111 アレックス ④
――『急いで逃げてくださいっ』。
羽交い締めにする娘の口から漏れた言葉。
それは、ローブの男の耳に届きはしたが。
「急いで逃げる……クヒヒ。そのような必要性がどこにあるというのでしょう。それどころか、このフランベンが考える以上に、貴方の存在は、彼らを追い詰めるようですよおおお」
フランベンの手が、新たな短剣を取り出す。
人差し指と中指で一本。中指と薬指で一本を挟む。
――ビュシュンッ。
二つの刃が投げ放たれる。
キン、と刀剣で払い落とすのはアレックス。
一方で。
「ちょ!? あぶなっ」
サクラはすんでのところで躱す。
コケてしまうそこには、追加でクヒヒと笑みが投げられた。
「不浄の戦士っ。そして、サクラ・ライブラっ。だあああれが、避けることを許しましたか? 反抗的な態度によってどうなるのかああ、教えて差し上げるまでもないはすですが、んん~」
喉元に突きつける凶器を見せつけるようだった。
フランベンが、密着するエリの身体をさらに引き寄せる。
――たかだか町娘の命ひとつで、面白いように大人しくなる。
それを実感したフランベンは、自分の優位性を知るとともに、相手を心の底から見下すだろうか。
盟主メアリーと歩む道。
その大義のためならば、フランベンは何者の命も惜しくはない。
自身のそれすらも厭わない。
その高貴な信念の前では、サクラやアレックスの戸惑いはまさしく愚者にも劣る反応であった。
ゆえにフランベンは、蔑みの感情を抱く……のであるが。
手に抱くほうの娘は娘のほうで――、
「だ、大丈夫ですか!?」
と、何やら素っ頓狂な発言を披露していたりする。
サクラに向けた気づかいで間違いないが、今ひとつ噛み合ってないものだと、給仕の娘を除いてこの場の誰もが知る。
「いーやいやや。どちらかと言わずとも、メイドちゃんのほうがだよ」
「サクラさんっ」
アレックスがやり取りを中止させるように、サクラに注視させる。
――人質となるエリの白い首筋に、赤い血が一筋流れていた。
本人に痛みを感じている様子はないが、押しつけられる短剣の刃先で薄く肌を切るようだ。
「そう、そういうことです。すべてに慎重とならざるを得ない場面なのですよ、今は。それから、私に従順になるべき場面なのですよ」
「……ほんと、胸くそ悪い卑怯者だね」
「サクラ・ライブラ。今のは聞かなかったことにして差し上げましょう。ただし、このフランベンが寛容というわけではありません。私に屈したと分かる、負け惜しみいいいとしてっ、聞き流してやるだけのことです」
フランベンには、サクラの苦虫を噛むような顔が返ってくる。
そうして、もう一人。
アレックスからは苦悩が見える表情が向けられた。
「……これから、お前はどうするつもりだ」
「分かりきったことでしょう。そこのサクラ・ライブラはそのまま地面で転がせたままに、不浄の戦士のお前に殺させる……その顔、非常に良い。良いですねえええ。クヒヒ」
フランベンにとって気分が晴れるらしい、ギリリと奥歯を鳴らす表情。
そんなアレックスの対面では、状況に置いてけぼりなエリが、きょとんとした表情を見せた。
「あの~すみません。私としては」
「小娘は黙らっさいっ。無駄口を叩かず、ただただ人質となっていればいいのですっ」
「す、すみません」
叱られてしまうエリ。
素直に、しゅんとなって口をつぐむ。
「だがしかし……今回は、”指輪”を取り戻すことを優先させるとしましょう。大変、不本意いいいではありますがっ、そのようなリスクを負う選択をするべきではない。みすみす殺されるともなれば、あの巫女も大人しくはしていられないでしょうからっ」
こうした部分が、ただの狂人ではないフランベンの一面だろうか。
――情緒不安定でありながらも、目的を見失うことのない思考。
フランベンは、巫女サクラの排除よりも、己に課せられた”使命”に忠実であった。
そしておそらくは、この場において最良と思えた選択であった。
未来を知ることは誰にも叶わない。
しかし、サクラ・ライブラが『最悪人質に危害が及ぼうとも』――と判断を迫られていたのは事実であり、それを踏み留まらせる結果に繋がっただろう。
「不浄の戦士は、武器を捨てこのフランベンとともに。当然、サクラ・ライブラ、お前が私達の後を追うことは許されませんよっ」
「待ってくれ。お前達が、僕のこの指輪を欲しがっているのは知っていた。だけど、渡すことができない……何かの力が働くのか、僕の指からハズれようとしないからだ。それは何度も言ったはずだ」
くわえて、アレックスは直感していた。
指輪が意味するものがなんなのかを知らないまでも、今となっては、たとえハズせたとしても、できうる限り渡してはならない相手ではないだろうか……と。
「だからこそ、これからオオオお前を連れてゆくと教えて差し上げたでしょううううっ。この場を切り抜けたうえで、邪魔の入らない場所でええ、罪深きお前に、死を与えるためにっ」
「僕がお前とどこかへ行く……。それに従うなら、人質のその娘は無事に解放されるのか」
「さあああ、知りませんねええ。いいや、失礼っ。お前がこのままウダウダしているなら、その可能性すらないことは知るべきでしょうかねええっ」
「……僕が取れる手段は……少ない。そういうことか」
「そうです、そうなのですよおおお。グヒャヒャ」
抗えない相手を手玉に取る。
フランベンは心地よい高揚感に包まれる。
「さあ、早く武器を捨て、降伏して見せなさいいいい」
その指示に、アレックスが武器を……刀剣を持ち替えた。
――そして、空く右手を、人差し指を伸ばしてかざす。
まるで、フランベンを指差すようなそれ。
しかしアレックスが意図する部分は、指差す相手や方向でもない。
指輪がハマる指、それが重要だった。
「僕はまだ剣を捨てるわけにはいかない。なぜならこの最悪な状況を、解決できなくなってしまう」
――シュパン。
刀剣が一閃。
すると、指輪をハメる指がころり。
鮮血で染まる地面に転がった。
つまりは、アレックスが自分で自分の人差し指を切り落としたのである。
「これで……これで、お前は指輪を手にできる」
痛みに耐える顔は険しい。
それでもその眼差しから、力強さが失われることはない。
「それから、誓う。僕は決してお前を追わない。もちろん、後ろのサクラさんが追うようなこともない。僕がそれをさせないからだ。だから今すぐ、その娘を、人質を解放するんだっ」




