かつて花の名を冠した者
ふわふわと漂う。上下も前後も曖昧だ。ただ、楽しさだけがそこにある。闇の中では無数の光が灯って瞬いている。幻想的な空間。今から自分もこの光の一つになるのだ。それはなんて嬉しくて、幸せで、安心することなのだろう。
もう、何も考えずに済む――。
(……あれ?)
まどろみの中を仲間達とともにゆるく戯れながらぷかぷかと漂っていると、違和感を覚えた。
(誰かが、呼んでる……)
足を止める。何かがおかしいと感じるが、はっきりしない。思考はぼんやりとしていて、今にも流れて周囲に溶け出してしまいそうだ。
(まあ、いいか。きっと、たいしたことない……)
うとうとと、また穏やかな眠りに包まれていこうとした、そのときだった。
「キッシュを、まだ食べていないんだぞ!」
ほぼ絶叫だったその声が響いてきた瞬間、ほわほわ夢見心地な気分が消えて一気に目が覚めた。
(そっ……そうだ! 一日もあの家を開けてしまっていたんだもの、やることが山積み、すぐに帰らないと大変なことになる!)
すべてのムードを吹っ飛ばすは、懐かしきガラクタ屋敷の破壊力である。
家事というのは厄介なもの、毎日少しずつこなしておかなければ徐々に徐々に後の大きな負担となる。
こんなところでのんびりしている場合ではない、掃除も洗濯も料理も何もかも残っているのだ。
帰らねば。彼がお腹をすかせて待っている。
そう思うと、手が、足が、体が、顔が、自分の所に戻ってくる。体を取り戻していく作業は痛みや苦しみも伴ったが、これでいいのだとますます確信した。
(だって、前も、そうだった)
――前も? ふと疑問を覚える。
そう、昔も同じようなことがあった。
あれは、いつのことだったのだろうか。
線を越え、人を越え、激痛をくぐり抜ければそこは無の世界だった。
少し前までぐずっていた幼い少女は、今は手をつないでもらって上機嫌に鼻歌を歌っている。
彼女は初め、闇の中に溶け出すそれはまるで羽ばたいて翼のようだと思ったが、どうやら数ある腕の一つであるらしい。
光にも似た透明な先端が、幼い少女の手にぴとりとつくと、そこから何かが流れ込んでくる。くすぐったさに震えたが、嫌な気分ではない。彼の隣はとても落ち着いた。ずっと前から、そうしていたような……。
(ずっと、ずっと昔。とある大精霊の一柱が、何の運命のいたずらか、人間の男に恋をした。異種? 身分差? 年齢差? 知ったことか、どーしてもあの人と添い遂げるんだ、愛し合えないなら死んでやる、ついでに周りも道連れにしてやる――って、それはもう、激しくゴネにゴネてだね)
「ごね……?」
どうやら彼は、お話をしてくれるつもりらしい。
けれど彼女からすれば、何故今その話を自分に始めたのか、脈絡がなくてわからない。構わず大いなる存在は、ゆるりと腕のような翼のような不思議な形の体を動かしながら続ける。
(いやあ、あのときだけはさすがのぼくも、かなりヒヤッとしたよ。何せ同じ大精霊とのガチ喧嘩になりかけたわけだし。これがまた周りがひどいんだ、ぼくにばっか任せてみーんな逃げちゃってさ)
「???」
(とにかく、最初は大精霊がそんなだだっ子みたいなことするんじゃありません、立場が違いすぎるの諦めなさい! ってぼくも説得に回っていたのだけど、あまりに向こうが頑張るもので、このままじゃ誰もが損する一方だって思ってね。だからとうとう、ぼくの全力で、空の魔法で、彼女を呪って決着をつけることにした)
「……どんなのろいを、かけたの?」
(精霊だった時のことをすべてなくして、人間になってしまう呪いだよ。生まれ直しても、人間にしかなれない呪いさ。それからぼくはずっと、彼女の子ども達を、そして彼女自身が何度も生まれてくる様子を、いつまでも見守っている……)
首かしげたフローラが、次に言葉を言う前に、彼女の後ろから切羽詰まった声が聞こえてきた。
――フローラ……。
「……ママがよんでいるわ」
そうだ、自分は、言いつけを破ってしまった。きっと心配させてしまっている。早く帰って謝らなければ、怒られてしまう、泣かせてしまう。
振り返ろうとする彼女の姿は、光の一つから幼い少女に戻りつつある。
するりと手が離れた。少女がくしゃっと顔をゆがめると、一度だけなだめるように戻ってきて、彼女の前髪をくすぐってみせた。
変わらない琥珀色の瞳が、きらきらとうっすら光を内部で放つ半透明の体をじっと見つめている。
(人間の世界にお戻り、可愛い妹。ぼくは君を呪い続けるから、たぶんこの話もすぐに忘れてしまうだろう。でも、それでいいんだ。誰かが君を呼ぶ間は、君が誰かを呼ぶ間は、人の中で生きておいで)
「おにいさま――」
伸ばした手を、つかみかえしてはもらえなかった。
名前を呼ばれると、体がぐんと引っ張られ、なくしたはずのわずらわしいあらゆる感情が戻ってくる。快だけならまだいい。不快までもが身に染みて元の通りに定着してしまおうとする。
けれど、彼女はその、痛みと苦しみのある世界を選んだのだ。そこで生きていくと決めたのだ。
遠い、遠い、いつかの記憶。
すとん、とどこかから落っこちたような感覚とともに、彼女は戻ってきた。
とても、とても苦しい。息はできないし、体は動かない。耳は……なんだろう、至近距離での誰かの呼吸を感じる? そういえば温もり、というかもはや熱い熱も全身に感じている。
いぶかしげにうっすら開けた目に、人の顔が映る。
いや、それが人の顔だと気がついたのは、ちょっと遅れてからだった。彼が一瞬だけ顔を離してくれたから、そのときにようやくああこれ男の人の顔のドアップだったんだな、ということがわかったのである。
ついでにその人はよく知っている人だった。相手は作法通りにまぶたを下ろしているのだが、フローラにはばっちりその顔が見えた。何せ、目がいいことには定評があるもので。
「――○×△□!※#!?」
自分がどういう目に遭っているのか理解すると思わず叫んでしまった。が、その悲鳴のような驚きのような声も、ふさがれて吸い取られてしまう。
「ん、んんうっ――んー、んー!」
色々言いたいことはあるが、とにかくまず、息が出来ないのだ、苦しいのだ、空気を切実に所望する。
バンバン必死に胸板を叩いて暴れ回ってみるが、何故かより一層拘束は強まるし、腕をつかんでいただけだった手は彼女の背中に、腰に回って密着率を上げてくる。
改善を求めたら状況が悪化した。どうすればいいと言うのだ。
重なって唇の感触を確かめるだけだったはずが、いつの間にかこじ開けられ、ぬるりとした感触が腔内を蹂躙する。
けして不快ではない、むしろ浮かされるように体の奥に熱が灯り、共に燃え上がってさらなる高みに行けそうな、新しい快楽の味ですらあるのだが――。
(もう、だめ……)
今の今までほわほわお花畑、星空のような幻想空間を漂っていた少女に、この寝起きのディープインパクトはちょっと刺激が強すぎた。
くらっ、と熱が最大限回ったところで落ちそうになると、そこでようやく満足したのか気を利かせたのか、青年は少女の口を解放し、なんとも言えない顔のままガチガチに固まっている彼女に向かって、開口一番こう言った。
「この、大馬鹿者!」
本来、彼女は怒鳴りつけられるのは大の苦手である。
が、このときだけは、いろんな意味の容量オーバーで飛びかけた意識を戻してくれたので、ちょうどよかったように思えたのだった。




