花の大精霊編19 全てが終わるとき
魔法使いは大精霊を呼び出し続けた。
客観的に、多くの人間にとってはどうでもいいような理由で。
けれど彼にとっては至極まともでとても大切な理由で。
愛しい人を呼びだしては、手で、顔の表情で、言葉で、全身で、それ以外でも。胸の内で燃え続ける炎の力のままに、彼女に情熱を打ち明け続けた。
時は過ぎる。再び幾度目かの春がやってきた。けれどその年はどこかおかしかった。
花が正常に咲かないのだ。本来の形に開かず、見る者を不安にさせる不定型な形に開いた。生命はことごとく浮き足だって落ち着かず、健全な芽吹きの流れは途絶え、正しくない循環は所々によどみを溜めていった。
精霊にも、人にも容易に理解ができた。
命の流れは花の大精霊が司る。当代の花の大精霊はどこかおかしくなっていっている。世界は違え始めている。
若者によって、彼女は世界でちっぽけな恋する乙女に塗り替えられつつあった。元々少女の性質に寄った個性を持っていたのだ、染まるのは早い。当然のように、彼女はたった一人の男の前でより美しくなっていった。
けれどそれは大精霊にふさわしくない。矮小で下らない情動の錯覚である。
彼女は若者以外にも見なければならない景色があり、聞かなければならない言葉がある。
ところが今や他の何も彼女に届かなかった。彼女は本来、大勢から吸い上げ、それを正しい形にしてまた新たな大勢に分け与える。その繰り返しこそ生命の姿であり、身体中に流れる血液の有り様こそ自然である。
だからたった一人にのみ、恵みを分け与えることは間違っている。そんなことをすれば本人だって気持ち悪くて仕方ないはずだ。本来なら。正常なら。
――大精霊なら。不当なる不公平の天秤を受け入れることなどできない。そういう機構だから。
彼女は違和感に気がつかなかった。彼が笑って健やかに、彼が思う通りに過ごせるのならそれで満足した。逆に彼の苦しい顔や悲しい顔は見るに耐えなかった。
今まではただ心がざわついただけ。今はもう我慢なんてできない。
一人の若者が倒れなくなった。飢えに苦しむ事も病に怯えることも疲労に倒れる事もなくなった。
それ以外が徐々にその分壊れていった。今まで与えられたはずの力の供給がなくなり、起き上がる事ができなくなった者が増えた。
若者が、気がついて言えば。彼女は従順に従った。
彼とて元々善人だ、自分を削ることを厭わぬほど。
けれど若者は、一人ではなくなった。彼は以前より、自分を失うことを恐れるようになった。自分が失われることが、自分一人の問題ではなくなったからだ。
彼は以前より自分の事をより気に掛けるようになった。それは目の前の彼が抱えられる人数が減ったことをも意味する。理解はしても納得できない人々がいた。どうして。なぜ。今までは救ってくれたのに。希望を与えておいて、今更。
彼が救った人間の数が消えないのと同じほど、彼を憎む人間の数もまた永劫に消えない。
取りこぼされた人間達はなぜを問わぬことができない。
どうして自分は選ばれなかったのか。
それに対する答えを、若者も、大精霊も、誰も持っているはずがなく。
詰んでも詰んでも不和の芽は育つ。彼が真摯で善人であるがゆえに、なお一層根は深く地中に張り付き、やがて根元の大地をも腐らせていく。
――恋は、けして悪いものではないけれど。
彼らの恋は、悪だった。
いつからか、いや最初から、お互いに気がついていた。
会ってはいけない。この人を想ってはいけない。
その心すらも純情な情の炎への油となる。
手を握るだけ。そんな最初の約束はすぐになかったことにされた。
指を絡ませ、視線を絡ませ、足を絡ませ、言葉を囁き交わし合ってもなおまだ足りない。知れば知るほど足りなくなる。満ち足りていた無知の時代に戻れない。
口づけを交わした。草原の上に寝転んで、押し倒して。
愛よりももっと深い感情に溺れていく。人も、人でならざる者も。互いが大事になるほどに、それ以外の大事だったはずのものが薄くなって消えていこうとする。
どちらも大事。それは嘘ではない。
けれど目の前の恋人の手を離す、それだけは絶対にできない。そんな簡単な事が、今はもうどうやってできていたのかわからない。
夏が燃えず。
秋が実らず。
そしてまた死の冬がやってくる頃。
ついに琥珀色の輝きを、他の七つの偉大なる輝きが取り囲んだ。
過去でも未来でもない場所。
遠くにあって近くにある時間。
曖昧な境界時空には、宝石より眩しく、星よりも柔らかい七つの光が集っている。
点滅する人ならざるものたちの輝きは口もないのに意思を伝え、耳もないのにそれを聞く。
「警告もしたはずだ。何度も。何度も!」
「あの男と別れなさい。今ならまだ――まだ。どうにかなります。貴方自身の手で、決着をつけるのです」
「人の命は有限。儚く移ろう陽炎のようなもの。なればこそ――」
「精霊は誰か一人のものになってはならない」
「誰か一人だけを望むなら。それはもう、精霊とは呼べない」
「……我々が最も忌み嫌うあれらと同等のものに成り下がる、ということじゃ」
意思は波となり空間を伝わる。言いたいことはその前に言い尽くしたとばかりに沈黙を保つ七番目の大精霊以外が、口々に言葉を発した。
少女の足下に投げ出されたのは銀色のナイフだ。実際に具現化しているというより、象徴的な意味合いを持つ。
花の大精霊はしばらく答えなかった。彼女は――擬人的に表現するのなら、自嘲するような歪んだ弧を描く微笑みを浮かべた。
「嫌よ。もう、遅い。遅すぎるの。わたしはあの人がいないと意味がない。あの人――」
顔を上げた彼女。本来白かったはずの目の部位が黒く変色していた。彼女の淡い桃色の髪も、どす黒い沼の土のような色合いに変わっていく。
「悪霊にだって、なってやるわ」
彼女は銀色のナイフを蹴飛ばした。それは明確な拒絶と決別の意思。そして彼女が大精霊という座から下りる宣言でもあった。
世界が揺れる。大精霊達が呪文を編む。全てが歪む。生命を司る八番目の大精霊の代替わり――それはすなわち、一つの時代の終わりとも言えるかもしれない。本人が全力で抵抗するなら、尚更。
炎が燃える。
水に飲み込まれる。
風が攫っていく。
大地が沈む。
光が全て焼き付くし、闇が全てを抱擁する。
それら全てに、命の輝きが抗おうとする――。
――そんな、終わりがやってこようとした、ちょうどその瞬間、まさに一触即発の時。
「空の大精霊の名を持って、お前に呪いを与える」
その言葉は、静かに放たれた。