篝火は夜を照らして
森暦197年夏中月、天海山を登る人影があった。
三度笠に蓑を纏った美しいモールイド人であった。
山を越える風に黒髪を靡かせて女は汗を垂らしながら急ぎ山越えをしていた。
森渡り襲撃から早一月、水銀隊を率いていたイリアは混血の森渡りに追い立てられ、1人這々の体で帰郷した。
霧のかかる斜面を蛇行して登り、尾根を1つ越えると人2人分程の幅を持つ小川がうねりながら流れているのが目に入る。
川に沿って斜面の際に茅葺の家屋が並び上流に向けて続いている。
延々と目に映る限りだ。
山渡りの天海山の隠れ里は既に限界を迎えている。
増え続ける人口はこの谷に収まりきらない。
川は上流の樹々を伐採し過ぎた所為で土砂を含み、濾して沸かさねば飲めない。
下流の池は糞尿や生活排水を流しすぎて不気味な色の虫が湧いており、魍魎すら棲めぬ状態だった。
山から糧も得られず、魍魎に抗うには力も弱い。
最早限界であった。
斜面を降り川沿いを駆ける。
イリアの姿を見つけ、里の者が期待に目を輝かせ声をかけて来る。
イリアは全てを無視して上流へ向かう。
樹々が禿げて赤茶けた土を露出させる高台に向かった。
其処に一際大きな屋敷が建っている。
頭目ラングの屋敷だ。
イリアは自宅に帰りもせず旅装のままラング邸まで赴いた。
茅葺の大きな屋敷の前に立つ2人の守衛が手に持った槍で屋敷の入り口を塞ぐ。
「イリア。戻ってきたか」
「報告か?どうなった?襲撃は成功したか?」
尋ねる2人を静止する。
「ラング様にお目通りを。全てはそれからです」
言うと1人が屋敷の中に入って行く。
「なあ、帰って来たのはイリアだけなのか?俺の弟も同道しているのだ。あいつ、森渡りの女を捕まえていい思いしてるのかね?」
その女としては虫酸の走る発言に応えることもできない。
あまりの認識の甘さにイリアは意識が遠くなりかけた。
しかし人の事は言えない。
森渡りをさしたる脅威とも認識せずに彼等の略取を計画し、到頭隠れ里を襲撃したのだ。
必ず成功させる必要があった。
イリアは先に撤退したので正確には事の成否は知らない。
しかし水銀隊が襲撃を受けた時の状況を鑑みるに失敗した事は間違い無いだろう。
イリアもこの襲撃が失敗するなどと当初は考えもしなかった。
彼等は必ず来る。
闇の中に浮かぶ憎しみを滾らせた瞳が脳裏にこびり付き離れない。
膠の様に剥がそうとしても剥がれないのだ。
イリアは焦燥していた。
彼等は必ず復讐に現れる。
これは推察や想定では無い。事実だ。
軈て屋敷の中に通された。
山渡りの里は貧しい。
イリアの生家も家族5人が一つの部屋で生活している。
今までに2度鉄砲水と土砂災害で家を失っている。
しかしラングの屋敷は大きくしっかりとした造りで水害や土砂災害を避けられる位置にある。
嘗てメルセテにて高位の役職についていた時の収集物が壁際に並べられている。
壺や宝剣類、飾り物などである。
煌びやかで、古いものなのだろうが手入れが行き届いていた。
こんな何の役に立たないものを後生大事にメルセテから運び込んだ先祖には呆れるばかりだ。
そして今尚大切に扱う事も。
山渡りは間違えた。イリア自身も。
思えばその自己中心的で虚栄的な在り方は数百年変わる事も無く、身の丈に合わぬ野望を持ち続ける様は側からみれば滑稽の一言なのだろう。
何が本当に大切で、何が不要なのか。
山渡りは間違えたのだ。
確かに山渡りの里は貧しい。
しかし散り散りになり家族単位で方々の町村で暮らしていれば十分以上の生計を立てられた筈だ。
一族での復権に拘り権勢を求めた結果、最も大切な家族を失うのだ。
あの宝物を売り、家族単位で各地に散り、土地を得て暮らしていれば。
今よりも間違いなく山渡りは幸福を得られただろう。
目通りを許されたイリアは引き戸を開いてラングの居室に足を踏み入れた。
ラングは赤い長衣を身に纏い、小さな卓で世話役のアントンと盤戯に興じていた。
「イリア。1人で帰還とはどうした?」
此方に視線をくれる事もなく尋ねてきた。
「……森渡りの里襲撃、失敗に終わりました」
「…………あ?」
長考の末顔を歪ませてイリアに殺意を向けてきた。
「襲撃、失敗です」
「2度も言わんでも聞こえている!」
盤を左手で薙ぎ払い激昂して立ち上がった。
駒が飛び散り床を跳ねた。
「何故失敗した!?隙を窺いあれ程の戦力を投入して!何故!?」
「敵の力量を見誤っておりました。初めから奴等には手出しをするべきではなかったのです……」
「お前の意見など聞いておらん!敵の数は?!戦士は何人だったのだ!?報告せよ!」
怒り狂うラングにイリアは苛立った。
以前まではこの男の事を恐れていた。
到底敵わぬ武力に荒い気性、傲慢な態度。
里の権力を一手に持ち、イリアには到底抗う事はできない。
しかし今は違う。
ただの愚者にしか見えなかった。
今は襲撃の成否など最早過去の事。これから起こる山渡りへの攻撃に急ぎ備えなければならない。
ラングはその力量こそ里で1番ではあるが、この顛末を考えれば思慮が浅く短絡的なのだろう。
こと非常時には里を導くには値しない。
しかし里の皆がラングを慕い、彼こそが山渡りを導くと信じている。
「敵は200と少し。ですが、女も子供も老人も皆が戦いました。大人は我等10人と互角に渡り合い、子供ですら対等に戦いました。当初はそれでも優勢に進んでおりましたが、時間経過と共に態勢を立て直され、増援と共に反撃を受け敢えなく撤退と…」
「お前の部下達はどうした?他の戦士達は?」
「…私の部下は………1人の男に狩り尽くされました」
「…よく意味が分からん。60はいたはずだぞ?」
「はい。ラクサス王国のガジュマ王城で戦った男です。非常に精強な戦士でしたので万全の態勢で挑みましたが……皆、殺されました。私の目の前で。別働のイソルダ隊の生死だけは確認できていませんが、恐らく……。私はわざと生かされました。森渡りは此処を襲います。間違い無く」
ラングは眉間に親指を当て呻吟した。
「……イルカイはどうした?残存部隊は?」
「土長からの撤退指示は耳にしましたが、その後までは。白山脈からの道すがら同胞とは一度も会えておりません」
「…取り敢えず報告は分かった。他の同胞が戻って来るのを待つ。お前だけの報告では全てが分からん」
ラングはそんな悠長な事を言った。
「里長!?それでは遅過ぎます!奴等がどれ程でこの里に襲撃をかけるのか!奴等は我等の里がこの天海山にあると知っています!詳しい位置など鹵獲した山渡りを尋問すればすぐに割れます!直ちに防備を!」
「お前の言葉が何処まで真実か分からぬままに徒に皆を不安がらせる訳にもいかん。お前は自宅にて蟄居せよ。お前の証言が裏付けられれば直ぐに作戦を練る。暫し待て」
それでも縋ろうとするイリアを筋骨隆々の大男が現れて腕を掴み、そのまま屋敷から摘み出した。
「いいか、お前の弱腰が周囲に伝染しては敵わん。箝口令を敷く。他言無用だ。良いな?」
最早頷く事しかできなかった。
イリアは両親や妹の待つ家へと重い足を引き摺りながら向かった。
身体が重かった。全身が大蛇に締め付けられているのではと思える程だった。
イリアが里に帰還してから5日が経った。
里長のラングはイリアの報告を半信半疑で聞き、他の同胞の帰還を待った。
イリアの話は全てが信じられない内容であった。
山渡りの精鋭と渡り合うという子供、女も男に引けを取らず森渡り1人で10人を相手取る。腰の曲がった老人すらも武器や行法を扱い1人討ち取るのに数人を犠牲にしたという。況してやイリア隊60人を相手にして虐殺をしてのけたという男に至っては眉唾もいい所と考えていた。
ラングは山渡りにおいて類稀な戦闘能力を持つ。
そのラングをもってしても同胞を一度に相手取る人数は20人がいいところだ。
全作戦を任せていたイルカイが下手を打ったとしか考えられなかった。
だがイルカイとて老獪な男だ。下手を打ったとしても1500の戦士で200人の森渡りを制圧できないなどと言う事態は起こり得ない筈。
10年程前、ラングはベルガナの王都ダルト近郊で1人の男と出会った。
男は全身を隠し、人種すらも分からなかったが自身の正気を疑う程の力量を持っていた。
人間相手に負ける事などないと考えていたラングを圧倒的な技術で敗った。
ラングは男の知謀と力量に全てを賭けた。
男は様々な国から同士を集い、権力を得るべく暗躍した。
ラングは己れと里の野望を彼に賭けたのだ。
大国メルセテに返り咲く為に彼に協力し、軈て女王サルマとの伝手を得た。
サルマは山渡りの協力を得てベルガナにて王位を継承した。サルマの最終目標はメルセテからの脅威排除。
目的は合致していた。
思えば初めの躓きはヴィティア王国王都スライでの森渡り拉致計画であった。
ルドガー・レジェノの入れ知恵により始まったそれはたった数名の森渡りの反撃に遭い出鼻を挫かれた。
続く第一次ヴィティア・ベルガナ戦線でも部隊を失った。
そして大きな転換点。第二次ヴィティア・ベルガナ戦線直前、ラングは選択を誤った。
ルドガーの甘言に誑かされてサルマと敵対したのだ。
サルマの護衛を担っていた白雲山脈の山渡りがあろう事か離反しサルマを護り、ルドガーの計画は失敗した。
ラングは最早ルドガーと命運を共にするしか無くなった。
そしてラクサスで森渡りを拉致し反撃を受けた。
森渡りは奪還され、ルドガーは死んだ。
ラクサス王政は森渡りの襲撃を受け壊滅し、それに乗じて攻勢を仕掛けたベルガナに軍は呆気なく敗れた。
ラングは恐れた。
宗主が山渡りを切り捨て粛清する事を。
挙句10年を掛けて準備を進めたクサビナでのグレンデル一族の弾圧も失敗に終わり、宗主は消息を絶った。
ラングは野望達成の為の梯子を外され、計画の残骸に縋るしか無くなった。
森渡りを支配下に置きメルセテに対して暗躍する。
一つ残された手立てに活路を見出した。
ルドガーに従ったことで生じた失敗を帳消しにするべく、宗主と連絡がついていた時分から森渡り襲撃は計画していた。それを更に煮詰めて十分に準備を行い行動に移した。
イリアが帰還してから丸3日、山渡りは誰も帰還しなかった。
4日目に3人同時に、5日目に2人が帰還した。
全員が半ば恐慌状態であった。
発言は支離滅裂で一人一人の証言で全体像は見えなかった。
しかしイリアの訥々とした語り口による事前情報を以って各々の断片的な情報を統合すれば一つの結論へと帰結することができた。
山渡りは森渡りに敗北し、送り込んだ戦士をほぼ全て失ったのだ。
生き残りは天海山に辿り着いた数名のみだ。
そして当の森渡りは憎悪に身を焦がし報復を望んでいる。
ラングは血の気を引かせた。
急ぎ残る戦士を纏めて襲撃に備えた。
森暦夏中月の下旬の事であった。
慌ただしく防備を固め始めた天海山の山渡りの里では昼夜を問わず歩哨が立てられていた。
人数も通常時の3倍であり常に3人での行動を義務付けられていた。
「なぁ、本当に襲撃部隊は壊滅したのか?」
夜の歩哨を務める1人の男が同じ組の2人に声を掛けた。
「ラング様がそう仰るのだ。事実なのだろう」
「だが……皆んな死んでしまったのか…?本当は生きているんじゃ無いのか?俺の兄貴も」
「もうよせ。俺も兄が2人帰って来ていない。信じたくは無いが…」
「…俺の姉はイリア様の水銀隊に所属していた。イリア様が家を訪ねていらっしゃって謝罪された。先に仕掛けたのは此方とはいえ……森渡りめ、許すまじ」
森渡りへの憎しみを語る歩哨達は小川の河川敷の切り立った崖の窪みに潜みせせらぎを聴きながらこそこそと話していた。
彼等の背後の切り立った角礫岩の崖を爬のように張り付き這い寄る影があった。
菅笠を被った人影であった。
音も無く、岩の欠けら1つ落とす事なく。
その影に続く様に無数の影が崖に張り付き、先頭に続いていた。
日中であれば灰色の崖が覆い尽くされる様に見えただろう。
夜半の現在であっても遠くから注視すれば濃い灰色の崖が徐々に影が掛るように色を隠している事が分かっただろう。
軈て影は歩哨達の頭上に到達した。
3つの影がじわりじわりと上下逆さまになりながらも歩哨に近付くと同時に、寸分違わぬ速さで彼等の首を掴んだ。
影は右手で男の首を掴み、左手で松明を奪い取り片手の力のみで頚骨を破砕すると地に降り立った。
リンメイ、ナンガ、テンラだ。
リンメイの手信号によりスイキョウがその場で土人形を作り出し、出来た人形の手に松明を握らせる。
リンメイ達に続き河川敷に立つ次の歩哨3人を崖から森渡りが襲う。
崖を音も無く這いずり彼等は山渡りの集落に近づいて行った。
そして到頭、川に設けられた木製の柵に辿り着く。
彼等の目には既に家屋が見えていた。
シンカ隊は川下である南東から、シャハン隊は山渡り達の痕跡を辿り南西の斜面から。クウハン隊は険しい峠の多い北側から、スイセン隊は北東から。
そして最後にエンリ隊が天海山麓北西部に陣取った。
シンカはリンメイ、スイキョウ、リンブ、センテツに50名づつを任せ、崖に隠れて様子を窺った。
皆がぎらぎらと眼を光らせて山渡りの里を見ていた。
谷風に吹かれながらシンカは小さな声を出す。
山渡りには届かないが、聴力を強化した森渡りには届く声音だ。
「……予定通りシャハン隊の攻撃と共に侵入、山渡りの殲滅を開始する。武器を持った者は仮に子供でも容赦するな。必ず仕留めろ。戦闘力の無い女、子供、老人の殺傷は各自の判断に委ねる。判断に迷う様なら捨て置け。思考を鈍らせるな。しかしそれがどの様な相手でも、武器を持つなら殺せ」
それがシンカの結論だった。
子を失った親、親を失った子に復讐するなとは口が裂けても言えない。
彼等の苦しみにシンカは寄り添えないのだ。
しかし無力な女子供を殺して心を病む者は必ず現れる。
ならばそんな者達を殺す役割は殺したい者に任せるのが良い。そう判断した。
俄かに空が明るんだ。
見上げた夜空には無数の炎が浮かんでいた。
火矢だ。
「リンメイ。俺と共に先陣を切るぞ。スイキョウ隊は援護を頼む。リンブ隊は後方および不測の攻撃に備えよ、センテツ、家屋を焼き払え。状況に応じてスイキョウ隊、リンブ隊の援護を」
4人は寸分違わぬ了承の意を示した。
降り注いだ火矢が茅葺に刺さり火を屋根を炎上させる。
俄かに辺りが明るくなった。
「敵襲ぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ!」
「来たぞ!奴らが来た!見張りは何をしている!?」
「苔豚共に遅れを取るな!」
遅れて方々から声が上がり襲撃を知らせる。
シンカは自分の率いる隊に手信号を送り駆け出した。
「己えええええええっ!兄貴の仇いいいいぃ!」
飛び出して来た若い山渡りと接敵する。
「ふはっ!へへへへっ!」
飛び上がりシンカの肩で馬跳びをして乗り越えたユタが頭上から斬りかかった。
外套がはためいて着崩した小袖から伸びた長い脚が垣間見えた。
「女風情が!」
迎え撃つ若い男は千剣流倒木の構えを取った。
ユタは剣を空中で振り被りつつ無所作で水刃を飛ばした。
迫る水行法・糸薙ぎを男は剣で振り払う。
その合間にユタの空丸が脳天をかち割った。
「ぷきっ!?」
奇妙な声を出して男は卒倒した。
「ふぇっへっへっ……お前らみたいな雑魚が!他人から搾取して生きていけると思うなっ!」
燃え始めた家屋から鎌を握った老婆が裸足で駆け出してくる。
「息子と孫の仇じゃあああ!」
老婆が此方に向かうや否や、ヴィダードが素早く矢を放つ。
老婆の首に矢は突き立ち、背後に倒れて動かなくなる。
シンカは怒る。さも己らが一方的な被害者であるかの様に振る舞う彼等に視界が赤く染まるかの様な怒りを覚えた。
「我等の里に土足で踏み入るか!無礼な!」
槍を持った中年が現れる。
突かれた槍をシンカは素手で身体の左に逸らして懐に入り込む。
「汝等がっ!」
喉輪を決め駆けたまま吊し上げる。
「それを口にするかっ!?」
激しく地に後頭部から叩き付けた。
蹴り上げてひっくり返し、頭髪を掴む。
そのまま赤茶けた大地に顔を押し付け走る。
「汝等が始めたっ!我等に害を加えたっ!許さん!許さんぞおおっ!必ず!汝等を滅ぼす!」
「…ぅ…ぅぅ……やめ…」
呻く男の頭部を岩に叩き付ける。
わらわらと家屋から出てくる山渡り達をセンテツ隊が皆殺しにしていく。
思いを寄せていたヨウキを奪われたセンテツの怒りは凄まじい。女子供見境無く斬り捨てている。
「キッキッキッキッ」
しかしシンカ隊の目的は殲滅にあらず。
センテツに合図を送り進撃速度の維持を促した。
西側でシャハン隊と山渡り防衛部隊の激しい戦闘が繰り広げられている。
戦力がシャハン隊に集中している間にシンカ隊は事の発端、森渡りに取っての悪の権化、頭目のラングを探し出す。
シンカ、リンメイに続き200人の森渡り達が音も無く低姿勢で駆ける。
家屋を焼き討ちにし、抵抗する山渡りを鎧袖一触に斬り殺して進んだ。
山渡りの里は中心を流れる小川の川下から次々と火災によって灯りを放っていく。
シンカ隊は河川敷を駆け上がり開けた土地に出る。
池の周りが切り開かれ大きな集落となっていた。
「キキキキキキキッ」
散開、索敵
各隊が別れて広い集落に散っていく。
シンカ隊は中心部にて待機し指示及び適宜援護を担う。
「なっ!?もうこんな所まで!?」
山渡りの一隊が上流から駆けて来た。
「キッ!」
全員が即座に陣形を整える。
ユタが駆ける。
「ヴィー!」
「はあい」
「ガンレイ!リンドウ!」
「了!」
「ええ。兄さん」
「リンカ!リンゴ!リンリ!」
「はい!」
「わかった!」
「了!」
「ソウハ!ジュナ!ヨウミン!」
「問題無い!」
「了!」
「はい!」
「テンカ!スイハ!スイホ!」
「了!」
「…!」
「…!」
皆の名を呼ぶ。
「1人も欠けるな!誰1人死ぬな!生きろ!抗え!行くぞ!」
生きる事は抗う事。
敵に抗い、理不尽に抗う。
病に抗い、事故に抗う。
己に抗い、苦難に打ち勝つ。
人は皆戦っている。必ず何かと戦っている。
大小問わず、何時でも。そうして歩む。
それが生きると言う事だ。
「森渡りめ!よくも!よくも我等の故郷を!」
シンカの両手が握り合わされる。
「こいつっ!?凄い経です!?拙い!」
1人が叫ぶ。もう遅い。
シンカは瓢箪から水を煽った。
背を逸らす。
水行法・滝壺
轟音と共に太い水流が迸った。
防ごうとする行法ごと山渡りを押し流した。
ユタに続きヨウミンが槍を手に駆ける。
ヨウミンはヨウロの娘だ。
手信号を送る。
ソウハ、ジュナ、援護、ヨウミン
2人にヨウミンを援護させる指示だ。
シンカからの先制攻撃を喰らい隊列を乱した山渡りとシンカ隊の交戦が始まる。
「ほはぁっ!」
奇声を上げてにたにたと不気味な笑みを浮かべながらユタが斬りかかる。
先頭を駆けてきた若い男と4歩の距離で身体を沈める。
ユタは緩やかに腰を落とし火災の炎で空丸を煌めかせつつ相手の右側に抜けた。
男は無抵抗であった。
鈴剣流秘儀・胴太抜きである。
「…な?」
短く口にして男は脇腹を抑える。
次々に溢れ出る血と腸を見遣り崩れ落ちた。
リンメイが口を大きく開ける。
水行法・蛤児悶。
リンメイの口腔から発せられた経が山渡り3名を捉える。
「がああああああああああああああああああっ!?」
「なっ!?い、ぎあああああああああああっ?!」
「っう……く、く、く、ぐ……おおおおおっ!」
3人は立ち止まり身体を掻き毟り苦悶の呻きを上げた。
リンメイの母方の祖母一族であるヒン家は、口腔から経を大量に放出する事が出来る家系である。
そして彼女が編み出した水行法・蛤児悶は範囲内の生物の体皮、表皮に干渉しそれらが内包する水分を激しく振動させ、発熱させる。
3人の山渡りの眼球は白く濁り、全身を激しい火傷で水膨れにさせ苦しんでいた。
そして転がる3人を躊躇いなく短刃剣で突き殺す。
ヴィダードの経が急速に高まる。
突き出された両手。その先から細く練り束ねられた不可視の風が広範囲に打ち出される。法が行われて直ぐに大地が僅かに揺れた。
風行法・銀線は5人の山渡りの胴を薙ぎ払い渇いた目の細かい赤土を舞い上げた。
「くそっ!此処を通してはならん!者共!気張れ!」
叫んだ男にシンカは肉迫する。
「己れ苔豚!これ以上の侵略罷りならん!」
「黙れ地虫。汝等に我等の怒りを止める事、能わぬ」
相手は剣、シンカは素手。
振られた剣を潜り込んで躱すと左手を突き出す。
シンカの掌に集められていた経が爆発し、男を轟音と共に吹き飛ばした。
左右から迫る2人を相手取る。
右の男の槍による突き込みを半身引いて躱し槍を掴む。
感雷を流し葬ると左から迫る男の顔に水蜘蛛針を吐き出す。
頭が弾け飛んだ。
ヨウミンが槍を振るいながら歯軋りを始める。
ヨウロに似たまんまるの眦が深い怒りに歪められている。
闇が動いた。音も無く火炎に照らされる戦場に黒く巨大な塊が現れた。
「……なんだ、これ…」
山渡りが浮かされたように驚愕の言葉を溢した。
8本の脚、8つの目。黒く毛足の長い体毛は全身を覆っている。
黒岩足高蜘蛛にヨウミンは飛び乗り歯軋りを行う。
鋏角が不気味に蠢いた。
「喰らい尽くせっ!」
ヨウミンは叫びながら両腕を突き出す。
風が吹き始めた。
脚高蜘蛛の体毛がざわりと蠢いた。
巨大な腹を覆って生えた毛の合間から無数の子蜘蛛が這い出してくる。
大きいもので人の頭程、小さいものは豆粒程度までだ。
彼等は親蜘蛛の身体を這い進み、飛び上がると尻から糸を出す。
ヨウミンが起こした風に乗り山渡り達に向かった。
山渡り達は森渡りとの戦闘で蜘蛛を払う余裕などない。
蜘蛛達はあっという間に山渡りを包み込み彼らに齧り付くと毒を注入する。
微量な毒も無数に打たれれば害となる。
黒岩脚高蜘蛛の毒は麻痺毒。無数の蜘蛛に噛まれ、毒を打ち込まれ、手足を痺れさせた山渡り達は直ぐに森渡りに討たれる事となった。
崩れ落ちた山渡りの肉体を蜘蛛達が貪る。
大蜘蛛がその図体に見合わぬ身軽さで跳躍した。
蜘蛛に向けて両手を伸ばした男の腕がシンカの翅により切断される。
跳躍した大蜘蛛が尻の糸壺から放射状に糸を放出した。
身動きを阻害された山渡り達が次々と斬り殺されていく。
大蜘蛛は糸を巻き取り瀕死の山渡りに噛み付いて毒液を注入すると糸で包んだ。
制圧には僅かな時間しかかからなかった。
「化け物共があああああああああああ」
大蜘蛛に向けて剣を振るった。
だが山渡りの剣が間合いに入る前に蜘蛛の長い前脚が身体を突き倒す。
「ナム!貪り喰らえ!」
ヨウミンの叫びと共に鋏角が山渡りの腹を食い破った。
「あっはっはっはっ!父さんの仇よ!はっはっはっ!死ね!死ねっ!死ねえええええっ!」
ヨウミンは涙を流しながら蜘蛛から降りて地に伏す山渡りの死体に槍を突き立てる。
「止め!進むぞ!」
シンカの合図に一同が直ぐ様集結し先に向けて駆け出す。
「キッキキッキ!」
シンカ隊の目標は迅速な攻撃である。
いの一番に里に侵入し、切り崩し、混乱させて速やかに進み、山渡りの首脳を叩く。
その時、木陰に動くものをシンカは捉えた。
「ユタ!」
「ひひっ!けっけっけっげげげげっ!」
ユタが下品に笑いながら隊から離脱して木陰に向かう。
その目付きは夫であるシンカの目からしても凶悪である。
ユタの様子は何時もとは異なる。
戦闘を楽しむ嫌いのある彼女だが、今は身から滲み出る激しい怒りを感じ取ることができる。
「ヴィー!」
「はあい」
ユタを追う小柄な影をヴィダードが追う。
ヴィダードは一見何時もと変わらぬ無関心と義務感のないまぜになった様子に見えたが、付き合いの長いシンカは分かる。
見開かれた目、その中に讃えられた空色の瞳には強い憎悪が宿っている。
先頭を駆けるシンカに少年が斬りかかってくる。
表情は変えない。
無表情で拾った槍を胸に突き立てた。
「………」
家屋に火を掛けながら駆ける。
山渡りの里が放たれた日により明るく輝き、その姿を夜闇に晒す。彼等の影に隠れた薄汚れた歴史を、その中で繰り広げて来た薄汚れた誤ちを照らし出すかのようにシンカには思えた。
シンカ自身は武器を持たぬ者を殺傷する気は無かったが、他の者はそれぞれだ。
近しい者を失った者達は老若男女に関わらず殺戮を繰り広げている。
涙を流し、憎しみに顔を歪め、親の前で子を殺し、絶望に喘ぐ親を殺す。
彼等の自業自得とはいえ余りに醜かった。
しかし、それでも歩みを止めることは出来ない。
山渡りを野放しにすれば悲劇は再度巻き起こる。
シンカの目的は1つ。
この惨劇を起こした山渡りの首脳陣を皆殺しにする事だ。
そして到頭辿り着いた。
一際大きな屋敷の前にて複数の武器を持った山渡り達が待ち構えていた。
彼等の力を肌で感じる。
手練れ達であった。
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