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零れ落ちた水

本日2度目の更新です。

リンレイの子リンファが従兄弟のシンカと同じ屋根の下で寝食を共にする事となったのは、彼女が6歳の時分だった。


シンカはまだ5歳で、共に過ごす様になって2月で同じ歳となった。


リンファに弟妹は既に5人居たが、近い歳の子供と接するのは初めての事だった。


当時のシンカは今と同様大人しく口数や感情表現の控えめな子供であった。


若年のうちから両親に厳しい教育を受けていた事か、その両親が他界した事が原因かは分からないが、歳の割に大人びた子供であった。


当時のリンファはそんなシンカを生意気に感じ、早く生まれている事を理由に何かにつけて構い、時には言う事を聞かせて来た。


嫌な事は嫌とはっきり言う事の出来るシンカとは口論も多々あったが、それでも共に修行を行い教育を受け、確かな信頼関係を築いていった。


そうして数年も過ぎると硬い表情の少年は家族に柔らかい表情を見せる様になり、他の弟妹達を可愛がる正義感の強い子供に育っていった。


背が伸び、力が強くなり、才能の片鱗を発揮するシンカをリンファは常に隣で見つめて来た。


意地の悪い歳上から幼い家族をも守り、力強さ、意志の強さを常に発揮していった。

それも、隣で見て来たのだ。


森渡りとしての腕は10の時分には人並み程度に持ち、15には人並み以上の戦士としての力を発揮した。


力や学の向上が及ばない事を悔しく思いながらも、家族としてとても誇らしく思っていた。

共にしていた時間が長く、始まりははっきりとはしない。


だが気付けば好意を抱いていた。弟にしては頼りになり、兄にしてはリンファに従順なシンカ。

そして友達にしては距離が近すぎた。


ふと見つめ合い、自然と接吻を交わした。

それが14の事だった。


他所の同年代の男はまだ子供臭さが抜けず、森にすら出ていない者も多い。

自慢の恋人であった。


大らかな両親は特に何も言わなかった。好きにすればいいと。

身体の関係も持った。勿論、お互いの初めてを捧げあった。


シンカは恋人であるリンファを大切に扱った。

同年代の男子に揶揄われても恋人として扱い、大切な日の記念の品を忘れる事も無かった。


2年目の誕生祭には胡桃色の瞳と同じ色をした珠の首飾りを貰った。

掛け替えのない宝物となった。


セキムにちょっかいを出される様になったのはこの頃だろうか。

同い年のセキムは顔立ちに優れ、多くの年若い子女を虜にしていた。


だが、それでもシンカの人気には劣ったのだ。

セキムはシンカに劣等感を持っていたのだろう。だから女を奪うと言う形でその劣等感を優越感へと変じさせようとしたのだろう。


拳も、槍も、斧も、剣も。

弓に行法、勉学に至るまでシンカに敵わなかった代わりに顔で勝ろうとしたのだ。


そんな男に靡くリンファでは無かった。

誓って言える。

今まででセキムになびいた事は唯の一度もない。

シンカが里を出てからもである。


それ程までに2人は愛し合っていた。


リンファは勿論、シンカも自分を愛し、尊んでいた事は十分に分かっていたのだ。


だが、欲をかいた。


シンカは里の最も老練で力のある戦士を17の時分に上回った。

軈ては老練な戦士を複数相手取っても土をつける事がなくなって来ていた。


少しでも見る目がある女はシンカに近づこうとしたし、場合によってはリンファに嫌がらせを行なったりもした。


リンファとてシンカと共に技を磨いて来た戦士である。

そこらの同胞よりも余程腕は立ったので実害はなかった。


だがそれでも確かめたくなったのだった。

シンカを試したくなった。それはその一言に尽きた。他意など欠片も無かった。


あの夏の日にリンファは嘘を吐いた。

セキムに心変わりしたと嘘を告げた。

反応を見て、シンカの気持ちを確かめたかったのだ。


それがシンカの顔を見た最後となった。


別れたいと告げた時の青ざめた顔とふらつきを見てリンファの自尊心は満たされた。

心臓が一際大きく跳ねた音も聴き逃さなかった。

目論見は果たされた。


だが代償は大きかった。


一晩置いて嘘だと告げようと考えていたが、それは果たされなかった。

夜のうちにシンカは里を去ったからだ。


初めは直ぐに戻るだろうと考えていた。

しかし秋が来て、多くの同胞が冬籠りに帰る季節が訪れても彼は帰らなかった。


その段になって初めて、リンファは危機感を覚えた。

家族はあまり心配していなかった。

事シンカに於いて何かなど起こらないという考えを持っていた父や母達の反応は生温かった。


家を空けても精々が10日程度だったシンカが遠出して経験を積む事を良しと考えていたのだ。

リンファは1番仲の良かった義理の母の1人に初めて自分が何をしたのか説明をした。


義理の母センコウは眉間に皺を寄せ、深く唸った。

拙いかもしれないという答えだった。


真面目で傷付いたシンカを癒す女が現れればシンカは誠意を尽くし、己を捧げるだろう。リンファがそうされて来た様に。


心臓が丸く射抜かれたのではないかと言う様な痛みが走った。勿論幻の痛みだ。


初めて。半年が過ぎて初めて。リンファは後悔した。


これまでは寧ろシンカに、強く才に溢れ、誰もが羨むシンカに傷を付けた事に満足すらしていた。

恋人が自分の元を去るなどと言う可能性は微塵も考えていなかったのだ。


考えてみればその通りだ。


リンファはシンカを手放す気など微塵もなかった。


考え直してみればリンファが発した言葉は別れの言葉だった。半年も遅れてその事実に気づいたのだった。愚かだった。


リンファはそれ以来、日が沈む二刻前になると里の入り口に立って、シンカの姿が見えるのを待つ様になった。


全ての母達に話すが、感想の方向性は一様だった。

諦めろが3、男は幾らでもいるが2。

父は無言を貫いた。


里に帰って来れば直ぐ様駆け寄って誤解を解こう。そう考えて何年も経った。

だがシンカは一度も帰る事はなかった。


母達は里帰りをする同胞を捕まえてはシンカの行方を尋ねてくれたが、終ぞ誰からも行方を聞き出す事はできなかった。


セキムからのちょっかいは数えきれなかったし、何度も縁談は舞い込んで来たが、終ぞ受ける事はなかった。


シンカを忘れることができなかったし、それを差し引いても彼よりも優れ、また愛せる男は到底現れなかった。


そうして10年の歳月が経った。


リンファはただ待っていた。体を鍛え、日々の仕事をこなすと町の入り口に向かい、ぼうと森を眺める。

冬が近づくと森との境目に訪れて、人影が現れるのを待った。


そうしてリンファは28歳になった。


シンカが目の前から消えて10年が経った。

幸せどころか楽しみも喜びもない10年だった。

勿論セキムはとうの昔に妻を3人娶って子供さえ作っている。


だがリンファは1人だった。


結婚の適齢期はとうに過ぎ、そろそろ子供さえ危ぶまれる時期に突入しようとしていた。

それでもひたすらに、いたずらに自分が未だに愛する男の帰りを待っていた。


謝罪する機会を求めていた。

シンカを恨みに思う気持ちは湧かなかった。

全ては自分で蒔いた種だった。


リンファの10年間は何の楽しみも無く、喜びも無く、灰色に曇り、無感動だった。


十数人の妹の内3人が伴侶を得て家を出た。


シンカが去って11年目に入った時、雪が溶けるとリンファはとうとう自分でシンカの行方を求めるべく里を出た。

旅をして、大陸の広さを知り、経験を得た。


そして山渡りの謀略に囚われたのだった。

その後到頭、目の前に彼が立った。

最後にある記憶よりも男前に成長し。力強さに満ち溢れていた。

戦士としての油が乗り、姿を見るだけで胸が疼き、その腕に抱かれる事を望んだ。


だが、彼の傍らには女の気配があった。彼は傷とその痛みを乗り越え支えてくれる伴侶を得たのだった。リンファの様に自身を傷つける事の無い伴侶を4人も。


それを知った時の痛みを忘れない。


心臓は握り締められたかの様に痛み、胃が段平で貫かれたかの様に痛み、零れ落ちそうになる涙を堪えるので精一杯だった。


11年前にシンカが味わったであろう痛みだった。

こんな痛みを愛している人に自分は与えたのだ。


それに加えて女達とシンカの間に割り込む余地は無かった。

シンカはリンファに傷付けられた痛みを乗り越えていた。


他所の女の力で!


自分が発した言葉が原因であると忘れられる程愚かな女であったなら傷は浅かっただろう。


そうはならなかった。リンファは教養があり、きちんとした倫理観を身につけていた。

後悔が澱となって心に積もっていった。


里に帰り、センコウに泣きついた。文字通り泣きながらしがみ付き、思いの丈をぶつけた。

赤子の様に無様に。


嘗てこれ程泣いた事は無いだろう。

身をよじりもがき苦しむ様な嫉妬に意識を引き剥がされそうなほどの後悔。

だがリンファのそんな内心など何の役にも立たない。


許しを乞うしかない。それでも尚心を得るには足りない。

それが答えだった。


他の母達の意見も変わりなかった。

父だけはシンカに聞いてみると告げた。


後悔と苦しみの日々であった。全てが身から出た錆であった。

自分の言葉によって失われた幸せをどうにか欠片でも取りもどさんとしていた。


愛していた。15年前からずっと。伴侶が4人できようと、諦められぬほどに。


29の秋、リンファは己の贖罪と幸福の獲得を求めて父も、5人の母も、長老達も、弟妹達までも、全てを巻き込んで最初で最期の賭けに乗り出そうとしていた。


シンカが里帰りし結婚を祝う宴が開かれた翌日リンファはぐずぐずになった泣き顔で母達にしがみついていた。


弟や妹にどんなに強がっても強い感情は殺しきる事が出来ない。


切れ長の鋭い目。だが瞳は暖かな光を携え連れて来た女達とシンカは視線を交わしていた。


その瞳は昔は自分に向けられていた。

今は違う。シンカは自分を見ていないのだ。


胸が苦しい。

強く押さえ付けて鈍い痛みを堪えるも涙を留める事は出来なかった。


2人で過ごした記憶と再会して目にした他の女とのやり取りがぐちゃぐちゃに混ざっていく。


「………・」


「あんたもうじき30でしょ?親に泣き付く歳じゃ無いでしょうが」


クウルが呆れた様子で、しかし優しい手つきでリンファの頭を撫でながら誰に話しかけるという風でもなく言葉を紡いだ。


「馬鹿な娘。でもお腹を痛めて産んだ子供だし、幸せになって欲しい。でも私達が出来る事なんて場を整える事位なのよ?妹達の面倒もよく見てくれたし、私は貴女を何処に出しても恥ずかしくない娘だと思っているから。だから……」


リクファはリンファの頭を抱きしめてその涙を胸で受け止めた。


「辛いっ、辛いよ母さん………」


年甲斐もなくしゃくり上げてリンファは泣いていた。


再会してからリンファは何度も宿の自室で声を殺して泣いてきた。

大きく泣けばシンカに聞こえてしまうと自制してきた。


「他の男じゃ駄目なの?」


カイナの言葉にリンファは何も返せなかった。

泣いていたからではなく、考えられなかった。


「………」


さしものカイナも茶化す事はなかった。

カイナは卑猥な事をよく言うが実際は父としか関係を持っていない。


好色だとしてもカイナはリンレイを愛し一途で有り続けた。だからこそシンカを慕い続けるリンファに何も言えなかったのだ。


「世の中には色んな人がいるんだよ。シンカより優しい人も、誠実な人も、たくさんいる。あんたのその気持ちだって時が経てば薄まって思い出せなくなる」


優しく。だが諦めさせようとするのはセンコウだった。


「………っ……ぅ、うっ………無理、よ……10年……も……忘れっ……」


「それは忘れようとしなかったからよ」


心臓の鼓動に沿ってセンコウはリンファの瀬を優しく摩る。


「終わらせましょう?」


シャラの言葉にリンファは肩を震わせた。


「私は、リンレイさんとは10も歳が離れていて。でも小さい時から穏やかで、大らかなお兄さんの事が大好きでした。振り向いて貰いたくて必死に想いを伝えて。リンレイさんは私のことは妹の様にしかきっと思ってませんでした。それでも必死に努力して……」


シャラは淑やかに椅子に掛け、腿の上で手を握りながら想い出を掘り返しながら言葉を紡いだ。


「努力をしても報われない事は沢山有ります。……でも努力しないで報われる事なんて無いんです。恐れて蹲って、泣いて目を瞑って。それで解決出来る事なんてないんです」


シャラの言葉はリンファの胸に染み入った。


「出来る事はしてあげる。でも私達が出来る事は場を整えて、そこに貴女を突き出す事しか出来ないのよ」


リクファは涙や鼻水を服に滲ませる娘の頭を抱きしめ、もう片手は背を撫でる。

そうして娘をあやしながらリンファに向かうべき先を伝える。


「高々18の娘のたった一言で全てを無くすって言うのも、まあ対価が重た過ぎるとは思うわ。でも仕方ないの。零した水は戻せない。割れたお皿は直らない。言った言葉は取り消せない。もう戻れないのよ。なら先に進んで何かを終わらせるしかないのよ」


「逃げずに向き合いなさい。貴女がした事と。嫌われても、拒絶されても。真摯に向き合いなさい。でも一つだけ覚えておいて。貴女はシンカを傷付けたけど、罰せられる程酷い事はしてないのよ」


クウルとリクファの言葉に嗚咽しながらも返事をした。


それが不器用な母達からの後押しだった。





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