あなたのための魔法7
生唾を飲み込むと、ごくりと大仰に喉が鳴った。浮かんだ汗が、額から頬を伝って落ちていく。
震える指先に意識をともし、なんとか息を落ち着かせようと努力して、今一度自分のすべきことを心に浮かべる。
(からっぽになりかけている器の満たし方……シンプルに考えるんだ。輪郭を失いかけているのなら、また輪郭を与えてあげればいい。名前を、存在を言葉にして、自分がどういう存在なのか思い出させる。聴覚は人間の死の間際、最後まで残る感覚情報。溶けかけの状態でも、口にする言葉は届くはず――!)
思い返せば、十年前も、消えかけるとともにすうっと表情の抜けた兄のことを、幼い少年は焦って何度も呼んだ。ぼんやりしていた兄の目に光が戻り、焦点がこちらに合ったとき、彼の体の輪郭も濃くなり、元に戻ったのではなかったか。
呪文を詠唱することはもちろん、喋るだけでも魔法を発生させることはできる。感情を、祈りを言葉に乗せる。それだけで、力になるのだ。
言葉は最も原始的な魔法であり、名前は最も簡単な呪いだ。
名付けられた方と名付けた方には縁が結ばれる。名前を呼ばれれば、呼ばれた相手は壁にピンで刺されたように世界に存在を固定され、一つの姿が定義される。そうして人間は世界を分けて理解するのだ。
(――そんな理屈は、どうでもいいから!)
頭を振って雑念を追い払い、おそるおそる、まずは第一声を上げる。
「フローラ……フローラ・ニンフェ……」
何せ、十年間ずっと封じてきた声だ。いつの間にか声変わりも迎えてしまっていた。すっかり知っているものより低くなっているそれは、自分の口から出ていくと違和感しかない。
慣れないものは、油断すると気力がそがれ、かすれてしゃがれて、がらがらになって、そのまま出てこなくなってしまいそうになる。
それでもなんとか、小さく繰り返す。細い細い、彼女と自分をつなぐ一本の線を、途切れさせないために。何度も何度も、名前を呼ぶ。
(……だけど、これだけでは駄目だ。力が弱い。十年前の兄より、今の彼女の方が、どう考えても状態が酷い。止めているだけでは、おそらくあちらに引っ張られる力に負けて、いつか消えてしまう)
名前を呼ぶことでできているのは、あくまで現状維持のみ――それ以上消えないようにすることだけ、というわけだ。既に消えてしまった部分を取り戻すには、これだけでは足りない。
(何か……何か、もう少し、インパクトのある、言葉を。彼女が足を止めるだけでなく、思わずこちらに戻って来たくなるような、言葉を。考えるんだ、魔法の呪文を)
ところがこれが恐ろしいほどの難題だった。
ただでさえ、喋ること自体に四苦八苦しているような状態なのだ。シンプルな名前をつぶやくのならともかく、文を考えようとすると、思考に力を取られて、途端にうまくいかなくなる。
森奥で引きこもっていたような魔法使いだ、とても器用者とは言いがたく、気の利いた文句の一つも浮かばないし、適当に本から引用しようとするとぐっと喉につっかかって出てこない。単純な話、恥ずかしいからだ。
「きょっ――今日は、いい天気だな」
(駄目だ。絶対にこれでは駄目だ)
迷いに迷い、必死に考えて最初に浮かんだ言葉がこれという有様である。
うすうすわかっていたが、やっぱり自分には言語のセンスがないのではなかろうか。めげそうになるが、心折れている場合ではないので必死に自分で自分を鼓舞しつつなんとか立ち直る。
呪文や知識ならいくらでも頭に浮かぶが、そんなものを朗読しても彼女には響かないだろう。
彼自身の言葉で、魔法をかけてあげなければいけないのだ。
(考えろ、考えろ。なんでもいい、まずは何か、最初のきっかけを。落ち着け、何を言えば彼女は俺の話を聞いてくれる?)
少女と自分のつながりに焦点を当てようとするなら、知識より経験が物を言う。
魔法使いは基本的にかなり真面目な男である。今回も、それはそれはもう、必死になって思い出をたぐった。
その結果、閃きがぱっと降りてくる。忘れぬうちに、あるいは思い直す前に、素早く彼は口を開き、ただちに言葉にした。
「キッシュを、まだ食べていないんだぞ!」
間が良すぎたのか悪かったのか。静まりかえっていた草原に、青年の叫びが響き渡る。
思っていたより、かなりがっつり声が通った。魔法使いの視界の外で、びくっと二匹の犬が反応し、大精霊があんぐり口を開けるほどに。
見守る人外達の存在がすっかり意識から外れているのは、おそらく魔法使いにとってこれ以上ないほどの幸いであった。意識していたらこの時点で醜態すぎて憤死していた可能性があるからだ。
自分の声に激しくうろたえかけた青年だが、奇妙な確信もあった。
――絶対に、今の言葉で、大きくてかわいらしい琥珀色の目を見張って、きょとんと彼女がこちらを向いたという、確信が、手応えがあった。
黙ったら負けだ。ここは勢いのまま通すところである。ほとばしる貧弱な語彙力のままに、彼は純粋な欲望を垂れ流す。不思議とさっき以上に言葉に力がこもる実感がわいた。
「しっ――新作の奴だ。私が野菜をあまり好きではないから、今度、野菜たっぷりな特別メニューで、作ってくれると言った……絶対に言った、あなたは! まだ、食べてない。たっ――食べさせて、ほしい、な……」
(何を言っているんだ、俺は)
頭の片隅の冷静な自分が、客観的にらしくないことを口走る自分自身に絶対零度の眼差しで突っ込みを入れているが、人命救助だ、人命救助のためなのだ。
羞恥心をこらえ、震えながらも頑張って彼女の注意を引こうとする。
……彼女の命がかかっているのだ、これしきのこと!
「そっ、それから、洗濯物! わ、私があなたの服を触るわけにもいかないだろう? た、溜まっていて、困ると思う……ぞっ! あと、掃除! 私だけに任せていたら、またあの家はゴミ屋敷に戻る、それでいいのか?」
(だから、さっきから、我ながらもっとマシなことは言えないのか! なんで途中から謎の方向の恐喝になっているんだ!)
自分で自分をなじっても、残念ながらこれがありのまま、精一杯の彼である。自分から魔法要素を取ったら特にいいところが残らない気がする、という自覚通りとも言える。
それに、けして悪いことばかり、ただ魔法使いが恥ずかしいだけで終わったわけでもなかった。ある意味彼の作戦は、目論見は、ドンピシャで当たったのだ。
透けていた手に色と形が戻り、青年の掌の下に柔らかで華奢な感触が現れる。
はっと目を見張った彼の前に、相変わらず生気のなく、焦点の定まらないまま、向こう側に草原が透けて見える状態ではあるものの、フローラの姿がぼんやりと見えるようになってきている。
じわりと目尻が熱くなるのを、ぐっと唇を噛んでこらえた。
感極まっている場合ではない。まだまだ予断を許さない状況、ここからが大事なのだ。
やっていることが確かに意味のあることなのだと、自分の声がちゃんと届いているのだと、形になって表れると、自信が、余裕が出てくる。
ゆっくりと深呼吸すると、新鮮な酸素が回ったおかげだろうか、心なしか先ほどよりも明確になった思考回路が、あれほど紡ぎがたかった言葉をすっきりと浮かべてくれる。
「私は……私は。あなたが一緒に暮らしてくれて、本当に嬉しかった……嬉しかったんだ。誰かが自分を待ってくれていることが、もう一つの温もりが私の家にあることが、本当に、本当に、幸せで……」
ぽつり、ぽつりと、声は漏れる。途切れ途切れに、時折続きを探しながら。
けして理路整然とした文でなく、震えて情けなくすらある声音だったけど、だからこそ、気持ちをそのまま伝えている。
目の前に見える、見えない場所で迷っている人に向けて、話したかったことを、言いたかったことを、胸の中にうずまく塊をほどいてほぐして、伝えようとする。
「いつか……私の力の正体を知ったら、あなたが出て行くかもしれないと、わかっていても。それでも、あなたにずっと……ずっと、私の側にいてほしいと思った。いっそあなたを閉じ込めてでも、一緒にいたいと思ったことだって、ある。……実際には、あなたに嫌われることの方がずっと怖かったから、無理だったのだろうけど……」
琥珀色の瞳は相変わらず瞬きすらしない。けれどもう、はっきりとその美しい色がわかるまで姿を取り戻した。
重ねた手に力を込め、魅入られるように彼女の目をのぞき込む。
――そういえば、初めて会ったときも、一番印象に残ったのはこの琥珀色の目だった。優しくも神秘的な不思議な魅力を宿す色合いに、心射ぬかれるようで、目が離せなくなったのだ。
「お願いだ……戻ってきてくれ。もう一度、笑顔を見せてくれ。言葉をかけてくれ。そして、私と――私と、これからも暮らしてほしい。まだ、何も伝えられていない。まだ、何もあなたに言えていない。このまま行ってほしくない。頼む……!」
体は輪郭を取り戻し、おそらくすっかりもう全部魔法使いの前に戻ってきているが、温もりや鼓動が感じられない。今のフローラは人形のようだった。
名前を呼んで、彼女を呼んで、未練を呼び覚まして、帰ってくる場所を思い出させて、それでもまだ、魂が狭間の世界をたゆたって、迷っているのだろう。体のある人間の世界は不自由だから、本能で幸せな方に、楽な方に引っ張られてしまっているのだろう。
(あと少し! もう少し、なのに――)
これほど言葉を尽くして、思いを、力を乗せても、まだ足りないのか、まだ取り戻せないのか。
――そうかもしれない。
何せ、青年と少女の縁は薄い。たった一月程度、一緒に暮らしていた赤の他人だ。
言葉だけでは通じ合わない部分もあるのだろう。
だが、今度の彼は、首枷を自分で破る前のように、無力感にうなだれたりはしなかった。
言葉の魔法で力が足りないなら、それ以上にするまで。直接伝えるまで。
何をするか頭で考え説明するのは野暮というものだ。こういうのは、それこそ黙って感じるものである。
ほとんど勝手に体の方が動いた。
重ねていた手が上がり。優しく、しっかりと感触を確かめてから、彼女の体を抱き寄せる。無抵抗な感触に、ぞくりと肌が泡立つ。奇妙な高揚感が巡るのを感じた。
至近距離、琥珀色の瞳に自分の姿が映り込むまで近づいてから、一度だけ青年は心の中で気合いを入れ直す。
(……今度は、失敗しないぞ!)
好意の、愛情の伝え方は人類共通である。
忘れたいような前科があったのは、結果的にはよかったのかもしれない。記念すべき初体験の本番で、力みすぎるあまりど派手にすっころばすに済んだのだから。
最初は少々、おびえ混じりに、おっかなびっくりと。
一度触れあえば、たがが外れる。この先に進みたいと体の奥からせり上がる純情が、欲望が、さらに動きを大胆にする。
重なり合わせたところから、むさぼるように、深く奥まで、やわらかな彼女を浸食し、堪能しようとする。
そうして情熱的に唇を奪った瞬間、少女の体に確かに熱が戻るのを、熱い血潮がよみがえるのを――魔法使いは肌に感じた。




