。是非ともこれを読んだ諸君は、己の欲望に忠実に、家を飛び出し、ルマンドを購入しに出かけてほしい。途中、予期せぬ障害が立ちはだかるかもしれない。強い風が吹くこともあれば、冷たい雨が降ることもあろう。
だが諦めないでほしい。ルマンドは、あなたを待っているのだから。
ルマンドカウント:24回