花の大精霊編14 火柱
秋は短い。実りの季節が過ぎ去れば、長く厳しい冬になる。
この時期の冷たく乾燥した空気は喉と肺を悪くする。特に老人と子ども。毎年必ず死者が出る。乾燥はしているが火を灯さない訳にはいかない。火災のリスクも冬が一番大きい。都市部や特権者階級のことはさほど心配していない。花の魔法使いが一番心配するのは冬でも何かしら労働しなければ生きていけないような人達だ。
まずどうしても食料問題が出てくる。狩りの時期でもあるが、この時期必死なのは人も獣も、そして魔獣も一緒だ。狩る方から狩られる方へ転落するのはたやすい。家畜を持っているような家は尚更。
雪が降るのもよくない。移動が難しくなり、最悪何日も家の外に出られない。食料だけでなく暖房設備の備えも必要だし、住居自体が雪の重みに耐えきれず歪んだり倒壊する可能性もある。避けるために屋根に上る必要があるが、それがまた毎年事故や怪我の原因になる。雪が溶ければそれはそれで問題だ。水は恵みにもなるが、量が過ぎれば牙を剥く。溶けかけの氷もまた転倒のリスク。
どこに行っても治療のできる人材は引く手あまた、悩みは尽きない。
人間にとっては最も厳しく、花の魔法使いにとっては最もやりがいのある季節とも言える。
だが今年は花の魔法使いにとっても厳しい状況となった。病人怪我人の繁忙期に加え、追っ手の攻撃の激しさが増したからだ。
目に見えぬ同伴者の援護は心強かったが、何事にも限度がある。
それに炎の魔法使いの忠告は今度こそ正しかったらしい。あちらは確実に決着をつけたがっていた。年が明ける前に。今年中に。なんとしても。日に日に削れていく睡眠時間が、本気度を嫌でも悟らせる。
怪我を残したまま移動することも増えた。いちいち治している余力がないのだ。冬の夜はただでさえ堪える。自分の最低限の健康を保つための基礎的な魔力も増えるし、外部で彼の力を求める声は増すばかりでけして減る事はない。必然的に生傷が増え、疲労は蓄積されて目の隈が濃くなっていく。
しかしこの需要の増している時期に、身の安全を優先して隠れているばかりという訳にもいかない。聖者は助けを呼ぶ声に必ず応じる、故に聖者と呼ばれてあがめ奉られている。
――年末の足音がいよいよ迫る頃、雪が積もった翌日の晴れた夜だった。町ならとある昔の聖者を讃える祭りが開かれるその日、大きな丸い月が出ているせいか、夜空の下でもやけに物がよく見えた。
花の魔法使いは雪に足を取られそうになりながら開けた場所を走っていた。人里からは大分離れている。丘、と言うべきか、なだらかな斜面が続いていた。
走るというよりは、転びそうになるがなんとか踏みとどまってかろうじて進んでいる、という表現の方が正しい。白い地面に彼の足跡が、そしてぱたぱたと赤黒い液体が落ちて汚していく。
フードは破れ、頭と顔の半分は赤く染まっている。ただでさえ血色の悪い肌はますます青白く、杖にしがみつき足を引きずりながら歩を進めようとする。杖以外の荷物はない。どこかに落としてきたか、放ってきたか。
喘ぐような荒い息を上げていた若者がついに地面に膝をついた。血を流しすぎて目眩を起こしたのかもしれない。頭の傷の方が目立ちがちだが、一番の大きいのは背中をローブごとばっくり切っている傷だ。
彼以外の雪を踏みしめる足音が近づいてくるが、息を荒げたまま静かにそちらの方向を睨みつけるのみだ。
やがて走ることもなく悠然と歩いてきたお揃いの上等なローブの人間達が、雪の上にうずくまるようにしている花の魔法使いを取り囲む。全部で五人程度だろうか。その中の一人、赤毛の魔法使いが前に歩み出てすっと息を吸う。
「これが最後の警告だ、花の魔法使い。わかるか――最後だ! 我々と共に来い。来ると言え、言うんだ!」
炎の魔法使いは最初は静かに、一度言葉を句切って怒鳴りつけるように言った。
ぜいぜいと聞き苦しい音を立てながら、花の魔法使いは弱々しく微笑む。
「さもなくば、今ここで殺す……ですか?」
「前にも言った。俺はお前が結構好きなんだ」
「でもご主人様には逆らえない。そうでしょう」
「まだそんなことを……」
炎の魔法使いは忌々しげに舌打ちする。彼の握る杖には赤々と、ルビーのような石が光り輝いていた。頭を勢いよく振ると髪が乱れるが、気にも留めない。
花の魔法使いの握る杖には、弱々しく今にも消え入りそうな琥珀色の光がわずかに灯るのみ。足下は雪、その下は草も生えない地面、周囲には木々もない。魔法使い同士の戦いにどこからともなく参入してきた動物たちの姿も、繰り返し容赦なく殺戮を続けられればさすがに打ち止めが来たようだった。
吐き出す息が白い。炎の魔法使いがいつになく真剣そうな顔を向けた。
「子どもが生まれる。次の春に」
「……あなたに、ですか?」
「そうだ」
険しい顔のままの相手に、花の魔法使いは応えに迷った様子で、困惑するように眉をゆがめながら視線を彷徨わせる。
「そう。それは……おめでとう」
「どうも。だが妻は代々難産の家系でね。初産に耐えられない可能性が高く、運良く産めても母体の方は産後を乗り越えられないかもしれないと言われている。だからお前に見てほしい。お前は俺が出会った治癒魔法使いの中で、一番優秀で、一番誠実だ。断言できる。お前以上の治癒師はもう現れない。お前に頼んでも駄目なら、諦めがつく」
空気が張り詰めていた。取り囲む他の魔法使い達は互いに視線を交わすが、一言も上げずに成り行きを見守っている。
花の魔法使いは大きく目を見開いた。父親になると打ち明けてきた男の空色の目は、自分に手を下させてくれるな、と強く語っている。若者は息を整えるように大きく深呼吸した。吸って、吐き出して。雪の上の澄んだ空気に声を放つ。
「祝福はします。救える命があるなら全力で挑みます。でも……俺の力は誰にも独占させるものではない」
もう一度、息を吸い。ぐるりと周りを見回して、最後に赤毛の魔法使いを真正面からぴたりと見据え、花の魔法使いははっきり断言した。
「あなたたちの専属になれ、あなたたちが駄目と言った相手は癒やすなという意味なら――話は受けられない」
「わかっているのか? 俺はお前を、手に入れられないなら殺せと言われているんだぞ?」
唸るように低く漏らされた言葉に、けれど銀髪の若者は毅然としていた。
「覚悟はできています。この道を進むと決めたその日から」
炎の魔法使いは首を振った。振り続けながら、後ろに下がる。まるでよろめいたようにも見えた。包囲し、杖を向けて花の魔法使いを牽制していた他の魔法使い達が心配そうにし、あるいは駆け寄ろうとする気配を見せるが、手で制する。
「……お互いに、苦労しますね」
苦笑して呟いた花の魔法使いに、応じる言葉はない。
赤毛の魔法使いはローブのフードを被り直し、袖をまくり上げた。彼の手に握られる杖の輝きが、月明かりの下で強くなっていく。
「残念だ、花の魔法使い。……本当に残念だ」
片方の男は苦渋に顔をゆがめ、もう片方は寂しげな微笑みを浮かべた。
呪文は短い。誰かがそっと目をそらした。
月の下で空を飲み込まんばかりの大きな火柱が上がり、苦悶の絶叫が聖夜にこだました。




