いづくかつひのすみかなりけむ
時を遡る事3刻、シンカ隊はリンレイの指示の下グレンデーラ周辺の森へ潜み探索を続けていた。
アケルエントのペルポリスに聳える欅がそうである様に、豊かな土地には地表付近に経が通っている可能性が高い。
シンカはグレンデルを救う為3000年の間誰しもが触れてこなかった経脈に手を加えようとしていた。
万物には須く経が存在する。
虫も人も植物も。
大地もそれに変わりはない。
アケルエントの欅の根本がそうであるように、大地には時折汗腺の様に経が漏れ出る点がある。
大地は生きている。
森渡り達は王種が湧く可能性のあるその地を記録に残すが地震や断層などでその場所は移り変わる。
シンカは大地から経が溢れ出る経点とでも呼ぶべき場所を探していた。
グレンデーラ周辺で経点が確認された過去はある。溢れ出るその地をシンカは延々と求めていた。
戦争2日目が始まりシンカは大地深くに経を浸透させて地中を地下水の様に流れる経脈を追っていた。
激しい戦争の轟が遠雷の様に伝わる中、シンカは焦りを抱えつつそれを地道に追い掛けていた。
シンカが率いる200人の森渡り達も同じく周辺に散って枝分かれし何処か遠くへ流れていく経脈を探査していた。
それらは追い掛けても経の届かない地中深くへ潜っていくこともあれば今まで無かった場所に突如湧くこともある。
探査は困難を極めていた。
しかし不利な状況下で青鈴軍が街を守り切る上で、もはや森渡りの加勢は一時凌ぎにしかならない事は明白だった。
グレンデルの不利を伝える伝達が飛び交い、また命を落とす森渡りの名も増える中でシンカ隊は有るかも分からぬ経点の探査に焦燥感を抱くばかりであった。
或いはそれは必然だったのかもしれない。
到頭それを見付けたのはヴィダードであった。
取り分け五感に敏感なイーヴァルンのヴィダードがグレンデーラ北東にてそれを見付けたのは、ヴィダードを良く知るシンカからすれば必然であった。
経の湧き出る其処には季節外れの春夏の花が咲き誇り、寒い日が多くなった冬上月の下旬にあっても何故か周囲を暖めていた。
シンカはヴィダードからの報を受け慌て駆け付けた。
花畑とでも言うべき半径3間の空間に屈み込み、中心地に寝転び目を閉じる。
外れの可能性もあった。
この経脈が何処か見当違いの方向に流れている可能性もあった。
危機の伝達を耳にして焦燥するカヤテをよそに、シンカは長い事目を閉じて大地に横たわっていた。
ともすれば麗かな気候に転寝している様にすら見えるシンカであったが、その実繊細に、細心の注意を払って経脈を探っていた。
それを証明する様に俯せに横たわるシンカは大量に発汗をしていた。
ナウラが集中を妨げない様、布で顔の汗を拭った。
シンカは丹田から直接経を放出し経の流れを辿っていた。それは蛇行するイブル川の様にグレンデーラ周辺を流れグレンデーラの南を経由してケツァル方面へ向かい、途中で地中深くに潜っていた。
その他の場所では存在しか感じ取ることが出来なかった経脈であったが、経点からであれば流れに乗せて広範囲を探ることが出来た。
経脈の流れは確認できた。
流れは絶好であった。
しかしシンカの顔色は悪い。
「…どうだ?」
カヤテの問いにシンカは表情を歪める。
「位置取りは好ましい。予想通りこれ以上はないだろう。グレンデーラは豊かだ。その地下には葉脈の様に経脈が流れている」
「なら何が駄目なの?」
リンファが尋ねる。
「経脈脈の経を使い行法を行った者は未だ嘗て存在しない。それはあまりにも危険な行いであるからだ。まかり間違えば経脈を辿り、その上の全てを吹き飛ばすだろう。俺はこれを見付けて経を流すまでそんな危惧をしていた。………だが分かった。そんな心配は無用だった。これは人がどうこう出来る様なものではない。俺1人の経で左右出来るそんなちんけなものではなかった」
「どう言うことなのだ?!よく分からない!はっきり言ってくれ!」
カヤテが半ば叫ぶ様に尋ねた。
「つまり、シンカが経を流したところで経脈の経を使う事なんて出来ないって事よ」
リンファが腕を組む。
実績の無い行いだ。その可能性はあった。
そもそも他人の経を利用して行法を行う事はできない。
経は意思だ。人が人の心を乗っ取ることが出来ない様に経を奪うこともできない。
だが1つの可能性は残されていた。
人の経に意思という名の色が付いているとするなら、大地を流れる経は無色だ。
人は無意識に自然に存在する経を利用することがある。
扱える可能性はあった。
「…シンカ、教えてくれ。何が駄目なのだ?」
すがる様にカヤテが尋ねた。
「……存在が大き過ぎる。例えば俺の経が緑色だったとする。其処らの経を利用して土行法を行う時、俺は己の経を其処らの経と混ぜて緑に染めて利用する。それは利用する自然の経の量に比例して俺の経を混ぜ、練り込まなければならない。それは例えるなら水溜りに絵具を絞って混ぜる様なものだ。しかし、これは川だ。川に絵具を垂らしても流されていくだけだ」
「………そんな………」
カヤテは到頭ふらついて地に膝を突いた。
ユタがカヤテの身体を支えた。
「シンカ程、経が濃く多い人を見た事がありません。それでも駄目であれば、皆を集めてでは如何でしょうか?」
ナウラが尋ねる。
「無理よ。色々な絵具を混ぜるとどうなるかナウラは知ってる?」
「やった事が有りません」
「黒くなるのよ。それを経と行法に言い換えるのであれば、誰にも制御出来ない経がただ垂れ流されるのと同義よ」
リンファが渋面で答えた。
「では協力して行兵が大きな行法を行うのは……そういう事ですか。別々の絵具で同じ絵を描いた。そういう事ですね」
ナウラは自答した。
「ねえシンカ?シンカが何人居れば出来るの?絵具は何本必要なの?」
ユタが唐突に尋ねた。
それはこの場面に於いて無意味な質問に聞こえた。
「そうだな。俺が1000人居れば何とかなるな」
それは絶望的な数字であった。
ユタの問いはある種の真理であった。
ユタらしい何も考えていない様で正しい指摘だった。
ユタの言葉に触発されてヴィダードが首を傾げた。
「よく分からないけどぉ、シンカ様の経が1000人分有ればいいという事ぉ?それなら有るのじゃない?」
この場の数人が首を傾げる。
先に思い至ったのはリンファであった。
「ああ!」
思い出した事実にリンファは目を見開いた。
「珠よ!シンカ!」
その言葉でシンカにも得心がいった。
女に、子に送られる瞳と同じ珠。
珠には経を込める事ができる。
それは森渡りにとっては常識で、現に10幾ばくかで初めてリンファに贈った珠にも、数年前グレンデーラでロボクへの出兵前にナウラに贈った珠にも、以降シンカが妻達に贈ってきた珠の全てにシンカは経を込めてきた。
だがそれらには大きさや純度に見合った許容量があり、込め過ぎれば珠は罅割れて経は霧散していく。
しかしシンカは数年前に許容量の底知れない珠を得ていた。
その珠は旅の間中シンカの手元にあり、シンカは己の訓練がてら、練り凝縮した経を手慰みでその珠に込め続けていた。
旅で歩き通しの日も、雨で宿に篭りきりの日も、酒に酔った日も。
エリンドゥイルにてヨウロに常軌を逸していると言われた記憶が蘇る。
「珠だ!伝達する!珠は今青鈴城にある!クケェアッケアッケアッ!」
シンカはヴィティアに生息する怪鳥の奇妙な声音を喉から発した。
緊急の伝達だ。
森渡りはその報を何よりも優先する。
その報はシンカの喉から発された後テンバの耳に届き、ハンバが同じく声を発する。其れをセキバとコクブが耳にしてセキバが繰り返した。
セキバの伝達はグレンデーラ北方面のコウロンに届き、コウロンの伝達が防壁北のセンヒに届く。
センヒは光信号により青鈴城の中央塔のクウハンに伝え、クウハンが軍議の間のガンケンに伝達した。ガンケンはその報を耳にしてリンレイに口頭で伝えた。
リンレイは直ぐにハンネイに珠を託し、ハンネイは5人で城から飛び降りデレクと共に北東へ急いだ。
ハンネイは命を懸けて珠を森まで運び、コクブとセキバに託した。
セキバは命を賭して時間を稼ぎ、コクブはその間に重傷を負いつつハンニに珠を託したのだった。
シンカはその間己の経を暴発するぎりぎりの速度で練っていた。
身体中に経を溜め、その時を待っていた。始めに動いたのはヴィダードだった。
「……遅いわぁ。このままだと貴方様の元まで敵が付いて来てしまうわぁ」
「伝達を聞く限りでは追撃部隊が森に足を踏み入れたとの事です」
ヴィダードにナウラが答える。
「仕方ないわねぇ。ヴィーが迎えに行ってくるわぁ。元々あの珠はシンカ様と私とで取ったものですものぉ」
「私を除くのを辞めなさい」
「ほほほ」
ヴィダードは可笑しそうに笑うとシンカに背を向け去っていった。
ひたすら経を練り待つシンカは戦場にて強力な経の存在を感じていた。
「…あれは……」
風が唸る。上空の雲が急速な勢いで流れていた。
「……出たな!」
シンカの隣で経を練っていたカヤテが立ち上がる。
この後に及んで止める者は居ない。
「気を付けて下さい」
ナウラが背を向けるカヤテに声を掛けた。
カヤテは手だけ背を向けたまま上げて森の闇に消えて行く。
「………………敵小勢がスジルファル隊の動きを怪しんで探索を始めたみたいね。シンカ隊の半分で迎撃するわ。ユタ、ナウラ。シンカの事、頼んだわよ」
背から槍2本を取ってリンファが南へ歩いていく。
リンファに続きユタが舌舐めずりをして立ち上がる。
「ひっひひっ、ひひひっ」
目付きが普段の5割増に悪くなる。
50程の人間が南西方向から此方へ迫って来ていた。
リンファが招集を掛けた。直ぐに集まることのできるシンカ隊の内半数、約30程が音も無く現れ、ユタと共に南西へと消えていく。
そうしてその場には瞑想を続けるシンカと斧を抜いて周囲を窺うナウラの2人だけが残された。
至る所で人の体が吹き飛び、血と臓物の雨が降り注ぐ。
放たれる矢は雨霰の様に降り注ぎ兵士達を貫いて大地を朱に染め上げる。
散発的にグレンデーラから放たれる巨石が着弾し、土と共に生死に関係無く身体を巻き上げ粉砕して地に降らせる。
そんな中、赤毛の長髪を風に揺蕩わせる男が歩んでいた。
男の右手は手首の先から存在していない。
深く斬られた胸は治りきらず、寧ろ膿んですらいた。
男は死に体だった。
亡者を思わせる風貌であったが、その目だけは蒼い防壁とその向こうに続く蒼い街を見据えて異様な輝きを湛えていた。
ウラジロ・ファブニルはふらふらと戦場を歩いていた。防壁の前に積み重なった黄の布印をあしらった死体。それに目を止め暗く嗤う。
ウラジロは致命傷と共に高熱を発しており今日、先程まで寝込んでいた。
そして先程目を覚ますや否や着の身着のまま歩み出しその光景を目に留めた。
栄華を誇った黄迫軍は最早公爵とは名ばかりの数にまで減じ、壁の攻略も儘ならない有様であった。
ウラジロは肩を揺らし嗤った。
「…もう、いい」
惨めだと思った。
自分も、一族も、黄迫軍も。
青鈴軍には到頭及ばず、グレンデーラが落ちたとしても、それは赤鋼軍のお零れに過ぎない。
多くを失い得る物は僅か。
下手をすればグレンデーラが陥ちても街の中にすら足を踏み入れられない可能性すらある。
ファブニルは風の一族だ。
自由で何処にでもその名は轟き、誰もが一目を置く。
惨めなファブニルなど不要だ。
そう思った。
ウラジロは両手を突き出した。
「…大竜巻。全てを巻き込め。憎き奴等も、憎き壁も。哀れな兵士も、愚かな一族も……滅びよ……」
それは今まさに果敢に防壁を攻め立てるイグマエア率いる第3師団の直中に起こった。
「退避いいいいいいいいいいいいいい!」
イグマエアは経が漂い渦巻くのを感じていた。
隣のミラビリスを捕まえ引き摺り駆けた。
「退け!退け!退けええええええええ!」
風が起こる。
土埃が渦巻き吸い込まれていく。
小石が浮かび、千切れた手足が浮き、血濡れた剣が浮かび、鎧を纏った死体が浮いた。
逃げ遅れた兵士はその風に囚われ蹈鞴を踏み、渦に飲み込まれ巻き上げられた。
空では空を覆う雲が座れ辺りから集められ、竜巻の周辺に雨を降らせた。
イグマエアは大地を隆起させ半球の殻を作り一部の者達と中に籠もった。
ウラジロは嗤う。手を更に突き出した。
ゆっくりと巨大な竜巻がグレンデーラに向かい動き始めた。
ゲルトは竜巻が起こるのを狭間から見ていた。
悪名高いウラジロ・ファブニルの大竜巻だ。
赤髪のウラジロ。
竜巻を起こし、その風に煽られる赤毛をしてその二つ名が付く。
グレンデーラに向けて黄迫兵を飲み込みながらゆっくりと竜巻はどす黒い雲を上空で渦巻かせ、その大きさを増していく。
風が強くなり身体が泳ぐ。
近くの石材にしがみ付く。しかし長くは保たないだろう。
この東側はウラジロの法で壊滅する。
人も壁も何もかもを吸い込んで、文字通り根こそぎ更地に変えるだろう。
遠くに赤い長髪を靡かせる男が佇んでいた。
ゲルトの知るどの様な技もそこには届きはしない。
仮に届きウラジロを葬ったとしてもこの竜巻は一度起これば暫しの間猛威を振るう。
森渡り達が逃れていく。
しかし青鈴兵に逃れる手立ては無かった。
ゲルトは最期まで己を殺す男を睨みつけようと視線を送った。
意味は無い。防壁が揺れ始めた。ゲルトの身体が持ち上がる。
その時だ。
小さく何かが光った。
白く小さな光だった。
光の側にて地面にしがみ付いていた兵士達が動きを止め、風に引き摺られていく。
周囲の畔に生えた草が萎れ崩れ落ちて消える。
ああ。
ゲルトは涙を流した。
幾度も見た法だ。
一族の安寧の為に売られた女が一族の危機に駆け付けた。
生きている事は聞いていた。結婚したとも。
後は穏やかに過ごせば良いと考えていた。
眩い閃光が迸った全てを薙ぎ倒し光は駆け抜けた。
竜巻は煽られて根元が消失し、上部の形も崩れていった。
ゲルトは森の際に立つ黒髪の女の姿を目に留めた。
ウラジロは小さな白い光が見えた時、然もありなんと考えた。
奴が生きている事は先の戦闘で分かっていた。
腕を斬られた。余命幾ばくかも無いほどに胸も斬られた。
中心部の熱が奪われ、懸命に竜巻に争っていた黄迫兵の命を奪う。
光が縮み、何かを溜め込んだのが分かった。
直後に輝いた。
逃れられる距離では無い。
そもそも走る事も出来ない身体だ。
中心部が赫く。
振り返った。
森の際に女は立っていた。
艶やかな黒髪を靡かせて彼女は凛と佇んでいた。
「……どう足掻いても敵わんのか………」
光がウラジロを塗り潰す。
ウラジロの身体は塵一つ残さず消滅した。
轟音と共に瞑想するシンカの元にハンニが現れた。
ナウラは構えていた斧を下ろしハンニに近寄る。
ハンニは袋の中から巨大な珠を取り出した。
竜巻に吸われて曇り空が晴れていた。
濃紺の珠が日差しにきらきらと輝いた。
「シンカ」
ナウラは近寄り声をかけた。
水浴びをしたかの様に汗をシンカは掻いていた。
ナウラは布でその汗を拭う。
「……来たか……」
シンカは目を開きナウラの手からそれを受け取った。
シンカは上半身の服を脱ぎ去り花畑の中央に横たわった。中心部に臍を付け、俯せに横たわると両手で珠を抱えて頭上に置いた。
濡れた額に下草が張り付く。
珠の中身は己の経だ。
珠に手を通して意識をやる。数年に渡り蓄えて来た経を取り出す。
そして丹田を通して経点から経脈へ流し込み始めた。経と共に意識が吸れる。経とは神経の延長でもある。
経脈の荒ぶる流れに意識を取られる。
珠の経をただただ流す。軈てシンカは己の身体の存在を感じ取れなくなった。
寒い。
暗い。
大地の中を意識が流れる。蠢く数多の命と共に大地の冷たさ、暗さを感じていた。
シンカは絵具を川に流し、川の流れに身体を取られていた。
だが、それが自然だ。
自然は自然にとってはただの庭でしか無い。
だが人にとっては広大で、広漠とした命の源であった。
争うことなどできない。川を遡って泳ぐ事は出来ない。
人は営みの前に隔たり空を覆い尽くす木々を森と呼ぶ。
しかし彼らにとってその言葉は意味が無い。
言うなれば杜なのだ。
シンカは流し込んだ経と共に意識を引き摺り込まれ、身体に戻る事が出来なくなっていた。
戻り方を見失っていた。
流れに呑まれ、ただ錐揉みに前後上下もなく流されていた。
暗くて寒かった。
ふと身体が、背中に温かみを感じた。
懐かしく感じた。
それが何か暫くシンカは思い出す事ができなかった。
しかしじわりじわりと背の熱は広がり、シンカは己に身体が存在する事を思い出した。柔らかく、温かい。
川を流れる木の葉の一枚でしか無かったシンカの意識は次第に引き戻され、軈て横たわる身体に収まっていた。
珠の中身は空になり、シンカ自身の経も全て失われていた。
全てが経脈に流れ込んでいた。
流れて行く膨大な量の己の経をシンカは自分の神経の延長として感じ取る事ができていた。
身体が重かった。
何かが背中にのしかかっていた。
柔らかく、温かかった。首筋に何かが溢れる。
温かい滴が幾度も滴った。
干し草の匂いだ。
愛する女の匂いだ。
「…大丈夫。戻ってきた」
シンカは言葉を発する。背中にナウラの地肌を感じた。
豊満な乳房が背に押し当てられていた。
シンカの身体は未だ凍えていた。
手足の末端は触覚すら失われている。
それでもナウラの身体を通して徐々に熱が伝わり、少しずつ震えが収まり始めていた。
意識を失い震え始め、返事も寄越さなくなったシンカを案じ、ナウラは服を脱いで身体を温めてくれたのだとシンカは理解した。
愛おしさにシンカの眼からも涙が溢れた。
しかし今は感傷に浸る暇は無い。
シンカの経は経脈を流されて今まさに度重なる突撃を繰り返す赤鋼軍の足元深くに到達しようとしていた。
緑の絵具が川を伝い広がっていた。
赤鋼軍の展開するグレンデーラ南側にシンカの経が広がった時、シンカは意思を強く伝えた。
それは初め、誰も気付かなかった。
丸太を引き摺り門に打ち込む兵士達も、それを指揮するヘルベルトも。
行兵と共に壁を攻撃するヴェルナーも。
防壁を登り切り青鈴兵と森渡りを槍斧で弾き飛ばすグリシュナクも。
今にも破られそうな門の前で兵と共にその時を待つダフネも。
激しい砲火にて壁を襲うヴェルナーに対抗して弾幕を展開するサルバとウルクも。
防壁にでグリシュナクを待ち受けるマトウダも。
誰一人としてそれに気付かなかった。
大地が震え始めた。
続き地鳴りが始まった。
それらは激しい戦闘音に掻き消された。そして突如として大地が隆起した。凄まじい勢いで大地は鋭い幾多の峰を突き出し赤鋼軍を串刺しにしつつ空を目指した。轟音に誰しもが振り返り、範囲内の兵達は為す術もなく山の一部と化した。
グレンデーラの南に標高4半里程の山が僅かな間に聳え立っていたのだ。多くの赤鋼兵が岩にすり潰され、或いは剣山の様に突き出る鋭い峰に串刺しにされた。数万の兵が一瞬にして失われた。
シンカが行った法は槍ヶ峰。途方も無い量の経により行われたそれは1つの山を作り出していた。
赤将ヴェルナー・ヘイズルは遥か高みからグレンデーラの蒼い町を見下ろしていた。
その胸からは鋭い岩の峰が突き出ていた。
「…………な、に……」
何一つとして理解が及ばぬままヴェルナーは息絶えた。
ダフネ・グレンデルは何が起きたか分からぬまま配下に向けて声をぶつけた。
「今よぉ!大地が我等に味方した!開門!敵を殲滅せよぉ!」
門が開かれる。
馬に乗ったダフネは道すがらの兵士を槍で突き殺し駆け抜ける。
茫然自失のヘルベルトの姿を認め、馬を加速させた。
「春槍仁位!ダフネ!グレンデル!」
ヘルベルトは名乗り返す事は出来なかった。
それでも流石は歴戦の強者。
馬上で剣を構えダフネを待ち受けた。
馬影が交差する。
駆け抜けるダフネ。
一方のヘルベルトは回転する大地と空を交互に見ていた。
駆け出し始めたばかりの馬は制御を失い立ち止まる。
首を失ったヘルベルトの身体が崩れ落ちて大地に横たわり、失った首から大地に血溜まりを広げていった。
青嵐のアシャは気付けば大地に横たわっていた。
白い閃光が迸った。中心地からはやや離れていた。
咄嗟にスプンタに庇われた所までは覚えている。
身体に何かが乗っていた。
一塊の炭だ。
その炭は酷くスプンタの頭に似ていた。
よく見ようと掲げると炭は崩れて風に散った。
身体を起こそうとする。
うまく起き上がれない。両手を使い苦労して身体を起こすと己の下半身が黒ずんでいた。
いや、炭化していた。
身体を動かしたせいで下半身が崩れ、スプンタに庇われて無事だった上半身から臓器が溢れでた。
息が苦しくなる。急速に意識が遠のき始めた。
力を込められなくなり地に再び背をつけた。
竜巻に雲が集められ、曇っていた空が晴れていた。
秋の高い空を見上げたが視界が滲む。
死ぬのだとアシャは理解した。
痛みは無い。
ただ息苦しかった。
視界から色が失われる。美しい青が灰に変わっていく。
「………ティア………」
嘗て失った、好きだった少女の名を呟いた。
岩殻にて周囲と自分を守っていたイグマエアは衝撃に意識を失っていた。
大地の揺れにて意識を取り戻したイグマエアは先程までは無かった山を見上げ、背後を振り返る。
崩れ落ちた岩殻と他には何も無かった。
「…………もう…嫌だ………」
足元には僅かに数人。
ミラビリスとディギータ、ユーリス、オランシス。それと名も知らぬ兵士が僅か。
皆消えて無くなってしまった。
イグマエアは頭を抱える。
「…何の、意味があったんだっ!?何の意味がっ!」
更地と化したグレンデーラの東側でイグマエアは泣き叫んだ。
泣き叫ぶイグマエアの頭が抱えられる。
ミラビリスだった。
「……2人で何処かへ行きましょう…。誰も知らない何処かへ。全てを忘れられる何処かへ…」
「忘れられるものか!こんな事がっ!皆生きていた!誰も死にたく無かった!」
皆死んでしまった。
東のイブル川岸付近に残る本陣に生き残りの黄迫兵が集まっていく。
「……ミラ、ディギ、ユーリス、オランシス。行くぞ。もう沢山だ。ここから去ろう…」
此処にいても良い事はない。
ふらふらとイグマエアは戦場を去っていった。
イグマエアが背を向けた黄迫軍本陣でシカダレス、ゼンマ、ドウェイン、グネモの首脳陣が僅かな供の兵と共に取り囲む兵士達に剣を向けていた。
「誰にその剣を向けている!ファブニル当主シカダレス様だぞ!」
片足を失い杖を突きつつ剣を構えるファブニルの老将ドウェイン・ファブニーラの杖が何者かに蹴られ、体勢を崩し倒れた彼を複数人が剣で滅多刺しにして殺害した。
「何がファブニルだ!」
誰かが叫ぶ。
「この戦で何を得られた!?言ってみろ!」
「皆死んだ!何故お前達は無傷なんだ!?」
生き残った兵士達が口々に詰め寄る。
「また再起を図るのだ!兵力を蓄えこの雪辱を晴らすのだ!」
シカダレスが口角から唾を撒き散らし叫ぶ。
「そしてまた俺達が死ぬんだろ!?」
「グレンデルは同じ国民じゃ無いのか?!敵から街を守るなら兎も角!?どうして同じクサビナ人で戦って傷付いて!」
「奴等は悪霊だ!滅さなければならん!」
シカダレスの言葉を理解できる者は居なかった。
にじり寄る兵士達に護衛が剣を構え直す。
しかし彼らの目を見て護衛達は怖気付いた。
「お前達が死ね…」
「何時も苦しむのは俺達平民だ!」
次々と集まる生き残り数千に本陣は囲まれていた。
「俺は戦いたく無かった!」
「俺もだ!皆死んだ!友達も仲間も!」
彼らは囲まれていた。
「うわああああああああああああああああああっ!」
「よせっ!?」
恐怖に負けた兵士が剣を振りかぶる。
ゼンマは止めるが遅かった。
詰め寄っていた兵士の1人に剣が食い込んだ。
一瞬辺りが静まり返った。
「殺せえええええええええええええええええええええええっ!」
誰かが叫ぶ。数十の護衛はすぐに飲み込まれ人の形を保てない程に突かれ、斬り刻まれた。
「よせ!お前達!?こんな事をして何の意味がある?!」
迫る兵士に向けてゼンマは呼びかける。
だがその声も飲み込まれ誰にも伝わらない。
「ぶっ……」
気付けば腹に剣が突き立てられていた。
「や、やめ…」
「死ねっ!死ねえええっ!」
見事な晴天から降り注ぐ陽光に剣が煌く。
ゼンマの頭は赤瓜の様に断ち破られた。
黄迫軍団長のグネモ・ファブニルはシカダレスを背に庇い剣を構えていた。
「汝等!退がれ!御当主様に剣を向けるとは何事だ!?」
「巫山戯るな!何が当主だ!?皆死なせる奴が当主だと?!笑わせるな!ならそいつは直ぐにでも死んだほうがいい!」
襲いくる兵士からシカダレスを背に庇い返り討ちにするグネモだったが、徐々に負傷していく。
「止めろ!?止めんか!御当主様さえいれば再起が可能なのだぞ!」
「再起?!これ程兵が減って再起もあるか!」
到頭振るわれた剣がグネモに届く。
「馬鹿…な……こんな、所、で……」
10以上の剣を突き立てられてグネモは崩れ落ちる。
それを見たシカダレスが悲鳴を上げる。
「止めよ!?折角生き残ったのだぞ?!主君殺し等せず、そうだ!金を出す!皆この激しい戦いから生き残った素晴らしい武勲の持ち主だ!取り立ててやるぞ!?」
「黙れ!死ねえっ!」
突き出された剣がシカダレスの胸に刺さり、赤い染みが胸に広がる。
「……儂は……まだ……」
こうして黄迫軍は崩壊した。
長い歴史を誇るファブニル一族の衰退の始まりであった。
いや、衰退はこの戦を計画していた時に既に始まっていたのかもしれなかった。
森の中を北東に向けて進んでいたケルヴィン・スジルファルは50の黒尽くめと遭遇した。
これまで戦って来た黒尽くめと比較して明確に腕の立つ者達だった。
1人と戦い数十を道連れにされて来たのだ。
同数と戦い勝ち目がある訳が無かった。
ケルヴィン達は懸命に戦って尚、1つの傷を付けることすら出来ず、一人一人倒れていった。
瞬く間の出来事であった。
ケルヴィンの右手に何かの木を彫り込んだ仮面を付けた女が口から液体を吐き出す。
液体を浴びた数人が絶叫を上げて溶けていく。
1人だけ仮面を外した女が木々の合間を縫い不規則な動きでケルヴィンに迫った。
嫌な笑いを顔に貼り付けた女だった。
女は飛び込む様にケルヴィンに斬り込む。
ケルヴィンは迎撃の為に剣を振るう。
ケルヴィンは剣を打ち合う衝撃を意識した。
しかしそれは訪れず剣は振り切られる。
「しまっ?!」
女は急制動をかけていた。
女の凄まじい三白眼の2寸手前をケルヴィンの剣が抜ける。
剣をやり過ごした女の剣が振られる。
ケルヴィンは腕を犠牲にして防ぐ。
だが頭に衝撃が走った。
顳顬が熱を持つ。
女の剣は大きく湾曲しており刃はケルヴィンの腕に触れることなく鋒がケルヴィンの顳顬に突き刺さっていた。
「…お前達は……何者なのだ…?」
涎を垂らし甲高く笑う女に問うた。
「げげげげげげっ、ひっひひっひっ、森渡り、だよ。お兄さん」
女がもう一方の剣を抜き振り払う。
透明の不可思議な刃の剣だった。
この様な暗い森で朽ち果てるのは嫌な気分だった。
ケルヴィンはヴィゾブニル侯への憎悪を抱きながら命を失った。
赤鋼軍はあまりの出来事に挙って投降を始めた。
15000を誇った勢力は3000を切る状態で、グレンデルの生き残った諸将達は武装解除に移っていた。
しかしそんな中剣を捨てぬ男が1人外套を棚引かせて防壁上に立っていた。
グリシュナク・バラドゥアであった。
その正面にマトウダ・グレンデルが立つ。
しかしマトウダには最早グリシュナクに打ち勝つ程の武威は無い。
10年前ならいざ知らず、今は衰えていた。
それでも彼は引く事なく怒涛のグリシュナクの前に立ち塞がった。
老武将が皆が見守る中今にも名乗りを上げようとしていた。
だがグリシュナクは突如振り返り槍斧を振るう。
振り返りざまの一撃を黒い人影は潜り込んで躱し迫る。
グリシュナクは腰の古びた短剣で攻撃を受けた。
短剣が受けたのは鉄の拳だった。
クウハンだった。
短剣はクウハンに破砕され、破片がグリシュナクの頬を斬り裂く。
「そんなに死にたいなら殺してやる。お前の事情にこれ以上他人を巻き込むな」
クウハンの左拳がグリシュナクの鎧ごと胸を穿ち、反対まで突き出た。
「………………」
グリシュナクは己に突き刺さる腕を唖然として眺め、槍斧を取り落とした。
「………漸く……」
そしてクウハンにしか聞こえぬ声で小さく呟き膝を着いた。
「……………リンネア………今行く」
そのまま仰向けに倒れ伏した。
半世紀以上最前線で戦ってきた武将の呆気ない最期であった。
しかし彼の死顔は不思議な程に穏やかであった。
その左手には刃の砕けた古い短剣が死して尚握られていた。
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