朝
ふと目を開けると、そこには"彼"の見慣れた天井が広がっていた。茶色一色の年季の入った木板の隙間から、屋根裏に住むネズミがこちらを見下ろしているのが分かる。
いつもと変わらない光景。
いつも通りの朝だ。
唯一違うのは久方ぶりにあの"夢"を見たことだろうか。
何故か怒っていて、何故か痛くて、何故か悲しい。そんな不思議で不快な夢。
そんな体験をした記憶は無いものの、そのどれもが現実味を帯びているのが嫌な所だ。
何度か見た夢だけあって、すぐに現実では無いと判断できるが、正直なところ彼は二度と見たくないと思っていた。
「……」
ふーっと軽く溜め息を吐いて意識を覚醒させると、彼はシルクのベッドから起きて着替え始めた。
白く透き通った肌が露になるが、その肢体には似つかわしくない傷跡がいくつも伺える。今はしっかりと塞がっているようだが、その痛々しい痕はしっかりと刻まれていた。
そんな彼はその姿のまま、部屋に立てられた全身鏡の前に立つ。
銀色の髪に、真っ白な素肌。そして極め付きに深紅の瞳である。その整った姿はまさに美少年という表現が相応しく、女性の心を動かすには充分な外見と言える。
しかし彼は仮面で顔を覆った。笑顔をモチーフにしたコメディチックな仮面だ。それから赤と白のシマシマ模様のド派手な衣装に着替える。こうなってしまうと、美少年の"美"の字もありやしない。
それでも彼は鏡に映る自分の姿に満足そうに頷いた。
劇団"スマイルメイカー"の道化師。
それが彼、"フラン"だった。
フランはタンスの上に散らばっていた"無料観覧席"と書かれた紙束を大きなポケットに押し込むと、部屋を出ていく。
朝陽が上がって間も無い六時のこと。
フランがいなくなった部屋は閑散とし、天井をネズミが走り回る音だけがカタカタと音を立てていた。
ーーーーーー
ーーーー
ーー
「フラーン、ご飯できたよー!」
ガチャリとドアノブが回り、小柄な女性が誰も居ない部屋に顔を出した。
黒くウェーブがかった長髪に、黒くて丸い大きな瞳。そんな彼女は、あれ? っと首を傾げ部屋の隅から隅を見回す。
その部屋はシンと静まり返り、人の気配は感じられない。微かに部屋に残る住人の匂いを彼女の鼻が捉えるも、本人が居るわけでは無いと理解した。
ただでさえ薄い彼の匂い、更にその残り香とあっては彼女の特殊な鼻でないと認識する事は困難だろう。
時刻は七時を回ったところ。
本来ならこの"屋敷"の住人達がキッチンに集まる時間帯である。
彼女はいつまで経っても来ないフランを起こしにやって来たようだった。
「……あ!」
そして彼女は、いつも壁に掛かっている筈の何かが無い事に気付く。必要最低限の物しか置いていない淡白なこの部屋で、異質を放っていた道化師衣装である。
つまり、彼はあのド派手な衣装を着て出ていったという事。と、なれば彼女はフランの行き先が容易に考え付いた。
彼女にとって彼は一年間を共に過ごした仲間であり、家族と言っても過言では無い。だからこそ、フランの行動を予測できるわけだ。
"ある条件"の時にフランは決まってこういう行動を取る。それは彼女だけでなく仲間内では周知の事実である。
ただ、今日がその"ある条件"の日だという事に彼女は今しがた気付いたのだった。
「ミス、フィーネ。フラン君はいないのでしょう?」
「どぅわっ!! クノン、おどかさないでよっ!」
突如少女の背後から男が顔を出し、その突然の奇襲に彼女は思わず叫び声をあげた。素早い動きで振り返り、髪を逆立てながら威嚇する。
しかし男は動じずに話を続けた。
「今日の夜は公演ですからね。きっと公園で子供達にチケットを配りに行ったのでしょ……あ、公演と公園をかけたわけではありませんよ? えぇ、誓って……ぷふっ……」
「……うっさいわね! 自分で言って自分で笑うのやめてよ!」
フィーネと呼ばれた彼女は、男の腹に正拳突きを繰り出す。が、クノンはその拳をするりと避けて再び笑いを堪えた。
黒髪の少女、フィーネ。
劇団スマイルメイカーの曲芸師の一人で、彼女は動物を使った芸を担当している。
その愛らしくも勇ましい姿から、男女共に彼女のファンは多い。スマイルメイカーのマスコット的な存在でもある。
そして、そんな少女をからかう男はクノンという。
彼も曲芸師の一人であり、主に空中芸を得意とする。
その誰もを魅了するアクロバットも去ることながら、整った顔つきとスタイルで幅広い年齢層の女性を虜にするプレイボーイだ。彼の紳士的な性格とも相まって、クノンに恋する少女は少なくない。
「あ、しかし今日の公演は王都から来る貴族に向けてのものだった筈。この貧困街の子達」