魔法使い1
男はフローラより幾分か年上のように見えた。
落ち着いた雰囲気や表情、隠遁者のようなローブはとても大人びているが、癖のある黒髪をところどころ跳ねさせている部分は若い――というか、ちょっと幼い印象を与えた。
寝癖がそのままになっているのか、こういうセットなのか、なんとも言えない絶妙な跳ね加減なのだ。
ちらりと室内灯の光が揺れる目は、思慮深く賢そうで、深く濃い緑色をしていた。
(森が、目の中にある……)
ぼうっとフローラが見つめていると、しばし瞬きもせずに返していたそれはふっと視線を下げ、頬に触れさせていた手をさっと引っ込める。
なおもまだ状況がつかみきれず瞬きをくりかえしている彼女からいったん身を引いたと思うと、さほど間を置かずにまた戻ってきた。
どうやらあまり大きくない――本ぐらいの大きさだろうか、黒板を胸の前辺りに持ってくる。
程なくして、すうっと黒い画面に白い文字が浮かび上がった。
『起きていて、見えているなら、素振りでもいいから答えてほしい。文字は読めるか?』
フローラは何度か瞬きする。
羽ペンやチョークなど、何か書くものを使った様子は全く見られない。
彼は両手で黒板を持っており、画面をこっちに向けたまま動かない。
それなのに勝手に文字がさらさらと浮かぶ。
目を丸くしている間にいくつか並ぶ文字の中、上から二番目の列に、ふと慣れ親しんだものを見つける。
フローラの出身国、ディーヘンの文字だ。
(そうか。一番上、最初の列の文字は、ランチェ語なのだわ)
ランチェはディーヘンの隣国だ。
一番最初にその文字が浮かんだと言うことは、この人は隣国出身者なのだろうか。
どうやらフローラと会話をするために、同じような意味の言葉を色んな文字で書いて、どれが読めるだろうかと試しているらしかった。
目覚めた直後のフローラの思考はまだ夢と現実の境目をさまよって、ゆったりのんびりしていた。
また新たな一文が浮かぶ。
『どれでもいい。どれか読めるなら、教えてほしいんだが……駄目か?』
男はフローラがぼーっとしている間にも辛抱強く、さっき彼女をのぞき込んでいたときと同じ真顔のまま、返事を待っているようだ。
相手を待たせているという状況に、ようやく思考が追いつく。
彼女は慌てて、こくこくと何度かうなずき、自分が読めているという態度を見せた。
意思疎通が図れる相手とひとまずわかったからだろうか。
多少、彼がほっとしたような表情になった気がした。
黒板の文字が瞬時にさっと消えて、また新たな文字が浮かぶ。
『なら、筆談も可能だな。私は訳あって喋ることができないから、これで意思疎通させてもらうが、構わないな?』
浮かんだ文字はディーヘンのものだ。
フローラの顔色を読んだのか、それともまた別のからくりがあるのか、的確に彼女の一番読みやすいものを当てたことに感心する。
(あら? でもさっきは、この人の声のようなものが聞こえたような気がするのだけど……?)
フローラが文字の浮かぶ黒板を眺めながら、首を縦に振って了承の意を伝えた後捻っていると、男はくるっと彼女に見せていた面を自分の方に向けて目を滑らせる。
それからまたこちらに見せてきた。
『珍しいか?』
「……へっ?」
『なんだ、言葉が出ないわけじゃないのか。てっきり私と同じようなものかと思った。手間が省けるなら願ったり叶ったりだ』
質問が唐突すぎて思わず声を上げると、また一つ男の気配が和らいだ気がする。
(ええと……文字が流暢に読めるのなら、ディーヘンの言葉のまま喋って大丈夫かしら? でも、この人はランチェ語の方がいいのでは……ああ、でも、ディーヘンなまりで聞き苦しいのは、駄目かしら……)
一人でピンチだった時はなんとかひねり出すことの出来た前向きさだったが、対人となるとまだまだ修行不足のフローラである。
なかなか抜けないぐるぐる思考回路にまたも陥っている彼女に向かい、男は黒板を一度片手に持ち直したかと思うと、脇に置いてあるカップを取って差し出してきた。
『飲むといい。大した物ではないが、体が温まる。落とさないように気をつけて』
「あっ、ありがとうございます! すみません……」
受け渡しの時、咄嗟に出てきた言葉は、やはり使い慣れているディーヘン語だった。
そのまま流れるように謝ると、男はマグカップが無事に渡ったことを確認してから手を離した後、眉の辺りを少し歪ませる。
(ど、どうしよう! やっぱりランチェ語でないと駄目だったかしら――)
おろおろしそうになったフローラに向けられた黒板の文字は、心なしか硬い。
『なぜ謝る?』
「すみません!」
『いやだから、なぜ』
「ごめんなさい!」
『おい。あのな』
「申し訳ございません……!」
『……とりあえず、いい。まずは飲みなさい』
男は賢そうな人だった。
このままだと話題がループすると察知したのだろう、素早く引く。
フローラは恐縮しつつも、深緑の目に睨まれるように見つめられるとおどおどしながらもマグカップに口をつける。
(……白湯、だわ)
飲んでみてわかる。熱すぎず冷ましすぎずな、ちょうどいい温度の白湯だった。
つまり無味である。
なんかこう、相手の見た目とか今さっき見せた謎の黒板芸とかからは、もっと色々えげつない味がするものを出してきそうな印象を与える人だったので、素朴、というか何も味がしないことに、ちょっと一瞬びっくりする。
『まずかったか?』
顔を上げたら、微妙に不満そうな文字が並んでいた。
「い、いいえ! と、とても美味しいです、ごちそうさまです!」
『なんのひねりもないただの湯のはずだが?』
「はいっ! 絶品です!」
絶品――は雰囲気に飲まれてさすがに言い過ぎた感じもあるが、今まで飲んできた水よりこう、体にすっとしみ通る感じがするのは確かだった。
(町は人が便利だが汚れている、森の水はもっと綺麗で美味しい――って、本当だったんだ――!)
静かに感激している町育ちを前に、文句あっかと多少喧嘩腰だった男の険が取れ、拍子抜けするような顔になる。
と、ぽやぽやしていたフローラは、水分補給と熱を得て回復し、精神的にも余裕が出てきたからだろうか。
ここでようやく自分が森で結構酷い目にあったこと、そしてふかふかのベッドに寝かされ室内にいるということはたぶん目の前の男の人があの窮地から助けてくれたのではなかろうかという可能性に思い至る。
「あああああああ、あの、あの、あの!」
『落ち着け。ベッドから落ちるぞ』
「そ、そうです、落ちたいんです!」
『待て。話せばわかる相手っぽいと油断させてから奇行を取るのはやめろ、どうすればいいのか迷うだろ』
「あああああごめんなさいごめんなさい、お、落ちたいんじゃなくて、お、下りたいんです、えっと、わたし!」
『いいから、座れ? 話はそれからだ』
ベッドから転がり出て速やかに土下座しようとしたが、もたついている間に据わりきった目と冷静な言葉で阻止された。
文字を目の前に突きつけられると、怒鳴りつけられるよりよっぽどびしっと来るものがある。
マグカップを避難させ、大人しくすごすごベッドの中に入ってから、フローラは今度こそ男に向かって深々と頭を下げた。
(あ、あれっ――?)
ところが、頭を下げたと言うより、がっくり頭が落ちたという方が正しい。
(お、お礼を――お礼を言わなくちゃ。あと、迷惑をかけてすみませんって。それから、私が気絶した後何が起きたのかって。言わなきゃいけないことが、聞かなきゃいけないことがたくさんあるのに。どうしてまた力が湧かないの、言葉が出ないの、目が開かなくなってしまうの……)
猛烈な眠気が襲ってくる。
今日は何回気絶すればいいのだと自分でも呆れるが、睡魔にはかなわない。
抵抗を試みている間に、体の向きが直され、自分の上に何かがかけられた後、額にまた柔らかく気持ちのいい温もりがぴたりと当たるのを感じた。
(まあ、色々あったようだし、疲れているんだろう。ゆっくり休むといい)
ただ、無理やり気絶させられた時や、恐ろしくて失神した時と違い、今度眠りに入るのは恐ろしくもなかったし、あまり嫌でもなかった。
――だから、入眠自体は、かなり健やかなものだったのだけど。
どうにもフローラはこういう星の下に生まれてきたとしか思えない。
夢見の方は、最悪だった。




