16 ウルクアレク ①
――例えるなら、泉の魚が水面から飛び跳ねる、だろうか。
エリが、バッと跳ね起きた。
不安に浸り、ずんずんと沈み暗くなる感覚から一気に浮上するそこには、全身を突き抜けた圧倒的な希望があった。
助かったと確信し安堵する気持ちさえあった。
それはそれとして、跳ねた後にエリは硬い石床へとベタンと顔から突っ伏した。
縄で両腕が体に括りつけられたままであるのだから、一度バランスを崩してしまえば為す術もなく倒れてしまう。
しかしながら石床から起こす顔を見るに、少女を襲ったのは痛みではないようだ。
涙の跡を残すもニヤケ面であり、食い入るようにして見る先では――。
抜身のロングソードを肩に担ぐ戦士風の男が、螺旋階段からその姿を現していた。
「アレクだ。なんでだか分かんないけれど、アレクがいるよう、えへへ」
エリが喜ぶ最中、アレクの周囲ではその顔の緩みを許さない緊迫した状況へと突入した。
――侵入者を待ち構えていた奴隷商の二人。
得物を手にばっと左右へ展開した男達の刃がアレクへ斬り掛かる。
左――ブショウ髭面の男がダガーで攻撃を仕掛ける。
アレクのロングソードがブショウ髭面の男へ振り下ろされるが、男は横へ飛び退き斬撃を躱す。
そこへ間髪入れず右からアゴ髭面の男が、ショートソードで突き刺すようにして飛び込んだ。
刺突の障害となり得るアレクのロングソードは、切っ先を石床へ打ちつけたままだ。
「ぐがっ」
声を漏らすはアゴ髭面の男。
石床にカランとショートソードが落ちる。
突き出す刃の軌道を見切られた奴隷商の男は、アレクの左腕に捕まりぐんっと引き寄せられ、羽交い締めにされた。
――だが、それでも。
アゴ髭面の男が身動きを封じられている間にも、アレクには地を這うような男からの刃が迫る。
連携とはかくもこうあるべきと示すかのごとく、すでに目的の背後へと回っていたもう一方の髭面の男。
「ふん。それで俺の不意をついたつもりかっ。うらばっ」
振り向きざま放たれた、片腕とは思えぬアレクの空気を震わす一振り。
横に薙ぐ、鉄の鎧すら両断しかねない豪快な一撃が――虚空を薙いだ。
――身を低くすることで回避できる。
ブショウ髭面の男の戦闘経験がアレクの反撃を予測し対処した結果である。
刹那の駆け引きを制したブショウ髭面の男は、眼前の脇腹目掛けダガーを突き立てた。
鋭利な刃先は難なく肉に埋まり、流血にその刀身を濡らす……のではあったが。
「くくく。甘いな、甘いっ。なんと! 俺は髭面の盾を装備していたのだった。だあははは」
確かな手応えのあったダガーが突き刺していたのは、右から攻め立てていたアゴ髭面の男だった。
アレクが絞め落としたアゴ髭面の男を身代わりとして、まさしく盾として使い、ブショウ髭面の男からの攻撃を防いでいた。
そのままアレクは、猪突猛進を体現するかのように猛烈な勢いで突き進み、石造りの部屋へドンっと重い衝撃を走らせた。
”盾”ごとブショウ髭面の男をオラオラと押して石壁へ叩きつけたのである。
上体を縄で縛られるエリがもぞもぞっとして立ち上がる頃には、ぐったりとなる髭面の男達は側にあった石壁の窓から外の暗闇へ、ポイ、ポイ、と投げ入れられた。
「これで終いか。しかしコイツら全員、面白いように髭面ばかりだったな」
ゴミを払う仕草でパンパンと両手の平を鳴らすアレクが登って来た螺旋階段には、倒れる奴隷商の男達の姿があった。
今、見張り塔で息のある者はこの円状の部屋にいる三人のみ。
石壁に立て掛けていたロングソードを手に取るアレクと、その戦士から距離を置くガンス。そして、アレクへ駆け寄るエリである。
「アレク、助けに」
「おうこらっ、クサコっ。お前がこんなところに居るせいで、俺はヨーコから塩カラいメシを食わされてしまったんだぞっ。どうしてくれる。舌がヒリヒリだぞ、喉がイガイガだぞ。こんのお――ペっ、ぺぺぺぺぺぺ」
「うわああ、なんで、何が!? ちょ、汚いいっ、汚いよう」
エリは反転して、吐き掛けられる唾液の嵐から逃げる。
数歩目、足がもつれ硬い石床にべチャリと倒れ伏す。
「ソルジャーアレク。一体どういうつもりざんすか」
「俺の口の中がいかにシオシオになっているか、コイツに思い知らさねばならんだろ」
お汁の雨が降り注ぐエリの耳に届いた、感情を抑えるような人の声は遠く、感情をむき出しにする獣の声は近い。
「ワタクシが聞いているのは、どうしてアナタがワタクシどもを襲うのかという事ざんす」
「ああ、それか。髭面共の方が襲って来たのでな。返り討ちにしてやったまでだが」
エリがころり体を回転させると、牙を見せる横顔が見えた。
そのアレクの視線を辿れば、鉄製筒状の細長く黒い武器を手にする紫色の男。
「ほう、髭ザンスも俺に戦いを挑むつもりか。ふーむ、髭面の盾は捨ててしまったしな……。おいクサコ、ツバはもう飛ばさんからこっちへ来い。お前をクサコの盾として――、待てっどこへ行く、そっちじゃないこっちへ転がらぬかっ」
エリは石床の上をゴロゴロ急ぎ転がる。
「ソルジャーアレク、誤解しないで欲しいざんす。これはアナタと事を構えたくないからこその銃ざんす。話を進める為の手段でしかないざんす。だから、ワタクシにそれ以上近づいて来なければ、引き金が引かれる事もないざんす」
「俺は髭ザンスに会いに来たわけではない。そこの壁の端で転がっている、芋虫みたいなヤツを連れて帰るためにやって来ただけだ。俺のメシ係があの芋虫イモコが帰ってこんと、一生塩カラいものしか作らんと駄々をこねるのでな」
「アナタと取り交わした話を持ち出したいところ……ではあるざんすが、そういう事ならこの際、そんな奴隷娘の一人や二人どうでも良いざんす。ええ、好きに連れて行ってもらって構わないざんすよ」
「いちいち言われんでも、さっきそうすると言っただろう」
転がる行き場を失った壁際の芋虫こと、エリが引き起こされる。
首の後ろへ腕を回され吊るされるエリと、相手の襟首を掴み吊るすアレク。
互いの顔が対面し、じーっと見つめられるエリの方は居心地が悪い様子を見せる。
「ええと、縄を解いてくれるとありがたいな……って思う私です」
「いつもに増して汚い顔だと思っていたが。ふーん。クサコは泣いていたのか……」
埃っぽい部屋のお陰か。
日頃の艶の良い肌を隠すように顔を汚していたエリは、そのくすみに涙の痕跡を留めていた。
「ふむ。芋虫で泣き虫弱虫とは、欲張りならぬ虫張りなヤツだな。だあははは、俺ながら巧いことを言ってしまった」
縄を解いてくれないばかりか散々な言い草のアレク。
エリは違う意味でまた頬を濡らしそうな顔だった。
「それにしてもドロドロで汚い。お前クサコだしな……ふーむ。なんだか俺は今、ばっちいものに触れているような気がしてならない。いや、むしろクサコだから間違いなくばっちいのやもしれん」
放られ尻餅をつくエリが見上げれば、自分の襟首から離された手が――持ち主である男のズボンでゴシゴシ拭かれていた。
エリは一時の間を経て、『ヒドいっ』と一言絞り出した後、乙女の尊厳を胸に喉を大きく開く。
「ばっ、ぱっちくなんかないもんっ、少し汚れているだけで私ばっちくなんかないもん。お風呂毎日入ってるもん。それにクサコはそのクサコじゃないもん。鈍くさいほうのクサコだから関係ないんだもんっ」
「だああ、モンモンモンモンうるさいっ。もんモンチーの鳴きマネをする暇があるのならさっさとその汚い顔を拭いておけ、泣き虫ムシコめがっ」
縄を解いてくれないと無理だから、とエリが反論しようにも矛先を向ける相手の大きな背中があるだけ。
くるり身を返していたアレクがズンズンと歩いてゆく。行き先は後ずさりをするガンスのようであった。
エリからアレクの表情は分からない。
けれども顔を歪ませ怯えるガンスを見れば、戦士の顔をした男から威圧されているのが分かる。
ロングソードを持つ戦士は後ろ姿を見せるだけで、何も語らなかった。
それでも……。
「アレク……」
エリはアレクの目的を悟るようだった――。