寝起きリターンズ
嵐の夜前後あたり。
朝のすがすがしい空気の中、神妙な顔つきで調合室の入り口に立ったフローラは、その辺に転がっていた木の棒――記憶が正しければ魔法使いの調合道具の一つ――を手に取り、ごくりとつばを飲み込んだ。
「魔法使い様……非常に恐縮ですが、のっぴきならない事情ですゆえ、一時的にお借りさせていただきます……」
どうせ聞こえていないのだから別に断りを入れる必要はないのだが、毎回丁寧に声かけしているフローラである。
重々しくテンプレ化されてきた口上を述べ終えると、もう大分見慣れてきた床の芋虫に向かって棒を振り上げた。
「魔法使い様! 起きてください! 朝ですよ!」
……振り上げ方の威勢がよかった割に、つつく瞬間は優しい。たぶん最初の動作は、勢いをつけると言うより気合いを入れているだけなのだろう。
芋虫は刺激されるともぞもぞ気持ちの悪い動きをし、がばっと顔を出した。
今日も今日とて前衛的な前髪をしている。
ちなみに共同生活をしていて確定したが、彼は基本的に櫛で髪を梳かすことはあっても積極的にセッティングをすることはない。
つまり一連の日替わり前髪シリーズは全部寝癖である。
(今日はちょうど左右対称で、角みたい……)
などとフローラがほっこりしていると、物言いたげな深緑の目とぱちっと視線が合う。
「…………」
(こっ……これはいかにも、快眠を打破されて最高に不機嫌ですと言いたそうな顔!)
基本的に魔法使いは優しく紳士的だが、寝起きだけは毎回荒んだ顔になるのだ。美形が黙って真顔になると、それだけで結構迫力がある。
「おっ……おはようござい、ます……?」
それでも根気よく声をかけてみれば、諦めたようにのろのろ起き上がるあたり、やっぱり根が親切だと思う。あるいは、最初に寝ぼけて同居人を抱き枕にしてしまったことにふかーく罪悪感を持っているのか。
気だるげに頭を押さえている彼に上着をそっと渡すと、いかにも億劫そうな顔で受け取る。彼が大きく息を吐き出しながらボタンを外し始めたので、フローラは慌てて調合室を飛び出した。
(でも、雰囲気の違う魔法使い様も、これはこれで……ってわたしは何を考えているの!?)
なにやらあらぬ方向に思考が行きかけ、一人で盛り上がっている少女を放って、魔法使いは着替えが終わると調合室を出て行き、水場の方に向かう。
たぶん、トイレに行って手と顔を洗った後、うがいでもするのだろう。大体そうやって身支度を整える間に徐々に覚醒するのだと、フローラにもだんだんわかってきている。
(今度、わたしもみそがなくちゃ)
寝ぼけているだけの青年に対し、最近油断すると沸いてきそうになる下劣な思いを、少女は頭を振って追い払おうとする。
さて、着替え終わって動き始めたということはまもなく自分を取り戻す頃合いだろう、と朝の食卓の用意を始めると、案の定魔法使いが足取りおぼつかなく帰ってくるのが見えた。
――が、いつもはおはようと石版を向けて寄ってくるのに、今日は何故かそのまま調合室に戻っていく。
(あ、あれっ?)
慌てて後を追いかけたフローラが目にしたのは、きっちり自分で身だしなみを整えておいて、その上で、再び自ら布団の虫に戻ろうとする青年の奇行であった。
「……魔法使い様!?」
今の完全に起きる流れでどうして!? と驚愕しているフローラに、もう既にとろんと目を閉じかけている彼が夢見心地にようやく石版を返してくる。
『あと、5分……』
「またそれですか!? わたし知ってますからね、あなたの寝起きのあと5分は信じちゃいけないって!」
思わず半ば叫んでしまったフローラだが、それでも全く動じずなお寝ようとしている青年である。駄目だ、これは寝る流れだ。今朝はよっぽど眠いのかもしれない。
しかし、この頭がよくて魔法が使えて奇跡みたいなことまで起こせるくせに、自分の世話を見るとなると清潔感を保つことにしかほぼ努力しない男を監督するのも、たぶん家事担当を任された少女の業務の一つなのである。
……違うのかもしれないが、とにかくこのまま寝られるのは困る。5分と言ってあと2時間起き出さないかもしれないのだ。
どうしたものか、と思案したフローラは、意識してか無意識にか、嘆息がてらつぶやくように声を上げる。
「……キッシュ、冷めてしまいますよ」
その瞬間。
調合室からドタバタ音がしたかと思うと、黒い塊が飛び出してくる。
『おはよう、ニンフェ殿。いい朝だな』
「おっ、おはようございますっ……!?」
『今日の朝ご飯も美味しそうだ!』
「…………」
先ほどまでのエネルギー切れ状態はどこへやら、ピンピンしてさわやかな魔法使いはあっという間に食卓に座ると、引きつった微笑みを浮かべているフローラに首をかしげる。
『どうかしたか?』
「いっ、いいえっ……! い、いただきましょうか……!」
彼女は慌てて答えると、軽く食事の前の祈りを始める。
一緒に祈りのポーズをしてから幸せそうにがっつく青年に、それでいいのかという思いとほほえましい思いが混じり合う。
彼女は困ったような楽しそうな笑みを浮かべるだけにとどめるのだったが、寝起きは記憶が飛ぶ魔法使いがその理由を知ることはなかった。




