72 竜王ヴァルヘルム ①
王都より北の地。
この地の魔族を統べる王がいた。
名はヴァルヘルム。
北の魔王たる彼の者は、『人魔大戦歴史書』にもその名を記す。
約400年前に勃発した人と魔族の大きな争い。
その時を経てもなお、竜王と呼ばれ畏怖された存在はあり続けた。
――黒きドラゴンが舞い降りてくる。
魔王は強靭な後足を下方に、立ち姿のまま背中の翼を広げていた。
片目を失う厳しい頭は、人間達を見下げるだろうか。
ゆっくりと……威厳に満ちた態度で、大きな姿が洞窟内に収まってゆく。
そうして。
――その姿を黒い霧状のものが包み込む……。
「……”変身”か」
「みたいだね。幸いなことに、とりあえずは僕達と話してみようとするつもりなのかな……」
見上げながらに、ノブナガとアーサーは言葉を交わす。
「ノブナガは、後ろの彼女達を頼む」
「おう、任せておけ」
アーサーは手にする武器を収め、ノブナガはドラゴン達からの壁になるようにして、エリとココアの前を陣取る。
「剣を収めるか。賢明……ではあるも、少々興には欠けるか……」
上空から緩やかに降りてくる老人。
白髪、白髭、隻眼の翁は、上品な黒きローブを纏う。
宙に浮かぶその者は、黒きドラゴンから人間の姿へと変貌を遂げた魔王であった。
ふわり。
ローブの裾が大地に触れた。
魔王ヴァルヘルムは、手招きドラゴンと飛竜との間に降り立つ。
「こうして相見えるは初なれど、お主が人族が勇者と称える者だとは、言わずとも分かる。その身からは、ルネスと同じ忌まわしき神の力を感じるからの……」
隻眼が放つ力強さは、老人のものとはほど遠い。
ヴァルヘルムはその眼差しを歩み寄るアーサーに遠慮なく浴びせた。
「竜王ヴァルヘルム……正直僕は、こうして直接貴殿が訪れたことに驚いていますよ」
「それが真の驚きであれば、お主は道化も良いところであるな」
ヴァルヘルムは微かに笑うだろうか。
そして、腹の底では怒りを抑えるだろうか――。
――ある時、眷属たる手招きドラゴンと人族とのいざこざが耳に入る。
しかし魔王ヴァルヘルムは、その争いが人の領地でもあることから静観することにした。
これに反発する眷属達はいない。
人間の王ルネスブルグが人族を率いた大戦より、そうした不文律が生まれていたからだ。
それでも、のちに知る事情は看過できるものではなかった。
己が眷属の異変と、その者に刃を突きつけようとする勇者の存在。
人族の策謀。
さらには、”神の加護”を宿す者に眷属の命を奪われるなど罷り成らない。
この理由が、魔王の地位にありながらもヴァルヘルムを呼び寄せた。
ゆえに、これは目の前の人間が予期していたものの一つ。
想定していた事態に驚いてみせたにしか過ぎない。
ヴァルヘルムからすると、それでなければ滑稽も甚だしい戯言というわけだ。
「僕は駆け引きが苦手です。なので、こちらの考えをありのままに伝えようと思う」
「それにこの儂が耳を貸すとでも思うてか」
「貸しますよ。なぜなら貴殿は、”変身”してまで僕の前にいるのですから」
軽い微笑み浮かべたその胸の内はともかく、自身は苦手と言いつつ、アーサーは十分な”駆け引き”を見せただろうか。
端から話を聞くつもりがなければ、人の姿で降り立つ必要もなかったはず。
魔王の揺さぶりに、アーサーは動じる様子もない……だが、それが揺さぶりでもなければ、話も変わる。
「勇者よ……興醒めであるな」
「確かに魔族たる貴殿にはつまらない、僕ら人族の話ではありますね。それでも、きっと――っ!?」
アーサーが言葉を切る。
いいや、相手からそうさせられてしまう。
――”黙せよ――”
とばかりの不意に膨れ上がった圧力によるものだ。
「儂がこの姿で主の前に現れているのは、人族が称える勇者たる主に告げねばならぬゆえ。この時より始まる魔族と人族との大戦。それを宣言せぬと、人族とはいえどルネスとのしこりを残してしまうからの……」
刹那、昔を懐かしむような表情を見せたものの、隻眼の顔は脅威を伝える冷淡なもので染まっていた。
そして、その口から出た言葉は、人にとって絶望を与えるものでしかない。
竜王ヴァルヘルム率いる北の魔族が、自ら進んで人と戦う決意をした。
それは、いくつもの国が滅び多くの人命が犠牲になった『人魔大戦』の再来となりうるものだ。
アーサーの焦りを確かめるまでもなく。
まして、疑うまでもなく。
――竜王ヴァルヘルムは、それだけの力を持つ。




