27 魔象痕
『目つぶしにはゲンコツ。ゲンコツにはビンタだな』。
などと、アレクが三すくみのルールに理解を見せて間もなく、いざ尋常に勝負となった。
――ジャンケン、ぽんっ。
更に。
――ジャンケン、ぽんっ。
もひとつ。
――ジャンケン、ぽんっ。
これなら勝てると満を持して臨んだエリ。
しかしながら。
恐ろしくジャンケンに弱かった……。
旅初日の夜も、幾分深くなった。
パチパチと音を立て、燃える焚き火。
照らされている男の顔は、未だ気分も上々といった様子だったが。
エリに教えてもらった三すくみの遊びで、散々相手を負かして愉しんだその余韻も消えかけた頃だ。
「森のモンスターどもを相手にするのも、なんだか面倒に思えてきたな……」
食事でパンパンに膨れさせた腹を引き締まったものへと戻していたが、そんな腹を投げ出すようにしてアレクは草地の盛り上がる小岩へ背を預けていた。
そこから、のそりと身を起こす。
「そういえば……」
ここより少し離れた場所。
焚き火とは違う魔晶ランプの明かりを見やってから、のしのしと歩く。
アレクが魔晶ランプが灯る馬車へ、のしのし。
「おい、クサコ。近くに泉があると言っていたな」
大きな声に、洗った食器や調理道具を整理していたエリが荷台から降りてくる。
「お水なら、はい」
エリの手には革袋の水筒がある。
アレクに渡そうとするそれは、のどが渇いたのだろうと気を利かせてのものだった。
「水筒はいらん。必要なのは手拭いだ」
アレクは馬車に足を掛けると、荷台の中へ。
ごそごそと漁り目的の物を手にすれば、次に御者台に吊るされていた魔晶ランプを取り外す。
そうしてから、とりゃ、と馬車から飛び降りエリの元へ舞い戻った。
「よし、クサコはこれを持て」
ほいっと魔晶ランプが渡される。
「十日程体を洗っていないことに気づいてしまったら、今すぐにでも水浴びをしたくてたまらなくなってな」
「い゛……」
エリが鼻をつまみそうな勢いで顔をしかめた。
そして、後退る――ところを捕まえられてしまう。
「泉まで案内しろ」
「たぎゅっ」
首根っこを掴かまれひょいと持ち上げられれば、明かりを持つエリがランプのように吊り下げられながらに森の中へと連れて行かれた。
緑と暗闇で包まれる森にあって、欠けた月の光が降り注ぐ場所。
月下に岩肌を晒し澄んだ水が湧く泉。
その傍らでは、バババっと着ていた衣服を脱ぎ散らかすアレクが、均整の取れた身体つきを披露させていた。
「うきゃああっ。い、いきなり裸、裸にならないでえっ」
「お前というヤツは本当によくわからんヤツだな。クサコは服を着たまま水浴びをするのか」
「しないけど――ぎゃああっ、こっち向いちゃダメっ」
反射的に両手で顔を覆い屈むエリ。
そこに、濡れた手拭いが投げつけられる。
指の隙間からのぞくエリの先では、アレクが泉の岩肌に座り背中を見せていた。
「自分では手が届かん。それで、俺の背中をゴシゴシ洗え」
「わわわ私が、洗うの!?」
「当たり前だろう。お前以外に誰がいる」
「ええでもっ、でも、見……かもだし、そのっ、アレクは。……私に裸を見られて恥ずかしくないの?」
もじもじと煮え切らないエリ。
そして、その背後の様子を察したのだろうアレクの口が開いた。
「おい、いい加減にしろよ、クサコっ」
「え、何、何が!?」
「いつまでわけのわからん御託を並べているつもりだ。背中をゴシゴシさせるためだけに連れてきたお前がやることは、ゴシゴシすることだろうがっ」
「うう、だよね、そうだよね……アレクに羞耻心とか期待しちゃダメだったんだよね……」
深く吸われた息が、ふう、と吐かれる。
エリは表情から気恥ずかしさを消し、給仕服の袖を折り重ね捲し上げた。
手拭いを押し付ける背中は大きい。
戦士の力強さを納得させるだけの発達した筋肉。
がっしりとした体格は決して細身と言えるものではないが、普段の服を着ていた時の印象とは違った逞しさがそこにはあった。
「遠慮はいらん。もっと親の仇のようにしてやれ」
注文をつけるアレクがふと振り返る。
すると、アレクの首筋辺りを注視していたエリの目が泳ぐ。
「クサコが何か良からぬことを考えていた気配がするな」
「違う違う、誤解だよ。じっと見てたけれどそういうのじゃないの、違うのお。あのね、『魔象痕』っ。もしかしたらアレクには、それがあったりするのかなあ……とか思って。ほんとだよっ」
「魔族どもの首筋にあるというアレか」
「うんうん、それ。魔族が私達人にない力を使えるのは、大気中の魔力を魔象痕から吸い取って魔法の力に変えるからなんだよ。だから、もしかしたらと思って。アレクって普通じゃないくらい常人離れしているから……」
「俺が普通じゃないというのだな、お前はっ」
「はっ!? いや違うの、そういう意味じゃ」
口が滑ったとばかりに口元を抑えたエリに、ギランとした眼差しが向けられた。
「俺はさらりと常識を超えてしまう男だからな。ふむ。常人に対して超人といったところか。超人アレク……くふふっ、なかなか良い響きではないか。そして、クサコよ。超人である俺は戦士だ。魔法なんぞ端から使えんぞ。一度言わなかったか?」
「うんん……と、何度か聞いたけれど……職業の話じゃなくて、人か魔族かの話だったんだけどなあ……」
大陸では中央部を支配地とする人間の他に、三人の魔王が統治する各地で魔族が暮らす。
人と外見を違わぬ者や、ドラゴンのような明らかに人外であると判断できる者など、多種多様の種族が存在している。
そして、もし魔の者であれば必ず首筋に当たる部位に点のような独特の斑紋を持つ。
この斑紋は、魔族の個体別に形や大きさが異なる。
だがしかし、絶対的な共通の認識の部分がある。
それは”数”だ。
斑紋、すなわち魔象痕の数が多い程強大な魔力を有しているとされ、魔王には十の魔象痕があると言われている。
ゆえに、もしやと思いエリは確認してみたのだろう。
常人離れしたアレクの太い首筋を。
そうこうして、ごしごしと垢を落とす手拭いが腰まで降りた時であった。
「あれ? 汚れ……じゃないのかな。全然落ちてない」
「どうした手が止まっているぞ」
「あのね、腰の……アザ? 刺青?」
出遭った時とは違い、エリの目に留まらなかったものがそこにあった。
洗う体の腰辺り。
小麦色の肌とよく似た色合いで、紋章のような絵柄がある。
拳くらいの大きさのそこには、絵柄を円形状に取り囲む文字と思しき模様。
「刺青をほった覚えなどない。なので、単なるアザだろう。ただ、このアザだけは一向に治る気配がなくてな。俺が傷を追うことなどそうそうないが、寝ていれば治る大抵の傷と違ってずっと残っているようだ」
「ふーん……」
「時に、削ぎ落そうとも考えもしたが、後ろにあるので上手くいかん。そもそも、俺は他人が痛がるのは見ていて楽しいが、自分が痛そうな思いをするのは勘弁ならんしな」
「痛いのはみんな嫌だよう。でも、これアザなのかなあ……この辺のとか文字に見えなくもないような……マジックスペル? のようなそうでもないような。うーん、なんだろう」
腰にあるアザが指先でカリカリと掻かれる。
真剣な眼差しによってアレクの肌は観察されていた。
「そんなに俺のケツが珍しいのか」
「ケツ……お尻……蒙古斑ってこと? ええ絶対違うよこれは……」
ぐっと顔を寄せていたエリが、一瞬の静を経れば動となりて飛び退く。
「違う違う違う違う、違うよっ。絶対違うんだからっ。アザを見てたのっ。アレクのお尻なんて見てないもんっ。興味もないもんっ」
「俺はクサコがどこをどうまじまじと見ていたのかなど、大して興味はない。それより背中はもう十分だ」
そう告げたアレクが、月光を背負う。
立ち上がり体ごと振り返ったのだ。
よってアレクは、下部にほど近い赤味の頭を見下げる形になった。
「手拭いを俺に渡せ」
分厚い胸板と繋がる腕が、ゆっくりと伸びてゆく。
しかし、その意図に気づく気配が相手にはないようだ。
ただ一点を見つめ、固まるエリ。
数瞬後、そのエリの時間が動き出す。
「ダメなのっ。前がっ、前にいいっ、ご立派さんですけれどもおおおお、ふぎゃああああああああ」
「おいこらっ、唐突にどこへ行くっ。俺に手拭いをよこさんかあああ」
火照る顔が明かりとなるのだろうか。
戸惑うことなく、エリは森の暗がりへ一目散であった。