花の大精霊編4 兄と妹
少年はしばらくの間、彼にしては珍しいことに、あんぐり口を開けて固まっていた。
少女の方は、威勢良く人に向かって指を突き立てた後、得意げに腰に手を当ててふんぞり返るように突っ立っている。
陽射しが暖かに降り注ぐ。鳥が鳴いている。風が柔らかに流れる。どこかから花草の香りがふわりと漂う。
遠くで鐘が鳴った。休憩の終わりを告げる音に、集まっていた人の群れがまたぞろぞろとそれぞれの持ち場に向かって帰っていく。
ゆったり流れていた空気がぴりりと引き締まるのに釣られるように、少年もまた硬直から解放された。
「何、それ」
眉根を寄せている空の大精霊に向かって、ふん、と花の大精霊はわざとらしく鼻を鳴らしてみせる。
「お兄様。人間がね、親しい人のことをそう言うんですって。だからあなたはわたしのお兄様。わたしはあなたの妹。ね? 空の大精霊や花の大精霊なんて仰々しくて勝手な名前より、こっちの方がずっとしっくり来ると思わない?」
「全然、全く。というか、兄っていうのは親しい人とかじゃなくて家族だから。血のつながりのある相手のことを示す言葉だから。同じ父親と母親から生まれた年上の男のことをそう言うんだよ、ちゃんとわかってる?」
自分の方が先に生まれたのだから物知りなのだとでも言いたげな少年の口調に、少女はいーっと言う形に口の両端を指で引っ張って……威嚇しているのだろうか、あれは。
いつの間にか引き寄せられるように両手を顔の横まで上げかけていた空の大精霊は、そこで我に返ったのだろう、静かに音もなく両手を元に戻す。
花の大精霊が何かとても言いたそうにしているのを真顔の圧で抑えながら、少年は何も起こらなかった、というような体で口を開く。
「……何にせよ。どうしてぼくがお兄様? 全く理解できないね」
「だって、わたしが八番目の大精霊で、あなたが七番目の大精霊でしょう? なら、あなたがお兄様、わたしが妹。ね? ぴったりでしょ?」
「ぼくの方が年上だってことは動かしようのない事実として、それなら君には炎やら水やらぼくの他に六人の兄がいるってことになるんじゃないの?」
「あの人達は……一定周期で代替わりしちゃうじゃない。あなたはずっと変わらないわ、あなた自身が言っていたこと。それと、わたしが仲良くしたいのはあなたなのよ! だからあなたがお兄様。あなただけがお兄様。他は今まで通り大精霊」
「うんわかった、君の頭がお花畑なのは元からだった。いいよそれ以上解説しなくても、ぼくは理解を諦めるから。ところで兄には男という意味が、妹には女という意味が含まれるわけだけど、その辺はどうしてその言葉のチョイスにしたのさ」
「だってあなたいつも男の格好してるじゃない? わたしはいつも女の格好をしているでしょ? だからそのまま」
空の大精霊は面倒くさそうな顔をして屋根から立ち上がった。
春の忙しさの音をまだそよがせている村を背に、またぞろどこかへ当てもなくフラフラと歩み出した彼の後ろを、かしましい少女が追いかけていく。
少年が足を止めると少女もまた横で止まり、あれこれと質問攻めにする。彼はそれに、答えたり答えなかったりする。
少年は勝手な同行者を邪魔に感じている、という態度を隠しもしないが、彼女が何か別のものにふらっと寄り道すると立ち止まり、つまらなそうな顔のまま待っている。
それで彼女が戻ってくると、追いつかれる前にくるりと踵を返して歩き出す。
奇妙な距離感のまま、けれど二人はずっと二人で行動している。
少し前から変わらない光景だが、一つ違うのは少女が執拗に少年にお兄様、と呼びかけるようになったことだ。
少年は何度か口を開くが、言うだけ無駄だとでも言うように頭を振って黙り、先に進む。
少女は少年の無視にめげない。ずっとずっと、呼び続ける。
「もうぼくの方もすっかり聞き飽きているわけだけどさ」
雲一つない青空の下、丘の上でふらふらと足を揺らしながら、少年は同じようにしている隣の少女に、話しかけているような独り言のような声を上げる。
「どうして数ある選択肢の中で、そこまでぼくにこだわるわけ? 少し真面目な話をするとだね、ちょっとした興味関心ぐらいなら許されるけど、何かへの度を超えた固執って、精霊が悪霊になる兆候だったりもするわけでさ。ぼくは一応先輩として、君の今後をたまに心配したりもするんだよ。君はまた大精霊としては大分特殊な方だし、結構何をしても許されている方ではあるけど。ぼくが原因で君が悪霊化するなんて笑い話にもならないじゃないか」
少女は揺らしていた足を止めて、少年の顔に、そしてその見ている先に、順に視線を向ける。
「不思議なの……そうよ、精霊は何かに執着することはない。それなのにあなたは、他の精霊と違ってずっと追っているように見えるの」
「追っている? 何を」
「……何なのかしら? わたしはずっと、それこそが知りたいのかもしれないわ」
彼らの見下ろす丘の下では、若い羊飼いが草むらに寝っ転がって大きな欠伸をしている。
羊の動く音と気まぐれな鳴き声以外、静寂に包まれている空間を、ふと遠くから村娘の声が割った。
羊飼いは飛び起きて、ちぎれんばかりに手を振る。
その様子を共にじっと見守りながら、花の大精霊は続けた。
「それにね。わたしたちが見ているものは同じものなんじゃないかしら。だからわたし、あなたと仲良くできるし、あなたが一番、精霊の中でわたしに近いと思っている」
「……ぼくが、ずっと人間に強い興味を持ちながら、大精霊でいられるのは――」
視線の先では村娘が羊飼いに何かの包みを渡していた。
けれど若い二人は、渡し際にお互いの手を取り合ったまま、頬を赤く染めて何か小声で囁き交わし合っている。
羊の鳴き声が時折響く。
空の大精霊が言葉を切っても、花の大精霊は邪魔をしない。
やがて羊の群れの中で、人間達の影がぴったりと寄り添う。
そっと少年は膝の上で組んでいる両手に目を下ろした。
「――ぼくという存在が。いつでもそれを台無しにできることを、けして忘れることがないからだよ」
「また、それ?」
「大事なことだから。ぼくはあらゆることをいくらでもどうにでもできるけど、どうもしようと思っていない。ぼくがどうにかするときは、ぼくではない意思によらねばならない。そういうのが、大精霊なんだよ」
囁くように大気を渡る少年の言葉を、少女の言葉が追いかけた。
「わからない。わからないわ。わたしのことも、あなたのことも。でも、やっぱりあなたは怖くないってことだけはわかった」
問いかけるような少年の視線に琥珀色の目がふっとゆるむ。
「……理由? 教えてあげない。いつもあなたがわたしに謎かけみたいなことをするんだもの、わたしだってお返しよ」
草むらが揺れて、寄り添う二人の男女と共に、羊の群れがゆっくりと遠ざかっていく。
「生意気な奴だ」
「妹ですもの。そういうものよ」
空気をわずかに揺らす波は、誰かの思わず笑いを漏らした音に似ていたけれど、結局はっきりとはわからない。
少女はやがて機嫌良さそうに鼻歌を口ずさみ始めた。
少年は邪魔をすることもなく、ただその美しい旋律が終わるまで耳を傾けていた。




