96 噂の立つところに、ほっかぶり ⑤
プジョーニの街中にあって、ひっそりとした場所。
そこでは、鉄の音と水の音が響く。
ギーコギーコ。
手押しポンプが井戸の水を汲み上げる。
バシャーバシャー。
こびりつく菓子の汚れが、洗い流されてゆく。
月光にも濡れた戦士の鎧。
銀の胸当ては本来の輝きを取り戻す。
綺麗になった装備品。
それから漆黒のマントを羽織り、刀剣を携える若い男がゆく。
あてのない散歩……。
「……またあの時計塔にでも行ってみようか」
夜空に星を探しながら、”アレク”は歩いた。
昨日覚えたところへ。
いくつかある広場の一つ。
開けたここには、ぽつりと佇む建物があった。
のっぽりとした木造の塔。
上部の四方ある側面には大きな時計盤。
屋根までは20M(マーベル)と――、プジョーニでは一際高く、街の者達から『ノッポさん』との愛称で親しまれる時計塔である。
――チックタック、チックタック。
時計塔ノッポさんは、ここで100年の時を刻み人々を見守ってきた。
もちろん今も、その時計の針を進める。
しかしそれに合わせ、時計塔の老朽化も進ませてきた。
ゆえに、近々改修工事が予定されているのだが……工事用の足場がすでに設けてあったりと、今現在、景観はあまりよろしくない街のランドマークとなっていた。
そんな時計塔の中を登れば、見晴台に出られる。
時計盤をノッポさんの顔とするなら、首にあたる位置。
そして、穏やかな夜風が吹き込むそこからは――。
――”アレク”が顔をのぞかせ、髪をなびかせていた。
眺めるは、ほのかな明かりが点々と灯る夜景。
「ここは……プジョーニといったか……」
何かを呼び起こすようにして、街の名をつぶやく……がしかし。
――その記憶、その思い出の中に、街の名やこの景色はない。
自分の存在だけが、この世界から抜け落ちたような感覚。
自分に関する断片的な記憶が、わずかに在るだけ。
靄がかかるような頭の中――。
かれこれ三日ほどになるが、立ち込める霧が晴れる気配は遠い。
それでも、自身の名前くらいは思い出せた……。
いいや、思い出せたと言うには語弊があるか。
『アレックスお兄様』――。
そう、黒髪の少女がこちらに呼びかけてくる。
強く残る記憶の断片。
そこから、推測したに過ぎないのだから。
――だとしても。
「僕は……アレックス」
名乗った口元が微笑む。
これさえあれば、”誰でもない不安と恐怖”に戦える。
アレックスは自身の名を知り得たことを幸運だったと考えた。
「……それにしても、まさか自分が記憶喪失という症状に見舞われるなんて」
いつどこで学んだのかは思い出せないが、医学書を手に取り読んだ覚えがあった。
しかし、治療法が思い出せない。
「きっと僕が勉強を嫌いで、きちんと読んでいなかったのだろうなあ……」
悔やんでもどうにもならない。
アレックスは自嘲しつつ、それを笑い飛ばすだろうか。
――そのような矢先であった。
アレックスが緩ませていた顔を、途端に引き締めた。
指輪をハメる利き手は、腰の武器へそっと伸ばす。
それから気配を感じた背後へと振り返った。
相対するは、フードを深く被る者。
距離を置くも、寸前まで気づけなったことに、アレックスは警戒の色を濃くした。
そして。
「あの時は手加減した。でも今度はそのつもりはない。それは伝えておく」
――あの時とは、夕刻の出来事。
それは、案の定といった次第だった。
先日からつけ狙われ、監視されている自覚があったからだ。
フードで顔を隠す濃い色のローブを纏う者達。
その怪しげな者達から、アレックスは因縁をつけられた。
一方的な言動の大半が、理解し難いものではあった。
それでも、敵意を向けられているのだと容易に判断できた。
『従わないのなら、殺すまで』――。
脅し文句を吐く相手に、アレックスは手刀で切り抜ける。
自分の身が危ういとはいえ、記憶がおぼろげであることが武器の使用を控えさせた。
湧き起こる正義心に、自信が持てずにいたからだ。
よって相手の延髄へ衝撃を与え、意識を刈り取るだけの攻撃に始終した。
――だが。
二度目ともなれば、最早その必要もない。
相手もどうなるか知るところのはず。
命のやり取りだろうと辞さない……そのうえで、今こうして再び襲ってくるのだろう。
「指輪は渡したくても渡せない。諦め大人しくここから去ってくれるなら、僕が剣を構えることはない」
アレックスからの最後通告。
しかしそれを、相手は受け入れるつもりがないようだ。
なぜなら、狼狽える様子も見せず、わざわざフードを剥ぎ取ってまで、ニヤリとしたその顔を見せつけてくるのだから――。




