花の大精霊編6 魔法
「魔法使い……わたしたちが見える人?」
少女は囁くような声でその単語を繰り返した。問いかけに、同じく静かな声で少年も返す。
「いや。見える人間ならこの距離で必ずぼくらに気がつく。ぼくたちの方を見ていないし、目的地も違うみたいだよ」
実際、空の大精霊によって犬の姿に変じた二匹が吠えているが、若者はこちらに振り向こうともしない。
注意深く行動を見守りながら空の大精霊が言うと、花の大精霊は兄をつつきながら問いを向ける。
「ねえ、お兄様。あの人、わたしたちと同じように、奇跡を起こすことができるんでしょう? どうして、わたしと同じ事ができるのに、わたしの姿は見えないの? 昔は魔法を使える人間には皆、精霊が見えていたのでしょう? どうして今は、そうじゃないの?」
「かつて、魔法は人間が精霊に祈る力だった。人が祈り、精霊が応える。そうやって魔法は起きた。全ての魔法使いは誰かしら精霊と契約していた。……だけど、そのうちだんだんおかしくなっていった」
「何が? どうして?」
「ぼくたち精霊には欲がない。ぼくたちはただあるだけ。ただ存在するだけ。したいことなんてない。することは天が知っている。けれど人間は違う。人間は天の意思なんて知らないし、たとえ知っても自分に都合がいい世界にしようとする。でも人間はそれでいいんだ、そういう生き物だから。問題は精霊。精霊が人に染まるのはよくないことだった。……悪霊になってしまうから」
少年は一呼吸置いて、隣の彼女にも聞こえないほどのごくごく小さな呟きを噛み殺す。
「好きなだけならまだ大丈夫。でも、相手から何かを求めるようになったら、相手に自分と同じものを返して欲しいと思うまでになってしまったら……それはもう精霊とは言えないんだ」
「ねえお兄様。それじゃ今の魔法使いは、どうやって魔法を使うの? 精霊はもう頼れなくなってしまったんでしょう?」
兄の言葉を聞き取れなかったのだろう妹が暢気に無邪気に質問をすると、彼はぶらりと木の枝の上で足を揺らしてから応じる。
「だから今の魔法使いは、精霊の代わりに自分の魔力で魔法を使う。まあ、余剰な生命力とでも言うのかな。君に彼らが眩しく見えるのは、きっとそういうことが理由だろう」
「そうだったのね……あら、本当に全然見えていないみたい。こんなに近くにいるのに」
「他の人間と一緒だよ」
「でも、魔法使いなんだもの……もう少しわかってくれてもいいのに」
その間に、若者は二人のいる木の下を通り過ぎて、どこかへ向かって歩いて行こうとする。
木々の間から月明かりが照らす彼の動きは、もたついていて疲労感がにじみ出ている。
その時、がさり、と唐突に木の枝が大きな音を立てた。
若者は肩を跳ねさせ、ぱっと振り返って身構えた。
「誰か、いるのか……?」
落ち着いた低い声を出し、目を鋭くさせてきょろきょろと周りを見回す彼の上では、枝を思いっきり揺らした少女と、そんな彼女を瞬時に取り押さえた少年の攻防が繰り広げられている。
「ちょっと驚かせるだけ、ちょっとだけだから!」
「魔力の強い魔法使いは大体勘が鋭いから、こちらの存在ぐらいには気がつく。見えないと思って侮りすぎないことだ。それに彼は……そういうことをするのはやめときなさい」
「どうして?」
「どうしても。君は花の大精霊だから体感しようがないだろうけど、夜の森って人間にとって滅茶苦茶ムーディーな空間なんだからね。恐怖方向に。ほら見なさい、あんなに怯えさせて。可哀想でしょ」
「そうなの?」
「そうなの」
「そうなんだ! でも、ちょっとぐらい……」
「やめなさいって言ってるでしょうに」
むー、と頬を膨らませた花の大精霊だが、しばらく周りを警戒していた若者が息を吐き出し、再びどこかに向かって歩き出すのを見るとそちらに興味が戻る。
「あの人、強いの?」
「結構ね」
「お兄様は見てわかるの?」
「逆に君はわからないのか?」
「だってなんだか元気がなさそうだし、びくびくしているし……」
同じ大精霊なのに、と暗に呆れたような顔をされた花の大精霊は、ますますむくれ顔を膨らませた。
「でも、わたしにもね。あの人がなんだか、他の人より輝いて見える気がするわ。ただ、不思議なの。だって今まで見てきたああいう輝きを持つ人達は、皆人の輪の中心にいたんですもの。どうしてあの人はこんな場所で一人なの?」
空の大精霊は言葉で答えることはなく、ただ肩をすくめてみせた。
が、花の大精霊が枝から下りようとする動きを取ると、素早く制した。
「やめときなさい。あまり深入りしていい相手じゃないよ」
「どうして?」
「それは……」
珍しく、少年は言葉に窮したらしい。どう説明したものか迷って口ごもっている間に、少女は軽やかに決断してしまった。
「さっきから変なお兄様。いいもん、わたし、追いかけてみる! お兄様はそこで待ってて構わないわよ!」
木の上から飛び降りた少女は、若者の後を追って走り出す。お供達も一緒にだ。
その背に呼びかけた空の大精霊は、まあ言って聞く相手でもなし、といかにも気乗りしない様子のまま、後を追いかける。
若い魔法使いは森の中を杖をついて歩いている。
しばらくニコニコした顔で彼の後を追いかけ、時折音を鳴らして振り返らせては喜んでいた花の大精霊だったが、やがて眉をひそめ、後からゆっくりと歩いてきている兄の方に戻ってくる。
「怪我をしているの?」
「どうだろうね。具合が悪いのは確かだろう」
「……お兄様、何かわかっていて、わたしに隠していることがあるでしょう?」
「別に隠しているってわけでもないけど。知らないなら、気づかないならそのままでいい程度に思っているだけさ」
「それを隠してるって言うの!」
「駄々こねても教えないよ。……自分で気がつきなさい」
「いーじーわーるー! 何よ何よ、さっきちょっと言いかけてたじゃない、ちょっと教えるかどうか迷ってたじゃない!」
「検討した末にやっぱやめようって結論になったんじゃないか」
「いーけーずー!」
「やめなさいって」
二人(とその周りをぐるぐる走って吠えている犬二匹)がわいわいがやがやとやりとりを交わしている間に、若者は歩を進め、やがて足を止める。
どうやら水場を探していたらしい。
川場にたどり着くと、彼はどっと膝を突き、両手で水をすくって口に運ぶ。
その様子を少し離れた場所から見つめながら、花の大精霊は首を傾げる。
「あの人、喉が渇いていたのかしら?」
「だろうね」
「魔法使いなのに?」
「自分で水を出せるのは相当力がある魔法使いかつ水属性にかなり強い適性がないとだから、彼はそうではなかったんじゃないかな」
「違うわ、お兄様。わたし、そういうことを言っているんじゃないの。そうじゃなくて……」
少女の形をしている大精霊は眉根を寄せた。
「魔法使いって、人の真ん中にいるものだわ。敬われ、慕われ、頼りにされる。それが魔法使いってものでしょう? なのに、こんな誰もいない森奥に、杖を突かなければ歩くのが辛いほどの身体になって、川を見たらようやく飲み物にありつけた、みたいな事をして。そういうのが、おかしいって言っているの」
彼女の見守る先では、フードを外した若者が今度は自分の顔をバシャバシャと派手な音を立てながら洗い、ほっと息を吐いている。
端整な顔立ちをしているが、離れていてもやつれて顔色の悪い様子が見て取れた。
天を振り仰ぐように空を見上げると、銀色の髪が月明かりにきらきらと輝いた。花の大精霊は少しの間、その光景に見とれる。
「……お兄様? 行ってしまうの?」
空の大精霊が立ち去ろうとする気配を感じて、少女は若者から兄に視線を移す。
「言っているでしょう、深入りしていい相手じゃない。君もほどほどにするんだね」
――けれどその、最近の彼にしてはいつになく硬い態度が。
より一層、無邪気な少女の形の精霊の好奇心に、火をつけたのだった。