10. 家族
朝日が障子越しに差込み、ちゅんちゅんという小鳥のさえずりが布団の上で大の字になっている葉子と、雄一の耳に届いていた。
先に体を起こした雄一の動く気配につられて葉子も体を起こした。
着替えを持ってきていなかった二人は、家にあった浴衣を借りて寝巻きにしていた。
「うぅ、おはよー」
寝ぼけ眼の葉子が上半身だけ起こし、同じように起きた雄一も挨拶をしながら葉子の方を見たが、途端に顔を赤くしながら顔を背けた。
「……顔洗ってくる」
雄一は寝ている間に着崩れた浴衣の帯を締めなおしながら、洗面所に早足で歩いていった。
布団の上では、浴衣が着崩れて白い胸元まで露わにした葉子が、寝ぼけ眼で頭をゆらゆらと揺らしていた。
顔を洗い服を着替え居間に戻ってきたが、二人は違和感を感じていた。
「美弥はいた?」
「ううん、いない」
家の中にはどこにも美弥の姿はなく、代わりのように台所に朝食が置かれていた。
味噌汁からは湯気がたち、ごはんも炊きたてであった。
「さっきまでいたのかな……」
「たぶんね……」
朝食を食べ終えると、縁側に座った二人は特にしゃべることもなく辺りの風景を眺めていた。
風が草木を揺らす音、鳥や虫の音だけが聞こえるだけだった。
葉子がふと隣に視線を向けると、雄一が床の間に飾られた千代紙細工をじっと見ていることに気がついた。
「それきれいだね。誰がつくったの?」
「ばあちゃんだよ、すごく手先が器用でね。色々作って見せてくれたんだ」
葉子が感心しながら、千代紙で作られたミニチュアサイズの和傘や人形を見ていた。
「ばあちゃんに一個なにか作ってほしいってせがんだことがあったんだよ。でも、その約束の後、母さんが迎えに来ちゃってさ……」
「大丈夫だよ。だって、雄一のおばあちゃんはいるんだから」
「覚えててくれてるかな?」
「絶対覚えてるよ。だって、雄一のおばあちゃんなんだよ!!」
「……そっか」
根拠もなにもない力押しの言葉だったが、雄一は言葉にはできない暖かいものを感じ取っていた。
「そろそろ、バスの時間だね」
「うん……、いこっか」
雄一が立ち上がると、葉子はゆっくりと立ち上がると名残惜しげに部屋を見渡していた。
「今度は、忘れ物ないよね。でも、もしも忘れ物をしていったら美弥にまた会えるのかな……」
寂しげな横顔に、雄一は静かに語りかけた。
「ねえ、戌井さん。母さんたちに連れ戻された日に、玄関の戸が開かなかったのってさ、あれは美弥から言いたかったことがあったんじゃないかな」
「ただ単に、ママたちが来たからさっさと帰れってことだったんじゃないの?」
「そうかもしれないけど、でも、ボクたちの家はあそこじゃないって言いたかったんだと思うんだ。あの1週間は楽しかったよ。一日中遊び続けてさ。でも、遊ぶのが楽しいのって、やっぱり、帰れる家があるからなんだよ」
「……はぁ、遊んだら帰りましょうってことか。しょうがないなぁ、じゃあ、家に帰ろっか!」
「うん!」
玄関で靴を履き、そしてゆっくりと玄関の戸を閉めると、葉子がいきなり走り出した。
「バス停まで競争ね!! 負けた方がアイスをおごるってことで」
「ちょ、まってよ」
慌てて雄一が走り出した。そして、再び家の中は静寂につつまれた。
離れていく二人の子供を、一匹の見事な毛色をした狐が屋根の上から見送っていた。
冷房のよく聞いた病院の受付に、着物姿の少女が近づいた。
「あら、いらっしゃい。今日もお見舞い?」
「そうじゃ。宮のやつは元気にしておるか」
「大丈夫、今日も元気よ。狐格子さんもお孫さんがいらっしゃってきっとよろこぶと思うわ。この前も他の子が見舞いに来たのだけれど、親戚の子かしら?」
「まあ、そんなところじゃ」
少女は顔なじみとなった受付の看護士と雑談を交わすと、病室に向かっていった。
山吹色の着物姿という目立つ格好にも関わらず、廊下を歩いていた人間は、特に気にすることもなくすれ違うだけだった。
「宮、今日も来てやったぞ」
「来たか、美弥。今日は何をして遊ぶ?」
窓際のベッドに座る老女は、年に似合わない少年のような笑みを浮かべて美弥を出迎えた。
「お手玉を5つまで放ることができるようになったから見せに来た。おぬしはまだ4つじゃったろう?」
「本当か? わたしが教えてやって、最初は2つでもできなかったくせに」
二人はひい、ふう、みいと、数えながら艶やかな赤い布地のお手玉を宙に放り始めた。
「くそっ、なぜできない。もう一度だ」
老女は悪態をつきながらもゆっくりとした手つきで、床に散らばるお手玉を拾っていた。
「なあ、宮。おぬしの孫に久方ぶりに会ったぞ。背も大きくなっておって、言葉も達者になっていてのう。人間の成長とはいつ見ても驚かされてばかりじゃ」
老女からの返事はなく、ベッドの上に転がったお手玉を懸命に拾いあげていた。
「急に来たのは驚いたが、おぬしの振りをして適当に相手をしたら帰ると思ったのじゃが、なかなか思うようには行かなかったよ。雄一もやはりおぬしの血が流れてるせいか、予想外の行動ばかりじゃ。それに、雄一の連れのやつがまたおかしなヤツでのう、おぬしに負けず劣らずじゃったよ。会ったら、きっと気が合うと思うぞ」
少女は穏やかな笑みを浮かべながら話しかけるが返事はなく、白い病室の中で赤いお手玉が踊り続けた。
数時間を過ぎたころ、老女が満面の笑みを少女に向けていた。
「できた、できたぞ!! みただろ、なあ、美弥」
「見ていたよ、よくできたのう。じゃが、そろそろ疲れたんじゃなかろうか?」
「む? ああ、言われてみたら、なんだかすごく眠いな。ちょっと昼寝することにするよ……。ああ、そうだ、その前に、それ渡しといてほしいんだ」
ベッドの脇に置かれたテーブルの上に、千代紙で折られた鶴が置かれていた。
「誰に渡せばいいんだ?」
「えっと、あいつだよ、あいつ。約束したんだよ、今度あげるって。ああ、もうだめだまぶたが重い……。また、明日、遊ぼうな」
「ああ、おやすみ」
ベッドに横になり寝息を立て始めた老女に、少女が優しげな笑みを浮かべながら布団をかけてやった。
少女は折鶴を大切そうに手に取った。
「宮……、雄一との約束、覚えてたんだな。今度会ったときに渡しておくよ」
少女が病室から出るのと入れ替わりに、ナース服をきた若い看護士が入ってきた。
「狐格子さん、薬の時間ですよ……、あら、寝ているのね。それじゃあ、後でまたきますからね」
遊びつかれた子供のようなあどけない顔をして眠る老女を見て、微笑ましいものみたような微笑みを浮かべた看護士は病室を後にした。
*
夏休みに入り、雄一の家には新しい家族が増えていた。
30代前半の若々しい見た目の男と、雄一が公園でキャッチボールをしていた。
「雄一くん、いくよっ」
山なりに投げられた白いボールが青い空の中で放物線を描きながら、雄一に飛んでいった。
パシンと小気味よい音をたててグローブの中に収まったボールを、雄一は遠慮がち投げ返した。
二人の間にはぎこちない雰囲気が流れ会話はなく、ボールだけが青空の下を行き来していた。
「そろそろお昼だ。そろそろ帰ろうか。お母さんがおいしい料理つくってくれてるかな」
「はい」
男は笑顔を浮かべながら、一生懸命雄一に話しかけるが会話につながることはなかった。
「おかえり~」
家に帰ると雄一の母親が出迎え、食卓には昼食を盛られた皿が並べられていた。
「おっ、そうめんか。夏らしくていいね~。雄一くんもそうめんは好きかい?」
「えっと、ふつう、かな」
3人はテーブルを囲んで大皿に盛られたそうめんを箸でとり、つゆにつけてツルツルとのどに流していった。
食べ終えると、リビングルームにはテレビの音が流れていた。甲子園で汗をながす高校球児たちの様子をなんとなく見ていたが、雄一はチラチラと他の二人を見出した。
そんな雄一の様子に母親の方は気づいていたが、あえて気づかないフリをして雄一が動くのを待っていた。
「あのさ、えっと、ちょっとお願いがあるんだ」
「どうした? いってごらん」
振り向いた男に、雄一は遠慮がちに言葉を続けた。
「夏休みの間、ちょっと行きたいところがあるんだ」
「なんだ、遊園地か? それとも買い物かな?」
「父さんの、田舎なんだ」
「そうか……」
男にとって、雄一から実の父のことを口にされるというのは気まずいものであった。男が複雑な顔をしているのを見て、雄一は慌てて次の言葉を続けた。
「ボクも前に少しだけ住んでたことがあってさ、田舎だけどすごくいいところなんだ。でさ、その、お父さんにも見てほしいなって……、ダメ、かな?」
「……ああ、いいさ、いいとも、絶対に行こう!!」
「それに、向こうで会いたい相手がいるんだ」
「もしかして、一緒にいたあの子?」
「ち、ちがうよ。ばあちゃんと、あと、……友達だよ」
また祖母と会いたいという息子を、母は微笑みながらみていた。
「有休はまだ残っていたはずだ、目一杯休んでやるぞ!」
父親となった男は弾むような口調で、雄一の母親と旅行の日程を話し始めた。
後日、田舎にいく数日前になった雄一はパソコンの前に座っていた。
たどたどしい手つきでキーボードを叩き、その横では新しい父となった男が使い方を教えていた。
「メールを使いたいなんて、ネットで知り合った相手か?」
「ううん、転校した友達。その子、スマホ持ってるから、ちょっと報告したいことがあってさ」
「どうしても連絡したい相手ねぇ……、もしかして、女の子か?」
「ちがうよ、ただの友達!!」
「そうか」
顔を赤くしながら必死に否定する雄一を、微笑ましいものをみるように見ていた。
やがて、雄一の元にメールの返信がやってくる。
『ずるい!! あんただけいくなんて絶対ゆるさないからね。わたしも行くから待ってなさい!!』
メールの返事を見た雄一が一人でにやけているのを母親に見られて盛大にからかわれるのを、まだ雄一は知らない。