花の大精霊編12 追っ手
まだ薄暗いうちから気怠げに起き上がった魔法使いは、水場で手早く身支度を整えると自分が指定した約束の場所に向かう。
今日はあいにくの曇り空なのか、開けた場所に出ても辺りはあまり明るくなる様子がない。
遺跡、と表現したが、小高い丘の上に人工物だろうと予想できるだろう大きな石が規則的に丸く並んでいるだけの場所だ。
こういう場所は各地に存在し、それについて若者のかつての師が述べていた説を思い出す。
かつて人間にはすべて精霊という存在が見えていて、人々は不思議の存在と生活の中で今よりももっと密接に関わっていたらしい。
ところが人はあまりに近しく接する内に、次第に精霊への信仰心を失っていった。すると精霊もつられるようにおかしくなっていった。彼らは病み、やがて悪霊と呼ばれる精霊とは別種の存在に変質していった。
そこで世界は一度全てやり直すことにした。悪い物を全て焼き尽くして、洗い流して、さらって、更地にして、その上に再び光を当てて、闇を浮かべて――。
そうして新しいルールを作り、精霊と人の間に今度はしきりを立てて、そうして今の世界があるのだ、と。
こういった遺跡はその失われる前の世界、旧世界の遺物なのだと師は言ったか。
どうも魔法使いの集団から放逐されたか自主的に出てきたか、そういった背景を持つのだろうと言動や時折本人が語る過去話から推測できた女性は、半目になりつつも大人しく話を聞いていた弟子に、さんざ自説を披露しては目を輝かせていたものだ。
(私は、私のためだけにしか魔法を使わない。絶対に)
そう豪語してはばからなかった彼女。最終的に半ば喧嘩別れというか、一方的に弟子が師を見捨てて抜け出てきたような形になってしまったが、今頃はどうしているだろうか。
そこまで考えてから、若者はフードを被った銀髪をぶんぶん振る。
(なんだ……寝不足のせいか? どうにも変なことばかり思い出す)
疲れが溜まっているのだろうか。気弱な自分に渇を入れるようにぱん、と頬を叩いた瞬間、ざわ、と草が音を立てた。
群れている石の一つにもたれかかり、座り込んでいた彼ははっと顔を上げる。
一瞬だけ視線を鋭くさせ、素早く立ち上がって荷物を拾い上げようとするが――それをやめて、疲労の滲んだ顔でまた石にもたれかかる。
やがて、小遺跡に新たな人物が姿を見せた。
大きな淡い赤色の輝く石がいくつも嵌まった杖に、見るからに上等そうな仕立てのローブに身を包み、胸元には放浪の魔法使いにはない紋章が刻まれている。
見事な朱色の頭髪はぴんぴんと跳ね、空色の目は生気に満ちあふれて輝いていた。
年は若者とそう変わらないか、少し年上といった所だろうか。
少しだけ、辺りが暑くなった――そんな錯覚を覚えさせるような、何か見えない力のようなものが、赤髪の人物からは放たれているようだった。
「……そんな気がしていた」
そんな見知った顔を前に、座り込んだままの魔法使いはげんなりした声を上げる。
相手はにっかりと歯を見せた。
「やあ、久しぶりだな、聖者殿。それとも花の魔法使いとお呼びした方が?」
若者は腐れ縁の相手にあからさまにわざとらしいため息を吐き出した。すっと目を細める。
「俺は重病人がいると聞いたので、ここまで足を運んだのですが」
「あいつらを責めてやるな。それはそれで事実だ。我々はその間に、少し割り込ませてもらっただけ」
「なおのことたちが悪い」
確かに、追いすがってきたあの人物が嘘を吐いているようには思えなかった。心から主を案じ、一筋の希望に必死にしがみつこうとしているように見えた。だからこそ、魔法使いも治療をすることを了承したのだ。
病人がいることは事実であるという部分に魔法使いはさらに機嫌を悪くするが、立派な身なりの赤髪の魔法使いは全く気にした風を見せない。
再び笑顔を浮かべ、明るくきっぱりはっきりした口調で言い放った。
「いい加減我らと共に来い、花の魔法使い。お前は強すぎる割りにその力を安易に使いすぎる」
「持つ者のもとに力を独占させ、持たざる者から徹底的に搾取する。そういうことが、あなた方の言う正しい力の使い方なのですか? 賢く強く偉い炎の魔法使い様」
若者の表情も口調も固く冷たい。
あからさまな挑発に、さすがに赤髪の人物の顔から笑顔が消えた。
「相変わらず聡いが馬鹿だな、お前。だが今日はあえて乗ってやろう、いい加減こちらもこの問答に飽きてきている。俺は結構お前の事が好きだしな」
しかしそれも一瞬のこと。
今度はどこか人をぞっとさせるような不敵な笑みを浮かべ、低いが猫を撫でるような妙に甘ったるい声で言う。
「そうだ。その通りだ。もしこの世の資源がすべて有限なら仲良しこよしで分け合ってもよかろう。だが、全ての物は有限だ。魔法も、魔法使いも。なら誰にでも無制限にとは行かない。優先順位をつけなければならない」
立派な杖を握ったまま腕組みをし、何の迷いもなく言ってのけた炎の魔法使いにすかさず花の魔法使いが反論する。
「人の命に優劣をつけるなんて傲慢だ。同じ人間のしていいことではない」
「それならお前がしていることこそまさにそうなんじゃないのか。お前の目の前の人間は、なるほど全て抱えられるかもしれない。だが、お前の見えない場所で苦しむ人間達は? 一度救った人間とて時が過ぎれば必ず老いる、そして必ず死に至る。彼らはどうする? また出かけていって救うのか? 全員? お前その一人の身で?」
魔法使い同士はにらみ合った。
丘の上の遺跡には雲一つない。
座り込んだまま、花の魔法使いは声もなく自分の両手に目を下ろした。
子供や女性よりは大きな手。けれど彼の求めるすべてを救うにはあまりに小さな手。
「いい加減やめてしまえ。お前だって自分が一番矛盾していることぐらい、とっくにわかっているのだろう。こちらに来い。我々ならお前を誰にも傷つけさせない。過去も、今も、未来も。俺はお前が見ていられない。間違った方向に全力で突っ走るお前がな」
ここぞとばかり、たたみかけるように炎の魔法使いは続けた。
しかしその言葉を聞いているうち、花の魔法使いの瞳にはっとしたように光が戻る。
静かに立ち上がるぼろきれ用のようなローブをまとった若者に、立派な身なりの若者は剣呑な眼差しを向けた。しかし花の魔法使いが怯むことはない。汗が一筋、額を伝っていく。
「そこをどいてください。病気の子供がいるのでしょう。治しに行きます」
「それは構わん、さすがにそこまで鬼ではない。だが、いい加減真面目に決着をつけろと、こちらもお上がうるさくてなってきていてね」
この男とは今まで何度も交戦したが、男の自称する好意のおかげなのか、彼の所属している組織の上部の人間の指示なのか、結局毎回引き分けになって見逃されてきたような感じがある。
だが、今度こそ本気、というわけなのだろう。先延ばしにしてきた決着を、ここでつけなければならないのかもしれない。
顎まで下りてきた汗がぽたりと音を立てて落下した。それを拭いもせず、瞬きもせず、花の魔法使いは静かに圧を強める赤髪の魔法使いを見つめる。
「何度も言っているでしょう。放っておいて下さい。俺もあなたたちを邪魔しない、あなたたちも俺を邪魔しない。簡単な事じゃないですか」
「それならこちらも何度も言っている。……放っておいてやるには、お前は綺麗すぎるんだよ」
二人の魔法使いがお互いに手にしている杖を握りしめる力を強めた。
一触即発。まさにそう表現するのがふさわしい空気を破ったのは、しかし二人のどちらの魔法でもない。
どどどどど、と地鳴りのような音に、双方がさらに緊張した面持ちを強張らせる。
音が次第に近づくと、とうとう無視できなくなったのか、先に赤い魔法使いの方がそちらを見た。
「――はああああああああ!?」
大口を開け、仰天する声。
それなりの腐れ縁、色んな表情を見てきた相手だが、こんな驚きと恐怖と困惑のない交ぜになったような顔は、初めて見る気がする。
思わず花の魔法使いもつられた。情けない声こそ上げなかったが、彼も思わず汗が引っ込みあんぐり顎から力が抜けた。
丘の斜面を駆け上がってくる白い波。
ヴエエ、ヴエエと断続的に聞こえる不気味で耳障りな音。
近づいてその集団の先頭が羊の顔をしていることに気がつき、ようやくこれが突進する羊の群れなのだと理解する。
いや、理解できても何も理解できない。
なぜ今。どうしてここに。羊の群れが。しかも全力でこちらに向かって走ってくるのか。
「ど、どこから来たこいつらっ――な、何をする、やめろーっ!」
まずは炎の魔法使いが、白い波に飲み込まれる。
呆気にとられすぎて魔法でどうにかする発想すら忘れたのだろう。
しかしそれは花の魔法使いも一緒だ。
目を丸くしている間に、突進してきた羊の一匹にタックルされて宙に浮かび、落下したと思ったら柔らかい感触に埋もれ――そのままどこかに連れて行く。
「お、おのれーっ、花の魔法使いー! 覚えていろー!」
白い群れの中に沈み、もがく手しか見えなくなった炎の魔法使いの捨て台詞がどんどん遠くなる。
(いや、この場合俺は全く悪くないのでは)
なんて突っ込みを思い出したのは大分後、羊の群れに流れで誘拐されたまま、丘を下りきり、草原を駆け抜け、どこかの道に出てきた所だった。
ようやく勢いをゆるめた羊にぽいっと投げ出された魔法使いは、腰をさすりながら起き上がる。
その彼にもう二つ、ぽいぽいっと荷物と杖が投げ出された。
慌ててキャッチした魔法使いの前で、羊たちが一斉にヴエヴエ鳴きながら一つの方向に顔を向ける。
なんとなくそちらに顔を向けると、遠くにだが、確かに人の館らしきものが見えた。
近くの館、というところまで思いついてあっと口を開いた魔法使いに、仕事は終わった! とでも言いたげに高らかに吠えた羊がくるりと尻を向け、また白い群れに戻ってどこぞに消えていく。
魔法使いはぽつんと一人取り残された。
もともと立派とも言えなかった見た目がさらにぼろぼろになっている。
やがて彼は、長い沈黙と瞬きの後、大きな声で笑い出す。腹を抱え、空を仰ぎ、指を目に当てたところで気がついた。
(涙が出るほど笑ったのなんて、いつぶりだろう)
まだ少し震える肩をなだめるように深呼吸した彼の足下で、道ばたの小さな花が風もないのに揺れた。
彼は立ち止まり、少し迷ってから思い直すような顔をすると、そっとしゃがみ込んで花に囁きかける。
「……ありがとう」
愚かな抵抗を続ける若い魔法使いと、それを密かに追いかける若い大精霊の頭上を覆う空は曇りだった。
雲の切れ目だろうか、遠くで一筋光が地上に差し込んでいるのが見える。
しかし、魔法使いがその場を立ち去った後風は強まるばかりで、昼に近づいているというのに、辺りはますます暗くなっていこうとしていた。