花の大精霊編10 聖者
杖を固く握りしめ、とんと軽く字面に突くと、先端の石が淡く琥珀色の輝きを放った。
地図を広げることもなく、若者はふらりと歩き出す。意識して歩を進めるのは街道を離れた獣道だ。花の属性を持つ彼の前、水が引いていくように木々がのけぞり、通り過ぎるとまた元通りの鬱蒼とした茂みを作る。呼吸をするように、あるいは脈動するように、琥珀色の光は時折強くなったり弱くなったりを緩やかに繰り返す。
道なき道を歩いて行く彼が向かった先、やがて魔獣避けのための柵や堀が姿を現す。
人里――そう規模の大きくない村だ。
生活の気配が近づいてくると、彼は一度立ち止まり、注意深くローブのフードを被り直す。もともと被っていたから、被り具合を念入りにチェックする、という方が正しいのだろうか。
彼の姿、特に月明かりのような銀髪と、日に焼けることがなく透けるような白色を保ち続ける肌は、他の人間の中にいるとよく目立つ。
フードで隠しておくことは、日光に弱い身体を守るためでもあり、余計な相手から目をつけられないための予防でもある。獣相手にもだが、人間にも彼は油断ができない。一度ふーっと大きく息を吐き出して、それからきりりと顔を澄ませる。
畑の収穫期、すぐにやってくる冬に備えて忙しい気配の漂う中、ふと誰かが顔を上げ、見知らぬ旅人に怪訝そうに眉をひそめる。
村人の服装や体つきを見れば一目でわかる。貧しい村だ。装備や畑の大きさから察するに、男達は近くの山に潜って資源をかき集め、女達は毎日家事と畑番に忙しい――と、いう所だろうか。
お世辞にも外部の人間が立ち寄る理由があるとは言えず、見慣れぬ姿には好奇心より先に警戒心の方が来るようである。
けれど近づくにつれ、その人物がフードを目深に被り、先端に丸く輝く石の嵌まった大きな杖をついて歩いている事に気がつくと、誰かがあんぐり口を開け、手にしていた道具を取り落として言葉を漏らした。
「――聖者様?」
「そんな、まさか。聖者様!?」
「馬鹿、何をしている――皆、聖者様がいらしたぞ!」
若者は一瞬だけ、自分の事を称する単語にぴくりと顔を引きつらせたが――それもすぐに、真顔に戻る。
村人達はこぞって手にしていた道具を放り投げては、家から、畑から飛び出してくる。
密やかなざわめきはどよめきに、そして来訪者の正体をいよいよ確信すると歓声に変わる。
みるみるうちに若者の周りを取り囲んで、両膝を突き頭を垂れた。あるいは求めるように両手をつき出し、期待で目を輝かせる。
「輝く月の光のような頭にフードを被り、大きな魔石の嵌まった杖を携え、隠遁者のような為りで音もなく現れる――あなた様が、無性で人を癒やして回っている、孤高の魔法使い――噂に聞く聖者様で、よろしいのですね!?」
再び、若者は嫌そうに一瞬眉を動かした。
興奮して互いに囁き交わし合っている村人達は気がつかない。
彼は気を取り直すかのように咳払いし、静かな声で答えた。
「そんな風に、呼ばれていることもあります。俺は立ち寄った先で、怪我をしている人や病気の人を治しています。この村に困っている方はいませんか」
「それは、それはもう――!」
「聖者様、聖者様! どうか娘の怪我を治してください! 女の子なのに顔に傷を作って、――」
「聖者様! 爺さまの目を、癒やしてください! どうか、どうか、あなたなら生まれつきの盲人の光も取り戻せると聞いた……!」
「まあ待て、待て! 一斉に押しかけるな、順番だ!」
口々に前に出て訴えようとした人を制したのは、村人をまとめる立場の人間なのだろう。
怒鳴るように言われると、人々はそそくさ長い列を作る。
「大丈夫、一日いますから。慌てないで。ここで争いと怪我人が出ることが、一番悲しい」
「もちろんです、もちろんですとも、聖者様……!」
「焦らずに、無理をせずに。まずは重症の方や、怪我が酷い人から治します。起き上がれない人や、日々の生活に支障が出ている人の所に案内してください」
「ああなんと慈悲深い――」
落ち着いたトーンの言葉に、誰もが手を組み、手を合わせ、拝み出す。
とうの本人はそれを、なんだか複雑そうな顔で見守っている。
魔法使いは普通の人間に比べると数が少ない。その上、治癒の魔法の才能を持つとなるとさらに限られてくる。大抵の治癒魔法使いは、権力者に囲い込まれていて庶民なぞ相手にしないか、相手は選ばないが誰からも高額の取り立てをきっちりする、そういうものだ。慈愛の聖母神を祀る神殿の人間なら、無償か安価で庶民も相手にしてくれるが、絶対数がとても需要に追いつかない上に、保安と信念の理由から神殿を動かない。
つまりこのような辺鄙な村にわざわざやってきて無償で治療をしてくれるような魔法使いは、本来あり得ないということだ。
ところが若者は違った。彼は物心ついてからずっと、どの組織にも所属することなく、ただただ目の前の人間を癒やすことに全力を尽くしてきた。長じてからは活動範囲を広げ、あらゆる場に足を運んで。
――故に、いつからかついた通り名が『聖者』。
噂を耳にした人々は、話半分にそんなのどうせ伝説の類だと聞き流しつつ、どこかで彼がやってくることを待ち望み――いざ遭遇すると、熱狂する。
「ありがとうございます、これで今年の冬が越せます……! ああ本当に、なんとお礼を申していいのやら……!」
若者が手をかざせば、寝たきりの怪我人も途端に目を覚まし、背筋を伸ばして歩き出す。
「あなたは神だ……奇跡だ……」
むせび泣き、ひれ伏すように縋り付いてローブの足下に口づける家族に、魔法使いは寂しげな微笑みを浮かべた。
「そんな大したものではありません。俺もまた、力なき人間の一人です」
「そんなことは――」
「聖者様、聖者様! うちも見てください、お願いします!」
うずうず待っていた後ろの人間がもういいだろうと言うように袖を引くと、すぐに魔法使いはそちらに向かう。
増えていく健康な村人達の姿に、涙混じりの笑顔を浮かべていた村長がふっと顔を曇らせる。
「これだけしていただいて、我々には何も差し上げられるものがございませんが……」
「いりません。ただ、聞いて欲しいお願いがあります」
「なんなりと、聖者様!」
「では、これから生活をしていくにあたって守って欲しいことをいくつかお伝えします。守っていただければ、必ず病人も怪我人も減りますから」
若者は日々身の回りを清潔に保つこと、近くで採れるであろう資源についての採取のコツと注意点、魔獣対策等を、治癒の合間に、あるいは治癒しながらでも伝えていく。
子ども達が追いかけてくると特に念入りに、しゃがみ込んで視線を合わせて優しく言い聞かせる。
彼の一日はこうして忙しく、あっという間に過ぎていくのだった。




