花の大精霊編18 逢瀬
星を読み、土地を読み、身を清めて作法に従い、円陣の中で後はひたすら現れるのを待つ。
精霊を呼ぶとはそうしたものだった。
相性のいい、例えば「見える」ような人間ならばそれらの手順を省き、名前を念じるだけで呼ぶことも可能らしいが、才能のない人間には下準備が必要なのである。
そして下準備を入念に重ねたところで来ないときは全く来ず、逆に来る時は呼んでもないのに押しかけて来る。精霊とはそうしたものだ。対話は可能だが制御に期待すると痛い目を見る。
ゆえに、正しく異界の隣人――それが精霊召喚に携わる人間達の基本認識である。
同じ奇跡に携わる術でも、魔法の方がまだ確実性があると言えよう。魔力量や修練の度合いに応じて、成功率が上がったり威力が増したりするからだ。因果関係がそれなりにわかりやすく、改善するための策を考えやすい。
だから逆に、優れた魔法使いにとって精霊と付き合うことは難しいかもしれない。
魔法の理と精霊の理は根本から異なる。
呪文を唱えても結果の得られ方がその時々によって変わると言うのは、ある意味合理的な世界に生きている魔法使いにとって実に我慢ならないことだろう。
しかし花の魔法使いはその点他の魔法使いより努力と結果の理不尽な関係には耐性のつきやすい環境にあったと言えよう。
彼の敵は病であり怪我であり、死そのものである。
必ず救えるわけではない。それでも毎回手を尽くす。
彼の姿勢は大精霊召喚になっても全く変わらなかった。
完璧に整え、魔法陣を描いて何も起こらずとも彼は全くめげなかった。
他の魔法使いならとっくに諦めている程の回数、何度も何度も繰り返した。
ようやく描いた円陣が光り輝いたときも、彼は当然のことが起きただけという表情のまま、特に驚きも達成感も見せなかった。強いて言うなら喜びである。きらきらと顔一面に喜色を隠しもせず浮かべている。
花の大精霊を迎えるために描いた魔法陣の中に現れたのは少女であった。
桃色の長い髪は背中に流れ、琥珀色の瞳を伏せている。
今回はきちんと人の形をしていたし、服も着ていた。
召喚の光が消えると、ただの少女――少なくとも、見かけ上はそうとしか見えない存在が取り残される。
若者は自分の円陣から一歩踏み出した。少女は動かなかった。彼はゆっくりと歩み寄り、彼女の手を取った。一瞬だけ上を向きそうになった琥珀色の瞳だが、こらえるように戻る。歩み寄れば若者の方が頭一つ分以上背が高い。彼女は小柄なのだ。それでいて幼さと女性らしさが同居していてどこか危うい雰囲気も醸している。
若者はしばらくじっと、少女の手を取ったまま彼女を見つめていた。頭のてっぺんから、つま先まで。顔を見て、手を見て、身体を見て、また戻ってくる。熱のある視線を注がれても少女は目を伏せたままだった。
「……急にいなくなるのは酷い」
ようやく囁くように若者がなじる言葉をかければ、少女の身体がびくりと震えた。
「本当はこんなこと、してはいけないの」
「どうして?」
彼女の声はいかにも弱々しい。ずっと若者を翻弄し続けてきて、彼を蘇生させ、二人の優秀な魔法使いを一瞬で死に追いやった存在と同じものとは到底思えない。あくまで視線を合わせようとせず、手元から足下に彷徨わせているのは罪悪感に似た感情を彼女が抱いている事を匂わせる。
「わたしは大精霊だから……あなたのことも本当は助けてはいけなかった」
「じゃあこれ以上何もしない」
「もうしているわ」
少女は手元に目を向けたまま言った。それでも花の魔法使いは手を離そうとしない。うっすらと微笑みすら讃えて、少女を見つめ続けている。
「いけないことなのに……」
「でも君は逃げない」
少しだけ、抜けていきそうになった指先を包み込む指に力を入れて。
それだけで、花の大精霊の動きが止まる。
彼女の目は揺れていた。迷いの証だ。若者は片手を彼女の掌から手の甲に滑らせ、両手で包み込む。
「逃げないで。お願いだ」
彼の手は温かかった。
少女は結局、それ以上彼に歩み寄ろうとはしなかったが、自ら強い拒絶を示すこともなかった。
そのまま召喚の時間が終わり彼女が消えていくまでずっと、若者は離れようともせず、ただただそのまま情熱を掌に込め続けた。
「大精霊の手を握りたいだけで召喚した馬鹿は、史上お前ぐらいだしこの先も現れない」
全てが終わり、とても満足そうな顔をして戻ってきた花の魔法使いに向かって、炎の魔法使いは真顔のままそう言った。協力しあうと決めてから、彼らはお互いに約束を守り続けている。炎の魔法使いが自宅やその付近、大精霊召喚のためのあれこれを貸しているのも約束の一つなのだ。
直球に頭が悪いと言われても、若者が気分を害した様子はない。むしろどこか嬉しそうだった。
「手助けしてくれたから、覗きは怒らないよ」
「せめて監視と言え! お前が変なことをしでかさないように、見たくもない恋愛劇を見守ってなきゃいけなかったんじゃないか!」
「ありがとうございます。次もよろしくお願いします」
「次があるのか!?」
「だって今日は手を握っただけだ」
「ハグか? その次はキスか? それでデートか? ……どうかしてる」
憤慨する炎の魔法使いに対して、恋する若者は浮かれた空気を隠そうともしない。
もうすぐ父親になる男は手で顔を覆った。表情にも姿にも仕草にも、何もかもに徒労感がにじみ出ている。
「こんな男だとは思ってなかった。もっとこう、真面目で一直線で……」
「別に嘘を吐いてた訳じゃないですよ。ただ、一回死にそうになった――というか、実際に死んだから。俺はどんなに頑張っても数十年しか生きられない、ちっぽけな存在だって事を思い出したんだ。したいことをしない暇なんてないし、少しだけ素直になっても罰は当たらない。間違ってるかな」
問いかけられて、炎の魔法使いはしかめ面のまま顔を上げた。
「前半のみ同意する」
「そう言うと思った」
大きなため息が一つ落ちた。その下で野草がふわりと揺れる。
停滞の時期が過ぎ、変化の季節がやってこようとしていた。