46 湯けむり乙女 ③
ラティスにとってロイヤール家の者達は皆かけがいのない家族だ。
実父の友人でもあったロイヤール伯爵は、本当の娘のように愛情を注いでくれた。
それでも血を分けた肉親となれば、件の兄だけが唯一となる。
そんな兄との思い出をラティスは嬉しそうに語る。
たとえば、体調の良い日に一人外出をした時の話はこうだった――――。
目に飛び込むものすべてが鮮やかに映る世界は、少女を駆り立てた。
絶え間ない街の探索。
しかしそこに、少女の無知と好奇心は過ちを犯してしまう。
屋敷での生活がほとんどだった少女は、他の子供たちにも増して世間をあまりに知らなすぎた。
陽射しも傾く頃。
立ち入った先が、ならず者も多い危険な場所だったと気づけなかった。
そして、好奇心を警戒心に変えるにはとうに遅すぎた。
執事の目を盗み外に出てしまった、その後悔の念がどっと押し寄せる。
――自分を取り囲むようにして立ちはだかる複数の男共。
異様な雰囲気の大人の影は4.5人。
強盗なのか、誘拐なのか、または……乱暴なのか。
目的ははっきりしなかったが、自分が絶対的な危機に陥っていることは分かりきっていた。
――助けを求め、叫ばなければ。
けれども、声は出ない。
きゅっと閉じて、頑なに開こうとしない喉。
ただただ恐怖と絶望で小刻みに震えることしかできない。
『アマンテラスのお導きってヤツなのかもなあ……。まさかこーんな所にお嬢ちゃんのような上等な子供がウロウロしているなんてなあ……』
『ケケケ。お前さん教会なんて物乞いしかしたことねーだろによー』
『なんにしろ俺達だけで手早くヤっちまおうぜ。他の連中が嗅ぎつけたら取り合いになるしな』
手に刃物をチラつかせる男共が、他愛のないことを言い合いながらに少女を襲う。
――まさにその瞬間だった。
大人の男共には小さな存在でしかなかっただろう。
それでも少女にあっては――それはそれは大きな存在感を示す背中がそこにあった。
眼前の兄の肩が上下に揺れている。
疾風のように駆けつけてくれた表れだった。
『はあ、はあ、ラティ。もう大丈夫だ。もう怖い事は終わりだ』
その声と少しだけ見せてくれた横顔に、少女は涙が止まらなくなった。
頼りになる兄は12の齢にもかかわらず、勇敢にも男共と剣を交えて戦う。
命を落とすまではなかったにしろ、双方に血が流れた。
そうして兄は――、少年は――、ならず者達を退けた。
『この僕、アレックス・ロイヤールはいつでもどこでもお前達と戦う覚悟がある! その心によく刻んでおくといいっ』
少年が子供のものとは思えぬほどの堂に入った態度で言い放てば、少女を探していたロイヤール家の騎士達もこの場に姿を現す。
負傷するならず者の男共は難なく捕まった。
屋敷に戻れば、少女はたいそう叱られた。
更には許可のない外出は禁じられた。
悲しい事ではあったが、当然の結果だった。
そうこうして……。
――月も綺麗なある夜の事だ。
大好きな兄がこっそり部屋に訪ねてきた。
そして、塞ぎがちな少女に微笑みかけこう言うのだ。
『体調が悪くなければ少し外に出ないか。そのほうが今のラティには良いように思えるんだ。もちろん御父様には内緒だけどね』
少女は戸惑った。
嬉しい気持ちの中に、また迷惑をかけてしまう負い目があったからだ。
しかしそんな迷いも兄の言葉が晴らしてくれた。
『大丈夫さ。僕がラティの騎士として一緒にいるから。さあ、行こう』
差し伸べられた手を、少女ラティスは強く握りしめた。
夜な夜な屋敷から抜け出し、兄がどこからともなく連れて来る街の子供達と遊ぶ。
兄のおかげで友達もできた。
そんな少女の目に映る兄は、人望も厚く果敢で周りから愛されていた。
秘密ではあるけれど、楽しい日々。
少女は幸せをいっぱいに感じていた。
だがしかし、それも難しくなってゆく。
――病だ。
生きる活力に湧く気持ちとは裏腹に、少女を蝕む病は年を追う度に悪くなっていった。
もうベッドからも起き上がれないほどに。
だからこそ少女の兄は決断したのだろう。
少女は執事から聞かされた。
『トゥラトスの山頂で万葉樹の花が咲いているらしいのです。その事でアレックス様はしばらくお屋敷を留守になさいます』
険しさで有名なトゥラトス山脈。
そればかりか魔族領もほど近い。
人が踏破するには、この山は何より命の危険がつきまとう。
にもかかわらず、少女の兄はそこへ向かったのだ。
危険を犯してまで山を登る理由は万葉樹、その花の蜜の採取にあった。
万葉樹は神の息吹で育つと言われる神秘的で希少な樹木で、30年周期で花が咲く。
花の蜜からは万病を治す『薬瑠湯』が作れる。
それはつまり。
――少女の命が助かることを意味した。
あれから5年。
難病を克服した少女は王都の魔法学校へ通い主席で卒業後、今は可憐な才女として勇者一行にその名をつらねるまでに至った。
はたまた、こうしてちゃぷりと大きな湯船に浸かり、同世代の乙女と親しむ機会を得ている自分がいる。
それもこれもあの日あの時届けられた薬瑠湯がなれば、叶わぬ未来だったろう……。
「思い出話は尽きませんけれども、語り尽くす頃には湯あたりしてしまっているやもしれませんね。ふふ」
私のお話はここまでに致しましょう。
そう受け取れる隣からの言葉に、エリはすでに決まっていたのであろう言葉で応じるようだった。
「素敵なお兄さんですね」
「ええ、それはもう例えようもなく、とても素敵で尊敬できるお兄様でした」
心の底からそう思うといった様子で、ラティスは声音を弾ませた。
「えへへ。嬉しそうなラティさんを見ていると、なんだか私も嬉しくなっちゃいます」
二人の乙女は温かい湯に顔の血色も良くする。
「お兄さんかあ……。いいですよね~兄妹の絆って。なんだか私、ラティさんのお兄さんにお会いしたくなっちゃいましたよ」
エリは陽気に、そして羨ましさを秘めて言う。
すると、相手の顔がそっぽを向く。
そこから見えた一瞬には哀しい表情があった――気がした。
「あれ……ええと、ラティさん?」
エリが思いあぐねながらに呼びかけてみた。
その結果、反応は別のところからやってくる。
傍らから『とーっ!』の幼い掛け声。
「とう!?」
――ざぷん。
「きゃはは、きゃはは」
湯船に勢い良く飛び込めば、ココアがバシャバシャと泳ぐ。
水しぶきを浴びながらに、やれやれと見守るエリとラティス。
「ココアちゃん。他のお客さんもいるから泳ぐのはダメだよ。こういったお風呂は楽しくても静かに利用するのがマナーになります」
「そうなの?」
「そうなの」
エリがココアにマナーを教える。
さすれば、すかさずの、
――ドーンっ。
である。
唐突に大きな音が鳴った。
湯船にちゃぷちゃぷと波が立つ。
伝わってきた振動がそうさせた。
「これは……殿方の湯のほうからでしょうか。なにやら騒がしい声が聞こえてまいりますわね」
ラティスが指摘したように、耳をすませば怒号らしき男性の声が聞こえる。
「お風呂は静かにしないといけないのにー」
ココアが壁に向かって声を上げた。
「ふふ。私達とのそれとは違い、殿方には殿方のマナーがきっとあるのでしょうね」
男共への冷やかしなのか、ココアをなだめようとしたのか。
とくに『漢の湯』の騒がしさを気に留めるまでもなく、ラティスはその白い身体を湯船から引き上げるようだった。
そんな中、エリはといえばぷくぷく~ぷくぷく~と泡立てながら湯船にその顔を隠すように沈めてゆく。
大方、その脳裏に浮かぶ人物を悟られまいとしたのだろう。
――十中八九、原因はアレクだ。
エリの思いはこんなところか。
正解は、その通りであった。
大陸辞典:「薬瑠湯」
万葉樹の花の蜜を煎じて作る万能薬。
古代の資料文献でも登場する薬瑠湯は、神々の楽園では女神が定期的に配っていたのではないかとされる。
王都学者会では、”薬瑠湯女神”の記述はそのように解釈されている。




