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花嫁逃亡4

「う……」


 うめき声を上げて身を起こそうとすると、硬い感触に全身がきしんだ。


 最初に自覚したのは気持ち悪さだ。

 酷く寝覚めが悪い。何か恐ろしい夢を見ていた気もするが、定かではない。


 口元に手をやってうつむくが、なんとかそのままとどまる。

 我慢しているとせり上がってきそうな感覚は徐々に下がって落ち着いていった。

 口を開けて深く息を吸い込もうとすると、のどの奥に異物感を――苦みのようなものを、感じる。

 それがおそらく、気持ち悪さの最たる原因だった。


 次に感じたのは寒さだ。

 ガチガチと耳障りに鳴る音が、自分の歯の当たる音だと気がつく。

 けして薄着をしていたわけでもないし、服が寒いというわけではないはずなのだが……。



 ぼやける視界が戻ると、あたり一面が白かった。

 緩慢な思考で、それが自分を覆う薄いヴェールなのだと気がつくのには、多少時間がかかる。

 なんとなく見下ろした先、自分の様子の異常を発見したところで、一気に覚醒した。


 フローラはお見合い用に赤いドレスをまとっていたはずだ。それが見覚えのない、立派な白いドレスに替わっていた。靴も履いたことのない透明なガラス製のものになっている。

 同じところがあるとしたら、それこそコルセットのきつさぐらいしかない。


(一体、何が……)


 倒れていた床から起き上がろうとして、慣れないガラスの靴に一度転びかけた。

 経験のない高いヒールだ、ひっくり返りそうになる。

 ヴェールが邪魔でこのままではろくに視界も確保できないので、もたつきながらもなんとかめくり上げて頭の後ろに流す。


 服が見たこともないものに変わっているのなら、まわりのものにもまったく覚えがない。

 殺風景な小部屋の中には、木製の椅子と机だけ置いてあって、立ち上がるときには椅子を支えに使った。

 もう一度慎重に立ち上がってから辺りを見回す。


 扉は一つ。

 その向かい側には窓が一つ。外は暗くて何も見えない。

 室内には蝋燭が一つだけ灯してあって、心もとない光源となっている。

 震えながらゆっくり歩き、扉までたどり着いてドアノブを回そうとすると、ガタガタとむなしい音だけが室内に響く。


 ふらふら椅子に戻ってきて、倒れ込むように座ってから、理解した。



 たぶん、ここはもう、あの人の――ディアーブル伯爵の場所なのだ。

 どこかに行くまでの控え室かもしれないが、フローラを閉じ込める牢獄に等しい。

 自分はおそらく何らかの方法で気絶させられ、ここまで連れてこられた。

 ――あの人はフローラと式を挙げると言っていた。すぐにでも。フローラの渋る様子など、まったくおかまいなしに。

 だとすると式場か……下手をするともう自分の知らない間に挙式まで済んでいて、彼の城なのかもしれない。

 想像が膨らめば膨らむほど、体が冷たくなる一方だ。



 見上げた先、窓に鉄格子のような縦線を見つけると、さらに気分は暗くなる。



 大声を上げて助けを呼ぶという選択肢ははばかられた。

 何しろ、痛いほどの静寂の中――人の気配が自分以外にまったく感じられない。


 その上、おそらくフローラをこの状況に追い込んだのであろう相手が最大の問題だった。

 どういう仕組みかさっぱりわからないが、フローラを手をかざしただけで気絶させるような男であり、なおかつ叔父叔母や周囲の人のあの尋常でない様子――。


 恐ろしい。自分が一つ呼吸をすること、鼓動の音すらうるさく聞こえて、今にもあの扉を開けて彼が待ちかねたようにやってくるのではないかと、それに対して自分は何もできることがない。

 もう一度扉を確かめに行くのも、窓の様子を見に行く気にもならなかった。

 酷い倦怠感が体を支配している。

 何もする気が起きない……。


 ふと、わずかな光源に惹かれるように目を向けた。

 首をかしげて机の上の燭台を眺めてから、大きく目を見開く。


 ぴかぴかに磨かれた銀色の中に、ぼんやりと浮かんでこちらを見返す二つの琥珀色。

 燭台が綺麗だから鏡のようになっていて、自分の顔が映っていることは理解できる。

 だから問題は、自分の琥珀色がこんなにもくっきりと見えていることだ。


 ……だってあんなにいつも、自分からも周りからも、見えないように前髪を伸ばして。


 おそるおそる指で目の前をなぞれば、そこにあったはずの彼女と外界を隔てるカーテンはなくなっている。

 指先から伝わる感触、燭台に映る自分の影が、ざくざくと無造作にハサミでぶつ切りにされたらしい、蹂躙された自分の前髪の末路を物語っていた。



 抗いがたい現実がすとんと自分の中に落ちると同時に、フローラは絶叫した。


「か、髪……わたしの、髪……!」


 心ない言葉をかけられるのも。

 服を勝手に変えられたことも。

 知らない場所に一人で放置されていることも。

 いきなり初対面の相手と結婚をさせられるのも。

 ――ひょっとしたらそのまま、自分が殺されてしまうのかもしれないことも。


 まだ、どこかであきらめがつく、耐えられると、思っていた。

 実際、少し前までは、感情の杯が理不尽の連続でとっくにいっぱいいっぱいになっていても、それでもあふれ出さずに済んでいたのだ。

 だって自分はそういうことをされても仕方のない、価値のない人間なのだから。



 だが、髪は。

 前髪だけは、駄目だ。

 それだけは耐えられない。

 ここだけは、叔父叔母だってイングリッドだって、触れない場所だったのに。


 ――別にかわりにヴェールで隠せばいいとか、そういう問題ではない。

 見える部分を邪魔するように髪があることに、意味があったのだ。


(もう怖い物が見えないように、おまじないをかけてあげようね)


 最初は母の優しい言葉で自分を覆うように。


(気味の悪い目……見せないで)


 次第に叔母たちの冷たい言葉から自分を隠すように。


 目が隠れるほど伸ばされた、まっすぐで鬱陶しいほどの前髪は、祝いでもあり、呪いでもあり――フローラにとって、自分を世界に存在させるために必要な、防御壁のようなものだった。

 彼女はこの壁越しに世界を眺めることで、外部から自分を守っていた。



 それが、こんなにもあっさりと踏みにじられ、散らされた。

 何も知らない冷たい男の手によって。



 叫び、わめき、転び、体を打ち付ける。

 机の上の蝋燭が反動で倒れ、ふっと光がかき消える。

 火事にならなかったのは幸いと言えるが、訪れた暗闇はますますフローラの感情をあおり立てた。

 我慢に我慢を重ねた末、とうとう沸点を超えて訪れた恐慌は、生来内向的な彼女にとてつもない行動力を与えた。

 しかし何度扉のドアノブを回そうと、窓の鉄格子を揺らそうと、所詮少女の身ではびくともしない。

 大騒ぎしても、誰も駆けつけてくる様子はない。

 バランスを崩して倒れ込んでなお、一番近くの壁まで這っていって、がりがりと爪が傷つくのも構わずひっかいた。



 出して。

 お願い。

 ここから出して。

 家に帰して。

 誰か助けて。

 誰か……。



 子どものように泣きじゃくり、意味のある言葉、内言葉、様々口にする。

 それでも何一つ状況は変わらない。

 静かな夜が頭上に降り注ぐだけだった。



(……馬鹿みたい。誰か助けて(・・・・・)? 誰が(・・)助けて(・・・)くれるって(・・・・・)言うの(・・・)?)


 一通り暴れた後、フローラはがくりと力なくうなだれた。

 嗚咽が一周回って笑いに変わる。やがて、疲れたため息に。


(いらない子、駄目な子、いつもそう、何をやっても逆効果……)


 じくりと鈍い痛みが指先に走る。

 抱え込むと、爪が割れていた。

 ぽたぽたと純白の上に赤い染みを作って落ちる。


(疲れた……どうせ、何をしても……そうよ……髪が切られたぐらい、なんだって言うの……わたしは……)


 徒労感に満ちてまぶたを閉じる。

 もたれかかった先、よりかかり方が悪かったのか、ごつっとやや鈍い音がしてじーんと頬の片側に痛みが広がるのを感じる。

 すると不思議な事に、からっぽになった真っ暗な闇の中に、急にぶわりと影が浮かび上がった。


(いくじなしっ!)


 不思議なこともあるもので……痛みの感触が記憶を呼び起こしたのだろうか。


 フローラのまぶたの裏に、向かってこれでもかという勢いで張り手をした、幼いイングリッドの姿が映り込んでいる。

 確か、引き取られて間もない頃だったろうか。

 彼女はびっくりして泣き出したフローラに向かい、あろうことかもう一発景気のいい奴をお見舞いしてから、勢いよく地団駄を踏む。


(なによっ、文句があるならやり返してみなさいよ! おどおどちらちらめそめそ、自分で何もしないくせにうっとうしいの! そんなのでどうにかなると思ってるの!? 大馬鹿者!)


 いつの間にかイングリッドの姿は大きくなり、扇情的な室内着をまとった彼女はきりりとまなこを吊り上げている。


(せっかくの機会だって言うのに、なんだってそんなにぼんやりしたままなの? チャンスの神様は前髪しかないのに、あんたにはいつまで経ってもつかめそうにないわね――)


 琥珀色の目が見開かれ、光を失ったはずの瞳に色が戻る。

 今のフローラの精神状態は尋常ではなかった。

 極度の緊張と疲労、ストレスに晒された結果、恐慌を越え、暴走状態にあるといって過言でない。

 普通でないがゆえに、きっかけが与えられると、いつものマイナス思考と全く違う方向に向かって進み出す。


(そうだ……ここにはもう、誰も、いない。一人なら……もう、守ってくれるものも、ないのなら……自分で、なんとかするしか、ない)


 心臓が鼓動を上げる度に、傷ついた両手がじくじく痛む。

 奇妙な高揚感で頭が熱く、ぼーっとしたような感じがするのに、思考回路だけは妙に冷えて冴え渡っていた。


(なんとかする……)

(なんとかなる?)

(逃げなくちゃ……)

(ここにいてはだめ……)

(大人しく、あのひとを待つのは、いや……)

(知らない間に、わたしの大事な前髪を勝手に切った人になんか――絶対、このまま従いたくない!)


 ふつふつと体の内側から不思議な熱がこみ上げてきていた。

 暴かれたフローラの欲求は、彼女が普段抑えに抑えている願望を正直に自覚させ、行動を起こさせようとする。


 壁にもたれかかったまま、静かに考え事を続けていたフローラだったが、びくりと身を起こした。

 最初は錯覚かと思ったが……どうやら悪夢でもなく、現実のようだ。


 遠くからではあるが、足音が近づいてくるのが聞こえる。

 暴れすぎたせいか?

 少し前の自分が悔やまれるが、過ぎたことにこだわっていても仕方ない。

 落ち込んでいたときや、普段のフローラならここで大人しく縮こまってただ扉が開くのを待つだけの人形になってしまっていただろうが、今の彼女はひと味違う。


(考えて……考えるの! この状況を……ここから逃げる方法を……何か、わたしの力になるもの……)


 そのとき、まるで誰かがそっと耳元に囁きかけたように、フローラの耳にまたとある音が、記憶が蘇る。


 ――夕暮れの町。ぶつかってきた犬たち。輝く二つのエメラルド。


 足音はもう、はっきり聞こえるほどになってきている。もはや一刻の猶予もない。


(一か八、どうせ失敗したって何も変わらないだけ……なら!)


 両手を胸に、ごくごく小さな声で、早口で、震える唇を動かす。


「かまどの左手さん、井戸のせせらぎさん、屋根の上の風見鶏さん、足下の力持ちさん――」


 唱えている間にもう、足音が部屋の前で止まり、鍵穴が無情な音を立てる。

 回るドアノブを両目を見開いて見つめながら、彼女は最後に思い切って唱え終えた。


「お願い、どうかわたしを助けて――ここから安全な場所に、逃がして!」


 扉が開く。ちょうどそのとき、すべてが止まる。



 ……誰かが彼女に向かって笑いかけ、拍手を鳴らしたような気がする。



 次の瞬間、突風とまばゆい光と共に、たちまちぶわりと白色が辺りすべてを包み込んでしまう。




 彼女がはっと気がついたときにはすべてが終わっており、見知らぬ部屋は消え失せた。

 アイスブルーの目を持つ冷酷な男の姿も周囲にはなく――ただただひたすら、うっそうと木々の茂る森が、自分の周りにどこまでもどこまでも、果てしなく広がっていたのだった。

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