訳あり魔法使いと逃亡中の花嫁
警戒するように何者かが向かってくる方をにらみつけていた魔法使いだが、まもなくその表情が引きつったものに変わる。
「……げっ」
「げ?」
思わずといった風に彼の口から漏れた言葉にフローラが首をかしげると、くるっと振り返った彼は素早く石版を見せてきた。
『よし。逃げるぞ。さすがにやり過ぎて捕捉されたようだ』
「……えっ!? ちょ、ちょっと!?」
フローラが何がどうしてその結論が出たのかわからず困惑する一方、魔法使いの行動は素早かった。
小声で何か唱えていたかと思うと、腕を振る。巻き起こった風がぴゅんと放たれて飛んでいき、草原の中に見えた物陰を散らして――。
「何をするのですか、ひどいっ!」
「この容赦なさと共に若干の思いやりが添えられた魔法は間違いなく殿下!」
「また地味に面倒な妨害を!」
……なんか、物陰達が押し合い圧し合いしつつ、ぎゃーぎゃーわーわー騒いでいる音が聞こえる気がするのだが。
魔法使いは特に頓着した様子を見せず、フローラの手を取るとくるっと背を向けて走り出――そうとして、ちょっと思い直したように早歩きになった。
フローラは慌てて、取られなかった方の手で花嫁衣装を抱え、長く重たいドレスの裾を踏まないように注意しつつ、一生懸命彼の後についていこうとする。
着ているものと周りの環境のせいで大分走りにくい。たぶん魔法使いがペースを落としたのはそのせいだった。
が、今聞こえてきた言葉に、どうしても気になるものがあるので、おそるおそる小走りになりつつも魔法使いに口を開く。
「あ、あの!」
(なんだ?)
「で、殿下って……?」
(私のことだな)
手をつないでいるから、石版をわざわざ介さずとも魔法使いの思念はフローラに届く。
さらりと答えた彼に、フローラは自分の表情が引きつって、だらだらと顔やら背中やらを冷や汗が垂れていくのを感じる。
「え、えっと……」
(ああ、そういえば、適当に自己紹介はしたけど、正式には名乗っていなかったんだったっけ。私の名前はルシアン=フェルディ・ド・ランチェと言う)
「……魔法使い様……わたしの気のせいでなければ、それは神聖ランチェ王国の、その――王族の方の、お名前のように、思えるのですが……?」
(一応第三王子だったからな。まあ、ちょっと訳あって十年前に家出してきた身なんだ。細かいことは気にするな)
「細かくないですっ、全然細かくないです!」
――道理で、育ちが良さそうだし教養にはあふれているようだし結構いい暮らしをしていたし、その割に何故か生活力だけが異様に低すぎると思った。
どこかの貴族なのではないかと前々から疑っていたが、まさか一国の王子とまでは思わないではないか。
今更ながら、自分は彼のことを何も知らなかったのだと思い知らされる。
しかしそうなると、追いかけてきている人たちの素性についても、文脈からなんとなーく検討がついてくると言うもの。思わず、おそるおそる聞いてしまった。
「に、逃げたりしてしまって、大丈夫なのですか!?」
(今は、その……そうだ、森が気になるからな! セラやシュヴァリも心配しているから早く無事な顔を見せに行かないといけないし、封印を施してきたから、もう魔獣が前のように跋扈することはないと思うんだが、念のため確認しておかないと落ち着かない)
「そうだ、セラさんたち……!」
言い方はいかにもとってつけられたような言い訳じみていたが、話を聞いているとフローラも少し慌てた。
緊迫していたり色々めまぐるしく展開が変わって忙しかったりで半分ほど忘れかけていたが、元々フローラは町に遊びに連れて行ってもらって、そのまま姿を消していた状態だ。さぞかし二人には迷惑をかけ、心配させてしまっただろうと胸が痛む。
もう一つ、魔法使いの言葉を聞いていて気になることがあった。
「ええと、封印……?」
(あなたを助けるために森を離れる必要があったが、私が森を離れると以前のように魔獣が町を襲いかねない。だから出かける前に、さっくりちょっと封印してきた)
「さっくりちょっとでできるものなのですか、それは!?」
(人間頑張ればやれるものだな)
(魔法使い様だけなのではっ……!)
町に出かけてからイベントが起こりすぎ、情報が増えすぎで目を回しているフローラに、少々迷ったような感情の揺らぎの後、落ち着いた思念が伝わってくる。
(わかっていたんだ。本当はもう、ずっと前から、森に閉じこもらなければいけない理由なんてないことを。気持ち一つで、もっと人のいる場所に出て行けるということを。でも俺は臆病者で、独りでいる大義名分を失いたくなかった。化け物とさげすまれたり、不注意で誰かを消してしまうぐらいなら、役立たずのまま、一生閉じこもっていたかった)
彼はそこで一度切って、フローラに顔を向けてくる。
息の上がってきた彼女を思ってだろうか、それとも彼の心が伝えているうちに少し変わったのだろうか。歩調をゆるめ、止まった二人はじっと互いを見つめ合う。
(だけど思いがけず、あなたが来て――そうも言っていられなくなったな)
「魔法使い様……」
二人の世界に浸っているばかりではいられなかった。
まもなくぜーはー言いながらも追いついてきた――格好からして、騎士と魔法使いの部隊なのだろうと思われる――人たちは、お互いの顔がはっきり見える位置まで追いついてくると足を止めて――大の大人たちが、一斉に涙を滂沱と流しつつ感無量な感じで口々に言葉を連ねる。
「で、殿下!」
「待てと言えば待ってくれる、やっぱりこの優しさはルシアン殿下!」
「第一王子と第二王子にも爪の垢を煎じて飲ませたい!」
「ここで会ったが百年目!」
『大精霊みたいな雑な計算をするな!』
「で、では十年と三ヶ月と十六日目……」
『今度は細かすぎないか!?』
「陰のあるイケメンに育ちましたな、殿下!」
「かっこいいですぞ殿下!」
「というか何故筆談!?」
『うるさいっ』
彼らははたして治安維持部隊なのだろうか、それともただのファンクラブなのだろうか。
わたしの知っている騎士団や魔法使いと違う、と気が遠くなるフローラだったが、思えばランチェのお国柄は全体的にディーヘンより、よく言えば明るく悪く言えば浮かれているのだ。
ついていけないほどひどくはない、むしろこれはこれで心地よいかもしれない、と気を取り直している彼女の横で、真面目な顔になった魔法使いがこほんと咳払いした。
『十年前、何も言わず、勝手に抜け出して悪かった。だけど……ようやく、時間を進めていいと思えるようになったんだ。身勝手なことを言っているのはわかっている。それでも今度、こちらから、ちゃんと挨拶しに行くから。そのとき、全部話すから――もう少しだけ、父上、母上、兄上達と一緒に、城で待っていてくれないか』
はっ、とフローラは魔法使いを見た。
ずっと、森の中で一人でいた彼が、変わろうとしている。
それはよいことのように思えたし、変化を迎えて何かと苦労するだろう彼に、寄り添って支えていたい。
きゅ、と握りしめた指先に力をこめれば、返ってくる確かな反応がある。
魔法使いの静かな雰囲気に、わちゃわちゃしていた大人たちも空気を読んでおとなしくなる。
「……わかりました」
「ところで殿下、つかぬことをおうかがいいたしますが」
『なんだ』
「お隣の女性とは、どういったご関係なのでしょう」
おとなしいまま終わらせてくれるわけがなかった。
確かに、あちらからすると、十年ぶりに出奔した王子を探しだしたと思ったら本人はボロボロなわりに漆黒の仰々しい花嫁衣装をまとっている女――というか少女を伴っているのである。
率直に言って、大事な儀式から彼女を連れ出して来たように――つまり式場から花嫁をかどわかしてきたように見えるし、実際その通りなのだからどうしようもない。
仔細を問いただしたくなるのももっともと言えばそうである。
急に矛先が飛んできて、視線を受けて愛想笑いのまま固まるフローラに、ふうと息を吐き出した魔法使いが思念を伝えてくる。
(フローラ)
「はい」
(逃げるか)
「……はいっ!」
この賑やかな一団相手に込み入った事情を説明しようとしても、なんだか拗れそうな予感しかしない。
どうせ十年ぶりに帰ると伝えたのだ、ならばその時たっぷりいやというほど話せばいいだろう。
いたずらっぽい笑みを向けられたフローラが微笑みを返して答えると、彼はさっと彼女を抱えあげた。
逆らわず、むしろ首に手を回してしがみつく。
あちらが呆気に取られている間に、魔法使いは素早く宙に飛び上がって風に乗ってしまった。
「で、殿下あーっ! いけませんぞ、そのような!」
「殿下が軽薄なランチェ男になってしまった! うわああああああああん!」
「殿下だけは清らかだと! 殿下だけはいつまでもランチェ人っぽくないままだと信じていたのに!」
(今度説明するから! 色々詳しく説明するから!)
両方のやりとりが聞こえているフローラは、遠ざかる野太い悲鳴に若干の気の毒さを感じつつも思わず声を上げて笑ってしまう。
それも落ち着くと、ぱちりと至近距離で目が合った。
咄嗟にあわててうつむいてしまう彼女に、魔法使いが優しい言葉をかけてくる。
(帰ろう、私たちの家に)
「はい、魔法使い様。……あの、ところで、その……」
(何か気になることでも?)
「魔法使い様が里帰りしてご挨拶しに行くということでしたら、わたしも、きちんと話をし直したい人がいて……」
なぜかそこで一瞬彼の雰囲気が剣呑になる。
(……男か?)
「へっ!? ち、違います違います、従姉妹の女の人です!」
(なら、問題ないな。一緒に行こう)
当然のように言ってもらえて、フローラは少しくすぐったい気持ちになる。
機嫌が直ったかに見えた魔法使いだったが、すぐにまたじーっと彼女の顔を見つめてきた。
(ところで、私も気になることが一つある)
「なんでしょう?」
(名前で呼んでくれないのか?)
きょとんとしてから「あ」の形に口を開く。
ずっとそれで慣れてきてしまっていたが、フローラは今まで一度も彼の名前を呼んだことがない。本人がうっかり言い忘れていたせいでもあるのだか、さておいて。
期待のこもった目に、はにかみ、どもりつつもフローラは応じる。
「ルッ――ルシアン様」
(うん)
「あの、ルシアン様も、わたしの名前を呼んでくださらないのですか?」
(何度も呼んでいるじゃないか)
「言葉で――その声で」
少女にじっと視線を返されると、一瞬うっと息を呑む顔になってから、青年はごくごく小さな声で囁きかける。
「……フローラ」
少女はぱっと花のような笑顔になると、ルシアンに抱きつくようにして、頬にキスを落とした。
訳ありの魔法使いと、あと少しだけ逃亡中の花嫁の未来は、昇る温かな日の光のもと、幸せと輝きに満ちていた。
the end.