第2話 神
「アオイよ、あれを持っていくがよい」
私が今回の物語を構想していた当初、我が主が一度だけ話しかけてきたことがある。
一人きりで無理難題をこなす私を心配してのことではない。そのことは当然理解していましたが、誰かと会話するという久しい感覚に、とても舞い上がったのを覚えている。
「あれは?」
「『狡』の雫。つまりは“チート能力”じゃ」
我が主の指差した先に3つの光。それぞれの光の中央には『狡』の文字が浮かんでいる。
「あの雫を持って行ってもよろしいと…?行使した途端に物語が崩壊しそうな危うさを感じますが…」
「う~む、用途としてはその逆じゃな。崩壊を止めるために用いるのだ」
主様のその言葉に、私はわざとキョトンとした顔をした。
そうして我が主に明言させることによって、その雫の許容範囲が定められると思ったからだ。
「…物語では、創造者の意図しない展開が導かれることがある。あの雫は、そのような不都合が起きた際に、全ての道理を無視して補正する権限を与えるということだ」
「…なるほど。何にせよ、授けてくれるというなら、ありがたくいただいておきます」
「分かっていると思うが、行使するタイミングには気をつけるのだぞ」
「承知しました。…まあそもそも、行使することがあるのかも分かりませぬが…」
行使したい。早々に使ってしまいたい。
頭をよぎるのは主様から頂いた『狡』の雫の存在。それを欲する場面が、こんなにも早く訪れることになるとは思いませんでした。
あの時の私の最後の言葉に、主様が不敵に微笑んだ理由が分かった気がします。
まさか物語の創造者たる私が、その資格を失う事態になろうとは…。
「あ、あの、大丈夫ですか?…え~と、葵…さん?」
「はい、大丈夫です。口づけ程度のこと、日常茶飯事ですから」
ファーストキスの相手が、心配そうにその手を伸ばす。その行動で、自分が未だにへたり込んでいたことにようやく気づいた。
しかし、自分でも訳の分からない強がりを口にした手前、伸ばされた手を簡単に取るわけにもいかず、一人で立ち上がる。
頬の色を夜に隠した目の前の青年。名前は環千無と言いましたね。
「セナ。あなたの願いは叶いました」
立ち上がって早々突拍子もないことを口にする私に、セナは困惑した表情を浮かべる。
誠に人間らしい反応ではありますが、最早それを許されない存在なのです。少しは堂々とした態度を心がけてほしいものです。
「…この神社に人は来ますか?」
「あ~…笑愛さんって人が、そこの社務所に住んでるんです。そろそろ仕事から帰ってくると思いますけど…」
「それなら場所を変えましょう。あなたの家に案内してください」
今からセナに説明する内容は、他の誰にも聞かれてはいけない。そもそも、セナにすら説明することなく、私が1人で完遂すべきことだったのだ。
笑愛という人物を避け、同時に別の目的を達成するために、セナの住まいを尋ねた。
しかし、自身の容姿が見目麗しいものであると自負してはおりますが、見ず知らずの存在を易々と部屋に上げるほど、この青年も馬鹿では…。
「それくらいなら、お安い御用ですよ!」
…馬鹿者でした。
いえ、これでは失礼ですね。純粋に優しい人なのだと評価しておきましょう。
家まで案内するセナが、私を気遣って歩幅を合わせていることからも、その優しさが伝わってきますので。
セナの後を追って、神社の境内から延びる階段を下りると、月明かりが一層と強くなる。
葵ノ木神社には、寂れたような薄暗い印象を受けてしまった。その理由の一つは、入り口も含めその全体が木々に覆われているためだったようです。
空から目を離し、少しばかり遠方に気を配ると、大きな建物が並び立っている光景が映る。
道中のセナの話によると、あの建物の集まりが大学、セナの通う神都大学だそうです。
そんな学生や若者が多い地区にしては賑わいが足りないように感じましたが、冬の夜更けともなれば、その活気も鳴りを潜めてしまうのでしょう。
そんな環境でもジョギングに勤しんでいたセナには、感心すべきなのかもしれませんね。
「ただいま~」
「………」
セナの止まらない身の上話に聞き入っていると、あっという間に目的地に到着してしまった。
神社から不慣れな足運びで15分、普通に歩けば10分ほどの距離。そこに目的地のセナの家が存在していた。
5階建てマンションの5階、その中でもエレベーターや階段に最も近い角部屋。女性が好みそうな綺麗な外観に、南向きで12畳という広い間取り。
大学生の一人暮らしとしてはやや整いすぎている好条件に、私の中にある考えが浮かんでしまう。
「あいつらまた散らかしたままで帰りやがって~。…どうしました?入ってきていいですよ」
「1つお伺いしますが、もしや同居人がいらっしゃるのではないですか?」
「…ああ。男の一人暮らしにしては…って感じますよね。やってくる友達全員に、同じ反応をされてしまいます。…でも、正真正銘、俺一人の部屋なので、遠慮せず入ってください」
「…そうですか。…それでは、お邪魔します」
いらぬ詮索をしてしまったようです。
セナの言葉も、真実なら女性が1人で部屋に入ることを躊躇いそうなものですが、私の内に秘めた『狡』の雫は、私をか弱い人間の女性だと認めなかった。
テーブルの上に簡単なお茶菓子とコーヒーを用意し、私はセナと正対する形を取る。
ここでの、用意した、というのはそのままの意である。
友達とやらによって散らかされた部屋に、そのまま案内しようとしたセナの行動は、私の従者精神に火をつけることとなった。
全てのゴミ(私がゴミと認定したもの)は捨て、床を綺麗に拭いていき、洗濯物は朝に終わるようにタイマーをセット。その後に冷蔵庫から気に入ったプリンを3つ取り出し(2つは私)、紅茶をぬるめのお湯で丁寧に注いだ。
そんな私の業に感銘を受けたのか、セナは私の正面でほくほく顔のままプリンを食している。
我が主では見ることも出来ないその反応に、私も高揚し、そのまま自分への労いを込めた2つ目のプリンに手を伸ばす。
ズズー
暖房器具を起動させても肌寒い二人の身体を、適温の紅茶が芯から温めていく。
「それではセナ様。あなたの使命を説明させていただきます」
「は、はい!」
「…と改まってみましたが、何かしっくりきませんね」
「…ですね。葵さんのやりやすい感じでいいですよ」
ズズー
二人して紅茶に口をつける。
「では、再度改めまして。セナ、あなたにお願いしたいことがあります」
本来の私の役目を、彼に預ける。
あなたが私の代わりになってしまったから。私は、ただの人間になってしまったから。
「『他人の願いを叶える』というあなたの願い。それを、自由に行使してください」
そしてあなたが、神になってしまったから。




