花の大精霊編20 消えてしまえ《アイシテイル》
満ちた潮が引いていくように、高まった熱が熱源を失って急速に収まるように、静けさが戻ってくる。
時が止まったようだった。
大きく琥珀色の目を見開いた少女は、冷たくエメラルドの目を光らせる少年を見つめる。
「お前の精霊としての姿を。名前を。力を。記憶を――一切を、ことごとく、消滅させる」
大精霊は呪いの言葉を紡ぐ。
全てを無に還す、空。
その呪文は、誰よりも辺りの精霊達の本能に呼びかける。
恐怖など、本来覚えるはずのない精霊達が、ざわめき、忌避し、遠ざけようとする。
それが空であり、それが彼である。
精霊である限り、否、形を持つ存在である限り。
輪郭を、意義を、定義を奪う。空の大精霊の恐ろしさは本能が知っている。
――命はいつだって生まれ変わる。
――わたしはあなたが怖くなんかないわ。
ただ、一人の無邪気で愚かな存在以外。彼はいつもこうだった。
少女は少年を見つめる。少年もまた少女を見つめる。
その目には冷淡でありながら、どこまでも穏やかな色が宿っていた。
時が歪む。空がたわむ。大気が鼓動する。地面がうねる。代わる、変わる、世界が、その一部が変質していこうとする。何もかもが震えている。一つの終焉の気配を感じて。
「……人間になってしまえ。愚かな大精霊よ」
言葉が結ばれ、指先から呪いが放たれる。
光に包まれ、少女は叫んだ。苦痛に顔がゆがみ、その手が少年に向かって伸ばされる。
けれどもう、それは二度と届く事はない。
彼が手を離すと決めたなら、誰も逆らうことはできない。大精霊であっても。
――ならば。
彼が拒みさえしなければ、隣にいられたのだと。
隣にいられたのは、彼がまさにそう望んでいたからなのだと。
(わかっていたつもりになっていた。けれど――)
琥珀色の瞳から感情の波が溢れていく。
少女の何も、もう彼には届かない。
もがき、苦しみ、精霊という楽しく安寧で偉大な存在から一つの矮小な個に固定されていく存在を。
ただ、空の大精霊は眺めていた。
いつも人を見つめていた、あの時の目で。
一人の人間が生まれるその瞬間を、いつも通りに見守り続けていた。
最後に、少女の柔らかな唇が動く。何かの言葉を描き出そうとする。
不意に、全く動こうとしなかった少年が、少女に歩み寄ったかと思うと、かがみ込み、膝をつき、彼女の顔のごく近くに自分の顔を寄せる。
肌の下に脈動する命の輝きをほんのわずか感じるかのように、少年が桃色の唇をなぞる。触れるか触れないか。触れられたのか、そうでないのかわからないほどの、近くて遠い距離。
その指は柔らかな感触を楽しむようにも、彼女の言葉を止めるようにも見えた。
ほんのわずか、他の誰もわからなくても、彼女だけは。
よく見える目で見守っていた彼女だけは、かつて兄と慕ったその存在が、柔らかな笑みを浮かべたのを見た。
少年の薄い唇が動く。
見開いた少女の瞳から、また新たな涙が零れ――。
そして彼女は倒れ込んだ。
糸を失った操り人形のように、ふっと目の焦点が合わなくなったかと思うと、地面に倒れ込む。
少年は受け止めようともしなかった。
もう二度と、彼女に触れる事はなかった。
若者がいつものように少女に会いに来ると、彼女は倒れ、その横に見知らぬ少年が座り込んでいた。
殺気立つ彼だったが、すぐにそれも失せる。
少年が傍らの少女を、とても悲しい目で見つめている気がしたからだ。
どうすればいいのか、判断しかねて立ち尽くす花の魔法使いを静かにエメラルドの目が見据える。若者は動けなかった。始めて愛しい彼女を見た時と同じような、圧倒的な覇者の存在を感じた。
やがて少年がふっと目をそらすと圧も消える。彼は倒れ伏す少女に手を伸ばし、けれど触れる事なく、首を振って立ち上がった。
若者の方に歩いてきたかと思うと、彼の真横で一度だけ立ち止まる。
「君はぼくたちからかけがえのないものを奪った。だからぼくは君たちに呪いをかける。かけ続ける。生きるといい、精一杯、命尽き果て、二人を死が別つまで。ぼくは見ている。いつでも、いつまでも、見ているよ」
囁くように放たれた言葉は幻のよう。
呆然と立ち尽くす花の魔法使いが慌てて振り返ると、もうその姿はない。
きょろきょろと辺りを見回した彼が、いくら探しても少年は見当たらないことを悟ると、少女に近づく。
そっと触れてから、慌てて手を離す。そしてまた触れる。
柔らかな髪、柔らかな肌、脈打つ心臓。
花の属性を持つ彼だからすぐにわかった。そこにいるのが人間だと。
同時に彼は、かけられた声の意味を知る。
もう一度、慌てて立ち上がった彼は、おそらく少年の消えていった方にじっと目を向け、頭を下げた。
それから少女が起きるまで待った。
やがて、うっそりと琥珀色の目を開いた彼女に、若者は不安げに呼びかける。
「……フローラ?」
ゆっくりと何度か瞬きをしてから、彼女は首を傾げた。
「それがわたしの名前?」
若者は少しの間だけ、何か迷うように目を泳がせ、唇を噛みしめた。
「そうだよ。君の名前だ」
彼女は今まさに開いた花のような微笑みを浮かべた。
「わたし、何も覚えていないの。でも、ちっとも不安なんかじゃないわ。今、とても幸せなの。わかるの……」
彼はしっかりと彼女を抱きしめた。
託されたものの重みを、手の中に感じ取っていた。




