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花の大精霊編23 ずっと、ずっと

「あら!」


 琥珀色の目を輝かせ、少女は桃色の唇で囀るような声を上げた。


 もう少女という年でもないかもしれない。


 記憶のない彼女がフローラという名を与えられ、聖者と呼ばれる花の魔法使いの妻となって数年。

 顔立ちからは幼さが薄れた代わりにぐっと女性らしさが増し、腹に至っては服を着ていてもわかるほどせり出して丸みを帯びてきていた。


 胎動を感じられるようになって、ますます予定日を楽しみに指折り数えている妻とは反対に、夫の顔色は日に日に悪くなっていっている。

 色々経験も知識もある分、あれこれ余計な事も考えてしまうのかもしれない。


 ただの恋人であった時はひたすら愛おしかった天真爛漫さが、こと出産というイベントに絡むと途端に心労の元になるのだから不思議なものだ。


 悪阻のある妻よりよっぽど酷い花の魔法使いの顔色は、見かねた炎の魔法使いが、仕事時は我が家に置いていくように、面倒は見るからと申し出した程だ。


 今朝も妻は、後ろ髪を引かれまくりで仕事に出かけていく夫をのほほんと送り出した。炎の魔法使いの妻と料理や掃除を無理のない程度に行い、今庭で手製の茶を入れていたところ、見かけない精霊を見つけてはしゃいでいる、というわけだ。


「あなた、精霊よね? とても人にそっくりだけど、わたしの目はごまかせないのよ」


 普通の人には見えないものが見える彼女は、宝物を見つけたような目で()()()()()をじっと眺める。

 エメラルド色の目の少年は木の上で足をぷらぷらと揺らしていたが、彼女に捕捉された事を悟ると、おどけたように肩をすくめ、飛び降りて近づいてくる。


「はじめまして。ぼくのことはブルーダーとでも」

お兄様(ブルーダー)? 変なの。そういう名前なの?」

「昔、君にそっくりな子がつけたあだ名でね。結構気に入ってるんだ」

「じゃあ、本当の名前は別にあるの?」

「当てられたら教えてあげるよ」

「まあ」


 ティーセットが置かれている庭のテーブルに少年が両肘をつくと、女性はニコニコと人懐こい笑みを浮かべて彼のために余っていたカップをセッティングする。


「よかったら、ゆっくりしていって。小さなお兄様」


 ――かつて。

 少年と少女の背丈は同じほどだった。

 今はもう、女性の方が頭一つ分高い。


 笑みを浮かべた彼がパチンと指を鳴らすと、どこからともなく二つの光が現れる。

 二匹の犬に変わった彼らは、吠えながら女性に向かって飛びついた。

 一瞬驚いた彼女だったが、すぐに喜色を満面に浮かべる。


「可愛い犬! わたし、仔犬がほしかったのよ」

「でも君の夫は移動が多いし、養うだけの余裕はないから飼えない」

「物知りなのね」


 けして指摘されて良い気持ちにはなれないだろう内容だったが、女性はおっとり微笑み、無邪気に嬉しそうに二匹の犬を構っている。


「この子達も精霊?」

「……ちょっと、特殊な事情持ちなんだよ。ロッティとベアテだ。君なら呼べばいつでも来るよ」

「プレゼントってこと?」

「まあ、お茶をご馳走になったし――」

「ありがとう! あなた、優しいのね!」

「……元々、君のものだからね」


 女性は少年がわずかに口ごもった様子にも、最後に小さく付け加えた言葉にも気がつかなかった。

 彼女が夢中になって犬と戯れている間に、いつの間にか彼の姿は消え失せていた。




 それから数ヶ月が経った。


「あら、また会ったわね!」

「二度目まして」

「不思議で小さなお兄様。ちゃんと覚えているわよ」

「……そう?」


 赤ん坊がようやく寝付いた隙に外に洗濯物を干しに出てきた女性は、木の上で足をふらつかせている少年に気がついた。

 肩をすくめる彼に、人懐こい笑みを浮かべて彼女は駆け寄る。


「女の子が生まれたのよ。あの人にそっくりなの。でも、あの人はわたしに似てるって言い張るの。でもまだ赤ちゃんだものね、これから毎日楽しみで仕方ないわ」

「知ってるよ」

「大変なことも多いけど、とても幸せ。ロッティとベアテもとてもいい子達で、助かっているわ」

「……よかったね」


 彼女は家の扉を開け、招き入れるようにポーズを取った。


「会っていかない? あなたなら大歓迎よ」

「必要ないよ」


 素っ気ない物言いにむっとしたように頬を膨らませる彼女に、少年はわずかに苦みを含んだ笑みを向けた。


「必要なら、君達はいつでもぼくを呼べるよ」


 家の中から赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。さっき寝付いたばかりだったはずなのにこれだ。欲望に素直な彼女の娘は、特等席である母の腕の中が一等お気に入りで、それ以外の場所ではすぐにむずかってしまう。


 起きたよと知らせるためにか、あるいは赤ん坊の泣き声を止める術がなくてオロオロ逃げてきたのか、二匹の犬が駆けてきて女性のスカートにまとわりついた。

 彼女は慌てて戻りがてら、一度家の外の木に視線を向ける。

 そこにはもう、何者もいない。

 彼女はすぐに、日常の中に戻っていく。




 数年が過ぎた。

 花の魔法使いとその妻が暮らしている家から赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。


 家の中から漂う慌ただしい気配を背に、幼い少女が家の中からそっと抜け出てくる。

 琥珀色の目がきょろきょろと辺りを探して、木の上に目的のものを見つけるとパッと輝いた。


「おにーさま!」


 少年は見つかると肩をすくめた。飛び降りて、抱っこをせがむ幼子をひょいと背中におぶると、森の中を歩き出す。


「悪い子だ。お父さんとお母さんの目を盗んで家出なんて」

「いえでじゃないもん、おにいさまといっしょ。それにふたりとも、いもーとにむちゅーだもん。わたし、ひとりでいいこにしてるだけよ」

「ぼくこういうの何て言うか知ってるよ。グレるって言うんだ。やーいやーい反抗期ー」

「ちがうもんー、おにーさまのばーか!」

「まあ別にどっちでもいいけどね……ところでそんな言葉遣いは一体どこから覚えてきたのさ。あ、わかった村の悪ガキだな。まったくもう、なんでそういうことばっか最初に覚えるかね」


 少年の背からにゅっと丸い両手をのばし、幼子は彼の頬をみょんと引っ張った。

 ため息を吐きつつも、彼が抵抗することはない。



 しばらく歩いて行くと、びくりと幼子が身体を震わせた。

 少年は足を止め、彼女が凝視している方向を見据えて目を細める。


 森に人間がいた。それは別に珍しいことではないが、様子がどこかおかしい。焦点の定まらない、フラフラと揺れるように歩く男の周りを、黒い靄のようなものが覆っている。


「君にはあれが見えているね?」

「ん……」

「どんな風に思う?」


 囁くように少年に言われ、幼子は露骨に眉に皺を寄せた。


「なんか、いや……」

「賢い子だ。覚えておくといい。君にだけしか見えない存在の中で、嫌な感じのする相手に近寄っちゃ駄目だ。関わらない。逃げる。立ち向かおうとしなくていい、人間はあれに対して基本的には無力な生き物だから」


 そう説明を追えると、少年は彼女をいったん下ろし、どこか面倒くさそうに手をブンと振る。

 男の周りで渦巻いていた靄が、気分の悪くなる音を上げて消え去っていった。

 すると男の目に光が戻り、しばらく呆然としていたが、やがて頭を掻き、首を傾げながらいずこかへと去って行く。


 そこまで見守り、ほっとしたように息を吐きながらも、幼子は不安な顔のまま少年の服をつかんだ。


「でも、おにーさま。あれがあっちからきたら、どうすればいいの……?」

「その時は助けを呼ぶのさ。君の声はどこにいても必ず届く」

「にーさまがたすけにきてくれるの?」


 琥珀色の瞳がキラキラと輝いた。エメラルド色の目はほんのわずかに見開かれ、それからわずかに陰りを見せる。


「……君がぼくにそれを望む限りはね」


 幼子は当然だ、とでも言うようにぎゅっと少年の手を掴んだ。

 彼は振り払うこともなかったが、その手を握り返すこともしなかった。




 季節は巡り、時は流れる。


 幼子が少女になり、恋をして、その相手と結ばれ、子を産み育てる。

 そのぐらいの年月が経った。


 いつかの繰り返しのように、琥珀色の目の女の子はいつの間にか自分を見つめるエメラルドの少年を見つけ、友達になる。


 そして子どもから大人になるうちに、自然と彼の事は卒業し、人間の中に溶け込んでいく。



 かつてフローラと名を与えられた少女は、もうすっかり髪が白んでしわくちゃの顔になっていた。

 彼女の伴侶たる花の魔法使いも今や引退して悠々自適、妻と水入らず二人暮らしの隠居の身――と、本人は希望しているが、時々若者達に泣き付かれると、断り切れずに腰をさすりながら出かけていく。


 今日も妻とのデートを急用で中断され、拳を振り上げながらもちゃんとローブを着込み杖を片手に家を出て行った。


 一人残された彼女は、家の中で編み物をする。

 そろそろまた寒くなる時期だ、自分と彼にも、それから大切な人達のためにも、温かい衣服はあって損がない。


 今度生まれた三人目の孫に小さな手袋を、とせっせと手を動かしている間に、ふと彼女は顔を上げた。


「あら……また来たのね」


 いつの間にか、家の中に少年が佇んでいる。

 彼女が足を患い、外で長居できなくなってからは、当たり前のように家の中に入ってくるようになっていた。けれどそのことについて彼女も咎めた事はない。気を遣ってくれているのだとありがたく思っている。

 老いさばらえていく人間の彼女と違い、彼は出会った時から全く変わらぬ姿のままだ。


 彼の横から、少年と同様全く姿の変わらぬ二匹の犬が飛び出して女性に駆け寄る。

 最近ではもう、彼らが喜びのまま飛びかかるようなことはない。

 うっかり転倒でもさせたら回復しないことを知っているせいだろう。

 編み物を横に置き、犬たちの頭を撫でながら彼女は噛みしめるように言う。


「わたしたちも随分と長い付き合いになったわね」

「そうだね」

「それとも、寿命のないあなたたちにとってはほんの一瞬の出来事なのかしら?」

「そうだね」

「あなたには随分と助けられたわ。いつも、いつも……」


 女性が沈黙すると、静寂が訪れた。

 犬たちが呼吸する音――それも数十年前に比べれば、随分と気を遣って大人しくしている程度のうるささ、それのみがしばし場を支配する。


「ねえ。わたし、ずっと気になっていたことがあるの」


 思い切ったように、彼女は口を開いた。少年は黙したまま待つ。彼のそれが、続きを促しているのだと彼女は知っている。


「あなた、わたしがなくしてしまった昔のわたしのこと……知っているんじゃないの?」


 少年は答えないように見えた。

 けれど少しの間口を閉じていただけで、静かに口元を緩める。


「それは、今の君が知る必要のあることなのかな」


 彼の答える口調は、どこまでも穏やかでありながら、どこか諭すような雰囲気も秘めていた。

 琥珀色の、あらゆる不思議なものを見通す目が少年を貫く。

 視線を逸らしたのは彼女が先立った。


「……そうね。そうかもね」


 それ以上彼女は何も聞かなかった。しわくちゃの手で、犬を撫でる。

 少年が立ち上がった。誰かが帰ってくる気配だ。彼は彼の気配を感知できる人間以外の前にはあまり姿を見せようとしない傾向がある。

 だから彼女も特に引き留めることはなかったが、この時は一つだけ、思わずと言った様子で言葉を投げかけた。


「わたしたち、また会えるかしら」


 少年は振り返り、笑んだ。


「君が望み、ぼくが存在しているのなら、必ず」


 そして彼は、魔法でも使ったかのようにその場からふっとかき消えていなくなる。犬たちも一緒に。


 彼女も笑った。微笑みを浮かべた。


 自分の目から涙がこぼれ落ちていたことには、帰ってきた人の指摘を受けて始めて気がついた。

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