花の大精霊編11 波紋
「聖者様……もう行ってしまわれるのですか、聖者様」
ほぼ半日間ずっと患者を見て回ったり合間に村人に役に立つ情報を教えたりをずっと続けていた若者だったが、日が傾き、夜になろうという時間帯になると帰り支度を始める。
症状が重たい怪我人や病人が残っていれば明日も同じ場所にやってくるが、それらの人達は治しきったと判断し、次の場所に旅立つのだ。
表向きは微笑みを浮かべ涼しい顔を保っているが、ローブの下では嫌な汗と穏やかではない動機が出始めている。魔力切れの兆候だ。杖の琥珀色の光も随分と弱まってきている。どっちにしろ今日の活動はこの辺りが限界だ、と彼は考える。
「ずっといてほしいぐらいですが……仕方ない。聖者様を必要としているのはここだけではない。むしろこの村に立ち寄って下さったことだけでもありがたいのだ」
そんな風に言っている村長や、がっくりと肩を落としつつも納得し送り出してくれる様子の村人達に、密かに若者はほっと胸をなで下ろしている。しかしまだ油断はできない。彼は人を癒やしてきた人間だ、人の癒やせないような黒い部分もたくさん身を以て体感している。
過去には彼が一所にとどまらないという評判を知っていて、実力行使でその場にとどめようとしてくる者もいたのだ。花の魔法、人を癒やす魔法を使える人間は希少だし、彼ほどの力を持っていればなおさら。どこかに長居しすぎず移動を続けている理由の一つには、そんな自分を独占しようとする誰かから逃げている、という側面もある。
帰り道に一人で追いかけてきて縋り付いて嘆くのはまだ可愛い方。周りをぐるりと囲まれて農具で穏やかに脅されたこともあるし、別の者と話していることに気を取られていたら後ろから殴りつけられて気絶させられたこともあった。自分に治せないほど症状が進んでいる、あるいはここで無理に延命しても本人の苦しみが長引くだけだと家族に説明した結果、刺されたこともある。
彼の身体のいたる場所にある治しきれずに残った傷は、大体暴れた患者か、恨みを抱いて襲ってきたその関係者が原因だ。
素人相手なら(何をするかわからないという怖さはあるものの)、まだ魔法を使えば大抵なんとかなる。
一番怖いのはやはり同業者。あるいは魔法使いの殺し方を知っているようなその道のプロである。捕縛が目的ならまだ抵抗のしようもあるが、殺そうとしてくる強い相手を自分の信念を曲げずに戦闘不能にしようとするのは毎回至難の業だ。花属性の禁忌魔法を使ってしまえばそれもたやすいかもしれないが……間違いなく、今より追っ手が増える。
若者本人は二度と会いたくない、と念じているのに、執拗に追いかけてくる結果、もはや一部は腐れ縁と化してすらいるのが頭痛の種である。
嫌なことを思い出した、とほんのり頭を押さえている若者に、集まってきた村人達が包みを手渡そうとする。
「お名残惜しいですが、せめてこれだけでも」
「いえ。何もいりません。ただ、あなた方が俺の言ったことを覚えていて、守ってくれればそれで」
「なんと謙虚で無欲な……」
断っても素直に引き下がり、感動して打ち震えているのみ。
この村人、というよりも村長は、随分と楽な種類の人間のようだった。
人知れず自嘲の笑みを浮かべながら、若者はそっと心の中で思う。
(ただの自己満足で、自己防衛。それだけなのに)
「おにーちゃんもういっちゃうのー?」
くいくいと裾を引く気配に若者は破顔し、膝を曲げて視線の高さを合わせる。
「ああ。次の村に行かないと」
「もっとここにいればいいのにー」
「ごめんね。皆、お兄ちゃんの教えた歌はちゃんと覚えてくれたかな?」
「てあらい、うがい、かねつしょりー!」
「そう。大事なことだから忘れないように」
子ども達は素直な分、楽しいと感じれば大人よりずっと彼の言った事を守ってくれるだろう。
できればすぐに飽きられませんように、と思いつつ、彼は集った村人達からもう盛大な見送りを受けて村を去って行く。
「うわあ……!」
後ろでなんだか歓声が上がった気がして、彼は振り返った。
貧相な見た目の村だったはずが、道がみるみる草と花で埋まっていく。
子ども達は喜びを、大人達は驚きを隠しきれないようだ。
「お兄ちゃん、ありがとー!」
「聖者様、近くにお立ち寄りの際はまたいらしてください!」
身に覚えのない感謝を向けられてぽかんと目を丸くした彼だが、くいくいとフードを引っ張られる感触がすると我に返る。ようやく何が起こったのか理解して、小さく呟く。
「……ほどほどにしておけよ」
空気がわずかに揺れた。それはくすくすと笑う少女の忍び笑いに似ていた。
次の行く先、今自分が持っている手持ちの物、途中の道中を思い浮かべながら、今日はどこに泊まろうか、寝るまでに何をしようか考えていた彼だったが、ふとさわさわと彼の周囲の草木が風もないのに勝手に動いたことに気がつく。
誰かに耳元で、ふっと息を吹きかけられたような感覚。
驚いたように首をすくめた若者だったが、この時ははっとしたような表情になってから、ふっと口元をゆるめて呟いた。
「……警告、どうも」
さわさわと草木が揺れる。ちょうど彼の腰から胸の高さまで生えているような、長い草の群れの中にいた。しゃがめば比較的容易に隠れることも可能だろう。
別の考え事に集中していた時ならともかく、彼は花の魔法使い、生命を司る属性を操る男だ。
近くに誰かがいれば、普通の人間より勘づきやすい。
(一人……なら、なんとかなるだろうか。嫌な予感がしたからここ最近特になるべく目立たない場所を選んで活動していたんだが。さて、どこからだろう。心当たりがありすぎる)
村を出る折にふっと頭をよぎったあのイメージはこのことの予兆だったのだろうか、なんて重たい息を吐き出した魔法使いは、顔を上げるとぶんと手に持つ杖を一振りする。
途端、彼の後方数メートル先に突如木の枝が伸び、蔦のように絡み合って壁を作った。
「もし、お待ちください! 聖者様とお見受け致す!」
その向こう側から、慌てたように誰かが立ち上がる音がする。
「そこで立ち止まってください。ご用件をお伺いしましょう」
「どうか、どうか。若様をお救いください! もはやあなた様だけが頼りなのです!」
急ごしらえの木の柵をつかむ手が見え、必死に訴える声が聞こえる。
このパターンか、と思いつつ若者は油断しない。実際言っている言葉が確かなのだとしてもはいそうですかとは言えない案件で、襲撃のために気を引いている可能性も考えられるから絶対に気は抜けない。
「俺の力には限りがあります。夜はお力になれません」
「そこを、そこをなんとか……!」
魔法使いにとっては幾度となく繰り返されてきたやりとりだ。
淡々と、感情を込めずに拒否の言葉を返す。
しかし相手も必死なのだろう、魔法使いが静かに拒絶の意思を示し続けながらもその場にとどまっているのをいいことに、あちらの事情を語り出した。
本妻に子が生まれなかったから引き取られた庶子だとか、周囲に認められるために人の何倍も努力してきただとか、元から身体が弱かったが年々酷くなっていてついに床から起き上がれなくなったとか、もう彼の次は誰に後継を譲るかという話がまとまってきつつあるのが本当に悔しくて仕方ないだとか、藁にも縋る思いで聖者の足取りを追ってきた、近くに来ると聞いてここ数ヶ月探し回っていただとか……。
なんとなく話を切るタイミングを逸し、それなりに同情の余地のありそうな若様とやらの身の上話を全部聞かされた魔法使いが空を見上げると、月が傾いていた。
彼はたっぷりため息を吐いて、ついに根負けした答えを出す。
「……いいでしょう、そこまで仰るのなら。俺は夜は力の回復にあてていますが、朝なら全力を持って人を癒やしましょう。近くに小さな遺跡がありますね? 夜明けにそこでお待ちしています。彼の所に案内して下さい」
「なんと――なんと、ありがたい――!」
頼み込めば折れる相手と思われるのは不本意だが、この熱量だとすげなくしても願いを叶えるまでどこまでも追いかけてきそうで、そうなると彼の旅に見捨てるわけにもいかない非常に迷惑な同行者が一人増えることになるし、万が一その若様とやらがこのまま倒れれば今度は恨みで追いかけられかねず――結局、突っぱね続けるよりさっさと一度応じてなるべく早く問題を片付けた方がよさそうだ、と最終的に判断したのだ。
(……庶子、か)
気配が完全に立ち去ったのを確認してから、ぼんやりしかけた彼は慌ててぶんぶん首を振る。
(馬鹿馬鹿しい。自分と重ねでもしているつもりか?)
はあ、と息を吐く。秋の夜は静かで長い。肌寒さにぶるりと身を震わせた若者は、しばらく呆然と立ち尽くしていたが、やがて明日の準備のために重たい足を再び動かすのだった。




