141 死蝶病 ③(エリとアレク)
『デス・バタフライ』の発症。
そこから少しばかりの時間が経つ今……エリの具合は、いくぶん落ち着いたとも言える。
ただ、それは発症時の朦朧としていた意識や激痛が和らいだだけで、死蝶病の苦しみから解放されたわけではない。
――全身を覆う気怠さ。
思うように力を入れられないエリは、横になるベッドから起き上がるのにも苦労する有り様。
それから、
――背筋から襲ってくる凍え、その震えたくなるような寒さ。
暑い季節にもかかわらず、厚手の毛布に包まる。
そんな状態で、エリは屋根裏の古ぼけた天井をながめていた。
そこに何かを探すわけでもなく、だたひたすらに見つめ……そして、漠然と考えていた。
死蝶病……どこかで聞いた覚えはあっただろうか。
ゆえに、詳しくは知らないその病気について、付き添うココアに尋ねた。
けれども、その首は横に振られただけだった。
しかし――。
それから大した時間を必要せず、知ることになった。
エリは病に冒されるその行く末を、店主ヨーコの口から聞く。
悩む素振りを見せながらも話してくれたその内容は、
――医者も手を焼く死の病で、約十日の命だという。
いわゆる死の宣告であった。
それを……エリは静かに聞き入れ受け入れた。
受け入れ難くも、このまま死んでしまうだろうことをそれとなく察していたので、気持ちの整理は容易かった。
――死する時は、なんの前触れもなくやって来る。
エリは運命と悟るだろうか。
だからこそ、ヨーコからの薬瑠湯の提案を断りもした。
どんな病も完治させる奇跡の秘薬があれば、生きながらえる。
だとしても、エリは積極的になれない。
もし秘薬に望みを繋ぐなら、そこには高額の費用や大変さが伴うからだ。
それが、何よりも気持ちを苦しめた。
エリはヨーコに迷惑を掛けたくなかった。
特別ではなく、いつも通りがいい。
何も気にせず、いつも通りのぱんだ亭であって欲しい。
そう、エリはヨーコに願うのであった――――。
それはヨーコやココアが屋根裏部屋から退室してから、程なくの頃……。
『ぬう。もしやこの窓には、鍵がついているのか』
何やら外から声がしたと気づくなら、
――ドガ、バゴ、ガシャーンッ。
と、窓を殴り壊す音が鳴る。
「しかも狭いとはっ。クサコが住む場所の窓だけあって、なんとも融通がきかんやつだっ」
ぱんだ亭の壁を、ヨジヨジよじ登りたどり着く侵入口。
今は硝子や枠やらが破損するそこから、窮屈そうにアレクが入ってくる。
その突然の出来事に、ベットから体を起こすエリ。
――弱々しくも、笑って見せた。
むろん、苦々しいそれであるが。
「なんで、アレクが……て、びっくりするよりも、せめて、ドアから……と切に願う気持ちのほうが大きい私です」
「風通しを良くしてやろうと、気を利かせてやったまでだ」
アレクがヅカヅカ。
部屋へ上がり込む足は、迷わずエリの元へ。
「まさかのアレクが、私のお見舞いとか……」
「見舞いか。では、渾身の一撃でも見舞ってやるとするか」
「だよね……アレクだもんね……」
ある意味期待を裏切られなかったエリは、ひとまず握られる拳を遠慮した。
それから、重みでベッドが沈む。
アレクが腰を下ろすからだ。
「お前ひとりのようだな」
「さっきまで、ヨーコさんやココアちゃんが付き添ってくれてたんだけど、準備があるらしくて……」
「ほう。準備か」
「私がお店手伝えそうにないから……ココアちゃんもそのお手伝いだと思う……」
「なんだ、”ヤクルトウ”とかいう薬のためのそれではないのか」
「私、薬瑠湯の話は……断ったの。いつもお世話になってて、それなのに……なんだか、ワガママ言うような悪い気がして……だから、もういいの……」
申し訳なさそうに、エリはうつむく。
「そうか。ならお前は、死んだも同然のクサコというワケだな」
「うん……そうなるのかな……」
「ならば、そんなお前は、俺に言うべきことがあるだろう」
「ええと……」
チラりと視線を合わせてみれば、アレクがいつもの目力たっぷりの眼差しを向けてくる。
ゆえに、エリは思い当たる節を――、もとい、それしか思い当たらないものに、あっさり考えが及ぶ。
「その、ごめんなさい。アレクにお金返さないといけなかったのに、私死んじゃって……」
「3002万ルネだったか」
「うん。3002万ルネ……」
「ふん。……死のうと何をしようと、相変わらずのクサコだな」
「ごめんなさい」
エリが、悲しそうに謝る。
それを尻目に、アレクが呆れたようにして腰を上げた。
それから、おもむろにベッドのエリへ振り返った。
「お前は、このまま死にたいのか」
その声音は平坦なものでしかなかった。
だが、びくともしない強さと、突き刺すような響きを感じる。
「……だって、300万ルネがいるってヨーコさんが……だから、これ以上迷惑かけられないから……」
「ええいっ。またしてもウダウダとっ。こっちを見ろ、クサコ!」
がしっ、とアレクの手が赤毛の頭をつかむ。
ぐい、とエリの顔ごとその視線を向けさせた。
「もう一度だけ言う。お前は死にたいのか」
「……私」
エリは言葉につまる。
言いたくても、言えなかった。
そこに続く言葉を吐き出してしまうのが怖かった。
もう、我慢できなくなる。
もう、強がれなくなる。
もう、自分に嘘をつけなくなる。
口に出してしまえば、そうなってしまう。
――けれども。
間近にあったアレクからの眼差しが、心の奥底にあった気持ちを引っ張り上げる。
穏やかに努めようとしたその心がざわつく。
そうして、気づけば……溢れてしまう感情が、涙となってエリの頬をつたっていた。
――エリは泣いた。
想いを吐き出す前に、ぼろぼろ泣いた。
それから、ようやくであった。
えぐえぐ震わせる声で、奥底に沈めていた本音を吐露することができた。
「えぐ……私、死にだくないよおお。だっで、ずっとずっとみんなと一緒に、いたいんだもんっ」
「ふん。俺に言うべきことはそれだろうが、この馬鹿者クサコめが」
アレクの手がエリの頭から離れる。
そして、その手を腰にあて仁王立ち。
「ヨーコには散々迷惑をかけろっ。だが、俺が迷惑を被るのは許さんっ。クサコには、俺に払うべきルネがたんまりあるからな」
「……うぐ」
こくり。
涙を拭いながらも、エリが小さくうなずく。
「そして、とにかくスゴい俺の手にかかれば、お前を殺すも生かすもお茶の子さいさいの俺だ。奇跡の秘薬だろうがなんだろうが、関係ないっ」
空を切る仕草をつけ足し、アレクが言い放つ。
「だから、クサコよ」
「うん……」
「死ぬのは、俺が許さんっ。いいかっ。もし勝手に死ぬようなら、粉微塵にして殺すからなっ、覚悟しておけ!」
ばさり。
話は終わりだとばかりに、アレクがマントを翻した。
そして、そのまま景気よく閉まる扉の向こうへその姿を消した。
「アレクだよね……いつものアレク……。でも、ありがとう」
エリはそっとささやくように。
そして、その感謝の余韻とともに、窓は壊れたままだが、エリの部屋は普段の装いを取り戻す……ように思えた、ところであった。
――ばたむっ。
勢い良く部屋の扉が開く。
「むぬぬ。クサコなどと余計な話をしていたら、肝心なことを忘れてしまうところだったぞ」
部屋に入ってくるなり、アレクがぬぎぬぎ。
装備品を外す。
「あのお……アレク?」
「俺のカッチョいいマントと、これまたカッチョいい鎧をここに置いていく。いいな、しっかり見張り係をやっておけよっ」
「ここに? え、いきなり、なんで?」
「なんでもナマズもあるかっ。外がクソ暑いからに決まっているだろうっ。そんなこともわからんのかっ。脳みそウスラトンカチクサコめがっ」
アレクは怒気を孕む言い草で罵ると、再び扉の向こうへ消えた。
残されたエリは、もう慣れっこなのだろう。
唐突かつ理不尽なそれであっても、微笑みで見送るのであった。




