80 狼と羊ではない者達 ②
三階からなる病棟の端っこ。
個人部屋の階層となるそこは、都合もよく人気はない。
「エリさん、もう少し私のほうへと身を寄せていただけないでしょうか」
「あ、はい」
エリが、ちょんちょんと前進。
「……もっと、こちらへよろしいでしょうか」
ラティスから言われるがままに、エリが接近する。
二人の間隔は、お互いの慎ましく膨らむ胸元辺りが当たるかどうかといったところ。
「もっと……お近づきになってくださいな」
「え!? でもでも、これ以上は――」
”もっと”と言われれば、それは抱きつくほどに、ということだ。
果ては、すぐそこにある艶やかな唇と触れ合うことにも――。
そう意識してしまった誘いに、エリは顔が赤くなるのが分かる。
「いつも通り、エリさんは、素直でお可愛らしい方ですわね。ふふ」
す、とラティスが後ろへ。
友人同士の会話として適切な距離を取った。
「冗談はこのくらいに致しまして」
――ぱちん。
ラティスが指を鳴らす。
すると、二人を囲むような魔法陣が腰の高さにて展開された。
「お話するのに、魔法?」
「どこに誰の目があって、誰の耳があるかは分かりませんので、念のため」
切れ長の目を細くしたラティス。
「魔法陣の外からは、私もエリさんも波立つ水面に映る姿で認知されます。話し声は魔法陣の外には漏れません」
「へえ、そうなんですか。やっぱり魔法ってすごいな~。……あれ? そんな中で、ラティさんが私にお話しするのって」
「ええ。二人だけの秘密の会話となります」
ラティスがその唇に人差し指を立てた。
綺麗だと思う同性のしんなりとした仕草。
エリは、ごくりと喉を鳴らす。
けれどもそれは、色香に惑わされたからではない。
”秘密”という、相手から信頼を託されたその緊張からであった。
「そうお硬くならないでくださいな。これからお話しするのは、大層な事でもなく、ちょっとしたお願いのようなものですので」
「はっ、はい! 頑張ります!」
「ふふ、私はまだ、お願い申し上げてもいませんことよ」
「てへへ……ですよね」
ペロっと舌を出して、エリは早合点をした自分を茶化す。
「まずは……そうですね。先程のお兄様の記憶に際して、それが私がアーサー様と行動を共にする理由だと、以前エリさんにはお伝えしたかと思います」
「確か、アレックスさんの記憶が、魔王さんに奪われたとかなんとかでしたよね?」
「はい。おっしゃるように、彼の者どちらから”記憶を奪われた”……そうに違いないのです」
ラティスに確証というものはない。
しかし今日に至るまで、様々な情報を集めて調べ上げ見えてきた結論であった。
――兄との別れの日となった世界樹への旅立ち。
その細い糸を手繰り寄せたならば、何者かによる記憶操作を疑うずにはいられなかった。
「それが形として彼の者の手にあるのか、お兄様の身体の中で封じ込められているのかは、正直分かりかねますけれども」
「……記憶喪失って聞いたことがある私なんですが、ラティさんのお話からすると、それとは違うアレクなんですね?」
「はい。言うなれば、記憶喪失ではなく『記憶操失』とするところでしょうか。そしてそれは、魔法によるもの」
「ほえ~、やっぱりなんでもできちゃうんですね……」
気の抜けた会話の合いの手。
その中身をのぞくとするなら、そこには『魔法使い少女エリ』なる憧れがあった。
さっと夜空に手をかざせば、星々がきらびやかな帯を引き流れる。
びゅんと雲の上まで飛べば、顔を描いた月が小話を披露してくれる。
――魔法少女っていいかも。
そんなエリの空想に対し、
「ふふ。どこか楽しそうなエリさんには、気が利かない発言になってしまいますが、なんでも、とはいきませんことよ」
ラティスは現実に生きる魔法少女である。
「魔法士の私からすると、それはそれは制約も多く、魔法だとかえって不自由することも少なからず、といった具合です」
「うーんん……」
小首をかしげるエリ。
お腹が空いたら魔法で料理を出せばいいし――などと考えた頭では、ラティスの魔法による不自由さに思い至らない。
「たとえば……人の記憶を奪うのであれば、その対象者のど頭をぶん殴る方法などが手間暇もいりませんし、至って楽なものです」
ラティスの補足は、エリの理解を得るようだった。
さらには、相手に『過激だな……』と思わせた節もあるそれは、意図せず『アレクの妹らしさ』を演出したようだが。
こほん、と咳払いが一つ。
「少々言葉使いがよろしくありませんでしたけれども、つまりは、魔法に括らなければ、簡単な事もあるという内容のものですわね」
――そうして、である。
「……はっ!?」
エリが思わず声を漏らす。
ズドーンと雷鳴にでも打たれたような感覚。
魔法の話――、記憶の話――。
ふんわりと聞いていたそれらが、一つのはっきりとした流れとしてエリを飲み込んだ。
「そういう……ことなんだ」
魔法少女改め、推理少女となる脳内が告げるのだった。
それは――。




