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始まりの日

 何度目をこすってみても、突然変化した景色が変わるわけでもない。


 謎めいた少年の言うとおり、呪文を唱え、願い事を言い終えた時、まばゆい光と突風のようなものが発生した。

 次の瞬間にはもう、森の中だった。当然、ここも見覚えのあるような場所ではない。


「ここ……どこ……?」


 ほとんど無意識に力なく呟くが、返ってくるのは木々が風に揺れる音だけだ。



 しばらくへたりこんだままでいると、やがて暗いだけの森の中の様子が徐々に見えてくるようになった。

 見上げた先、ざわめいて鳴る木々の枝葉の向こうに、ほんのり一面の暗闇が薄くなりかけている空が見える。

 どうやら夜がゆっくりと明けかけてきているらしい。


 そういえば、時間もまったくわからなくなっているのだった。

 今はいつ……何月何日の、何時なのだろう?


 もともと、叔父と叔母に連れられて行った求婚者との顔合わせ――食事会は、夕方辺りから始まる予定だった。

 その後、意識を奪われて閉じ込められた部屋から見た外は暗く、すっかり夜も更けていたように思える。


 となると、自分は夜一杯眠らされていて、明け方より少し前に起きだし、そして今逃げ出した先で朝を迎えている……というところなのだろうか。



 いや、そもそも飛ばされた先のこの場所が、フローラの常識が通じる現実世界なのかすら怪しいのだ。

 ひょっとすると、ここは「彼ら」の領域なのかもしれない。

 だとしたらフローラの常識だけで話をすることはできない。


 少なくとも目をつぶった次の瞬間、全く見知らぬ場所に来ていたなどという現象は、普通の――叔父や叔母の言うところである、「まともな人間」が暮らしている限り、早々起こることはなかった。

 となれば、今フローラが置かれている状況は、人智を越えた奇跡の力――魔法などが起こった結果なのではないかと考えられる。



 フローラ本人に魔法の才能があるとは思えない。

 ただし彼女は、生まれつき「普通の人」には見えない、不思議なものを見ることのできる目を持っていた。

 たぶん、彼女の見ることのできる存在が力を貸してくれたおかげで、あの場から逃げ出すことができたのだと思う。


 幼い頃はそれこそ毎日のように一緒に遊んでいた。

 普通の人間と少しだけ違っていたフローラの不思議な友人たちは、いつも幼い彼女に好意的で、優しくて、時々こちらを困らせるようなことはあっても、おおむね親切だった。


 だから、事件が起きるその日まで、いくら大人に言いつけられていても、本質的なところでわかっていなかったのだ。

 人とは違う存在を、なぜ人が恐れるのか――その理由を、その意味を。



 自分のしでかしたことをはっきりと自覚すると、すうっと体が冷えていく。

 あの恐ろしい日以来、二度と手を取るまいと誓っていた存在――彼女は確かに、それにもう一度頼ってしまったのだ。

 切り取られた髪と異常な状況は、日頃の禁忌を軽々と超越させた。


 しかし一度危機状況から抜け出してみると――今の状況もけして安全とは言い切れないが、少なくとも前の空間で感じていた体調不良は大分ましになっていた――恐怖がじわじわと染みてくる。


 どれほど身を縮こまらせてみても、彼女は一人のまま、森は森のまま、何も変わらない。

 強いて言うなら、日が上っているのだろう、辺りがどんどん明るくなって、より見やすくなってきている。


 ……何もしないで突っ立っているのが、ひどく無意味なことのように思えてきた。

 いい加減、座り込んでくよくよしているだけでなく、辺りの様子をもっと探るべく立ち上がろうとしてみる。


 すると慣れない靴でよろめきかけてしまった。

 少し迷ってから、思い切って二つとも脱いでしまい、両手に持つ。


 おそるおそる木の葉の散らばる地面の上に立ってみるが、痛くてできないということはなさそうだ。

 足に傷がつかないように探り探り、注意しつつゆっくり歩き出してみる。

 足から伝わる感触はけして柔らかいだけとはいかなかったが、時折下の地面の様子を見ながらなら、靴がなくても可能そうだった。


 落ち着くために深呼吸してから、もう一度ぐるりと辺りを見回してみる。


(そういえば、光に包まれる直前、誰かが側にいたような気がしたのだけど……?)


 靴を自分がいた最初の場所に置いて目印にしてから、少し当たりを歩き回る。

 特に誰かの気配もなければ、フローラが歩くことに反応して何かが出てくる様子もない。


(どうしよう……誰もいない、みたい……だけど)


 一難去ってまた一難とは、このことだろうか。

 危険な求婚者の魔の手から逃れられたらしくても、突然森の中に一人きりで放り出されて、この後どうすればいいのだろう? 途方に暮れてしまう。


 フローラの幼い頃はあちこちを転々としており、両親が事故死してからは叔父叔母の家がある町で暮らしていた。

 正直、森に慣れているとは言えない。


 まずは人――ないし、話のできる存在を探すべきだろうか?

 だが、今がたまたま安全なだけで、実は魔獣の巣のど真ん中だった……とかいうことなら、音を立てすぎてこちらの存在や位置の手がかりを与えてしまうのはよくないことに思える。

 逆に、大きな音を立てることで逆に自分の存在をアピールし、獣や魔獣を鉢合わせないようにするという話も、聞いたことがあるが……。


(しっかりするのよ、わたし! 何もしなければ何も変わらないのは、今までのこと。わたしはもう、変わることを選んだはずでしょう。なら、これからも、怯えてばかりでは、いけないわ……)


 また、ぐるぐると悪い方向に落ちて停滞しそうになった思考回路を振り切るように、首を振り、両頬を叩いてみる。


(とにかく。これから何をするのにも、このままじゃ、いけないわ。望みは叶えられ、あの怖い人からは逃げられた。一応、今の所の安全は確保されている。けれどもし、有害な生き物がこの森にいなかったとしても、このまま話をできる存在に会えないなら……水よ。そう、まずは水の確保が必要だわ)


 一番大事なことは何か。そのために自分はどう行動するべきか。

 フローラは自分を落ち着かせるように意識してゆっくり深呼吸を繰り返しながら、考える。


(水場……理想は、川かしら。水質がわからなくても、下っていけば森を抜けたり、人里にたどりつけるかもしれないもの。それに、水場で静かに待っているだけでも、生き物がやってくる可能性は高いと思う。それが人にしろ、そうでないにしろ……ここで座り込んだままよりは、きっとずっとましなはずよ)


 浮かんだ考えを鼓舞するように、強くうなずき、靴を拾い上げて歩き出す。


(勇気を出して、逃げてきたのだもの。……しっかりしなくちゃ)



 木々の間から降り注ぐ日の光を頼りに進むフローラは、辺りの音に注意しながら、歩きにくい花嫁衣装を引きずって足を進めた。

 硬い靴のヒールを使って、木々に謝りながら小さなひっかき傷を作り、一応通った道がわかるよう、目印にしておく。


 川のせせらぎの音を聞くために声を出したら邪魔になると考えていたが、本当は何者かを呼び寄せてしまうのが恐ろしかったのだ。

 特に、もう一度出会うかもしれない人ならざるものの可能性がちらつくと、頭に血が上りきった状態から多少落ち着いてしまった今、どうしても踏ん切りがつかない。



 十年近く、ずっと避けてきた相手なのだ。昔経験した怖い思い出も、なお渋る思いを強くさせる。


(でも、どうしても、いざとなったら……選択肢にいれないと。あの呪文をもう一度唱えたら、応じてくれるかしら?)



 どんよりしそうになっては頭を振り、歩いては耳を澄まし、木に目印をつけ、また足下に注意しながら歩を進める。


 いったいどれほど長い間続けていただろうか?

 誰にも会わないし、何も見ない。ただただひたすら、同じような景色が続く。

 それでも懸命に歩き続けてきたフローラだったが、ふと目の先に見つけたものに足を止める。


「……ああ、やっぱり。どうしよう」


 わかりにくいが、よく見て見ると木にひっかき傷のようなものがついている。

 近づいて確かめてみて、それは自分が靴を使ってつけた傷だとわかった。

 まっすぐ歩き続けてきたつもりだったのに、いつの間にか元の場所に戻ってきてしまったようだ。


 ――完全に迷子である。


 一気に気が抜けてしまうと、意識しないようにしていた疲れがどっと押し寄せる。


(そうだわ……ちょうど、休憩するのも、いいかも。ずっと、歩き続けていたのだもの……)


 木々の間から見える日は、正確な位置こそわからないものの、大分高い場所までいっているように思える。

 それだけの時間歩いてたどり着いたのが最初の地点というところに、自分の間抜けっぷりを痛感して泣きそうになる。


(でも、これも木に目印をつけていなかったら、そもそも迷っていたことにも気がつけなかったのだし……最悪ではない、はず)


 悪い方悪い方ばかり考えるのは染みついた癖だ。気がつく度にはっとして、なんとか気を取り直そうとする。


(次は、目印がついていない場所に、行けばいいのだわ……)


 痛む足をさすり、なるべく前向きになろうとしているフローラの耳が、ふと異音をとらえた。



「……なに?」


 心臓が高鳴る。

 期待と不安を胸に、彼女が耳を澄ませてみると、音はどんどん近づいてくるようだった。

 すると気配が近づいてくるのにつれて、なぜか期待がしぼんで不安の方が大きくなっていく。


(……なんだろう。嫌な予感が、する)


 疲労のせいか、元が消極的な性格だからか、とにかく最初の決断を下すまでには時間がかかってしまった。

 慌てて立ち上がるのとほとんど同時に、木々の間から音の正体は姿を現す。


「おっ、狼!?」


 物音を上げている相手がはっきり見えた途端、フローラの血相が変わる。

 うなり声を上げながら姿を現したのは、犬のような四つ足の生物だ。しかも一匹だけでなく、次々と飛び出してくる。


 ずらりと並び、フローラを取り囲むように位置取った連中が、ぱっと口を開け――彼女に向かって、吠えかかった。


「いやああああああああ!」


 フローラは咄嗟に叫び、身を翻した。

 冷静に考えれば、そちらの方がよっぽど相手を刺激してしまってまずいのだが、本能的な恐怖が頭を支配してしまうと、もう止まらない。


 開いた口の隙間から、だらりと垂れた舌、鋭い牙、それにぎらりと一斉に発光する目。

 しかも光る目は両目だけでなく、額の辺りにもあるようだった。


 ――魔獣。

 ――逃げなきゃ。


 フローラがまともに意識できていた言葉はそのぐらいである。

 ただでさえ見知らぬ場所でわけもわからずさまよい、徒労感と心細さをどっと覚えていた矢先のこと、いささか刺激が強すぎたのだ。



 慣れないドレスを引きずって走る彼女を、三つ目の狼達は追い立て、はやすように吠え声を上げる。

 怖くて逃げることにいっぱいいっぱいのフローラには、彼らが明らかに鈍足の彼女にいつまで経っても追いつききらないことや、怖がって大げさな反応を示すとますます喜んでいることに考えが至らない。


 追いかけっこは実時間にするとかなり短かった。

 靴もなく不慣れな森の中を、その前に散々歩き回っていた状態で走りきれるはずもない。


 がくり、とまず膝から下が抜けた。

 あっと思う間にどしゃっと体が投げ出される。

 びりっとドレスのどこかが裂ける音がした。


 狼たちはフローラが止まると次々に飛びかかり、服の裾をつかんでぐいぐい引っ張った。

 ……その割に、彼女の体に歯を立てるものは一つもないのだが、追われてパニックになっている方が気がつけるはずもなく。


「やめて、やめて……!」


 泣きじゃくりながら逃げていたから、顔面はもうぐしゃぐしゃだ。自分を庇うように手をかざす。

 それもまもなく、鋭い牙たちに無残に食い荒らされる――。



 暴力的な想像は、幸いにも実現しなかった。

 もう駄目だと思ったその瞬間、狼たちがぱっと顔を上げたかと思うと、素早く去っていってしまったからだ。


 ぽかん、と取り残された方は呆けかけるが、彼らが走って行ったのと逆方向に顔を向け、またも心臓が跳ね上がるのを感じる。



 森の奥からやってくるそれは、今度こそ人間の形をしている。

 だが、まとう空気がやはり何か違う。

 何と言えばいいだろう? オーラ、エネルギー……とにかく何かこう、強い、強い力を感じる。



 狼たちが逃げたのは、おそらくこの強大な気配を感じてのことだろう。

 獣は上下関係に敏感だ。勝てない相手に喧嘩をふっかけるような馬鹿はしない。



 ……災難から逃げたと思ったら、また別の災難がやってくる。

 それもより大きく、険悪になって。

 まるで逃れられない負の連鎖のようだ。



 フードの人物が立ち止まる。顔は影で見えない。

 その片手に鋭いナイフのようなものを見つけた瞬間、フローラはついに限界を覚え、ふっと意識が遠のくのを感じた。


(ああ……やっぱりわたしって……)


 がくん。体と意識が落ちる。

 優しく受け止められたことには、気がつかなかった。






 前に気絶したとき、フローラの覚醒を誘ったのは底冷えのする冷気と悪寒だった。

 今度のきっかけになったものは、その逆――自分以外の熱を感じたことだった。


(……熱はないようだ)


 温かく、柔らかい何かが額を覆う気配と、頭の奥に響く声。

 それが離れていきそうになった瞬間、行かないで、と咄嗟に思った。

 同時に口から言葉ももれていたのかもしれない。


 ぴくっと薄目を開けたフローラの上で大きな手が反応し、やがてまたおずおずと、注意深く下りてきて頬に指先が触れる。


 優しい温もりだ。

 なんだかとても安心する。


 とろとろと、そのまま眠りのなかに戻っていきそうになるのを引き止めたのは、また頭の中に響いてきた若い男の声だ。


(起きているのか?)


 まどろみの中ではあったが、答えなければと思ったのが半分。

 不思議な心地よさをもたらす声の主が気になったのが、もう半分。


 誘惑を断ち切り、フローラはゆっくりとまぶたを上げた。


 最初に目に入ってきたのは、こちらをじっと見下ろす端正な青年の顔だった。

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