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あなたのための魔法6

 一体何が起きたのか、自分が意識を飛ばしている間に何が起きたらこの状況になるのか、さっぱりわからない。


 ただ、守ろうとした彼女が今、とても危ない状態であることだけははっきりとわかる。



 うつぶせの状態から身を起こして辺りを見回していた魔法使いは、慌てて立ち上がり、よく知っている少女に向かって駆け寄ろうとした。その緊迫した背中に、のんきな声がかかる。


「やあ、迷える子羊君」


 ぱっと振り返って身構えた――なんならそのまま魔法の一つや二つ発動しそうになった彼だが、自分に話しかけてきた相手が長い前髪の下に緑色の目を持つ少年であることを知ると、ぶはっと息を吐き出して急停止する。


からの大精霊!? どうしてここに――)


 倒れていた魔法使いの後ろ側、ちょうど人間二人が見えるような位置に少年に擬態した人外は陣取っているらしかった。


 地面から浮かび上がってふわふわ揺れている彼の両脇には、犬に擬態した――お供なのかお付きなのか取り巻きなのか――もう少し下級の精霊がおとなしく寄り添っている。


 彼らを撫でながら、大いなる存在はふう、と息を吐き出した。


「最近気がついたんだけど、君、ぼくに対する敬称がいつの間にか抜けるようになったよね。いや、別にいいんだけどさ。なんか、気がついちゃうと若干釈然としない部分もあるよね、こーゆーの。人間って知らない間にすぐ変わっちゃうから――」

(そんなことより、状況を教えてください! 今、何がどうなっているんですか)


 大精霊は当然のように魔法使いの心の声を聞き届ける。青年の方もまた、最初から通じているものとして石版を出す手間を省いた。


 犬のあごをくすぐっていた手を止めて、少年は視線を投げてよこす。話の腰を折られても特にむっとした様子は見せない。


「彼女は悪くないよ。ついでに言うと、ぼくを責められるのも困る。喚んで、喚ばれたらすぐに来るのがルールだもの。……場所とタイミングが悪かったんだ」


 エメラルド色の目は最初青年に、次に少女に向けられる。


「人間界に喚んでくれれば、まだ影響が薄くて済む。だけどあそこは、悪霊の作り出した狭間の世界――あそこではぼくは人間界より、ぼくらしい姿で出現してしまう。そして彼女の見えすぎる目は、擬態を通り越して正確にぼくの正体を捉える。……普通はどんなに見たくても、人間には見られないものなんだけどね」

(そんな――円の一つも描かず、大精霊を喚びだしたということか!?)

「これまた間の悪いことに、ちょうど君のかけた防御陣が悪霊に破られたタイミングで喚ばれちゃったものでね。もう少し早く喚んでくれれば、あそこまで直球に負荷を与えることもなかったんだけど」


 信じられない思いで少女を見つめる魔法使いに向かって、人外は言葉を続ける。


「過負荷を負わされた脳は焼き切れ、身体は輪郭を失って溶ける(・・・)――過剰魔力超過(オーバードーズ)になっても、君を守ろうとしたんだ。自分はどうなってもいいから、君を助けたい。それが彼女の願いだった。だからぼくは――」

(冗談じゃない! それを言うなら私の方だ! 私は、私なんて、どうなってもよかったんだ! でも、彼女は、彼女だけでもと、思ったのに。これじゃ、一体私はなんのために……)

「ぼくに当たるな、小さき者よ」


 顔を上げ、大精霊に向かって詰め寄ろうとした彼だったが、大精霊の両脇の犬たちが威嚇するように牙を剥きだし、本人にも冷静な、ともすれば冷たい言葉をかけられると苦渋に満ちた顔になる。


 彼もわかっているのだ。自分の今の言葉が、子供じみた八つ当たりに過ぎないと。


 大精霊は、きっとニンフェの少女に少しだけ多く好意を与えただけ。彼なりのやり方で、彼なりの理で。


 彼女を守り切れなかったのは、すべてひとえに自分の無力のせい。


 自分が油断せず町までついていったら。自分がきちんとディアーブルを倒し切れていたら。自分がきちんとあの場から彼女を逃がせていたら。自分が、自分が、自分が……。


(――クソッ!)


 大精霊に向けていた体の向きをぐるりと変え、少女に駆け寄る。


 膝を突き、近くで寄ってのぞき込み、顔の前で手を振っても、彼女は全く応じる気配がない。すっかり生気を失って、ぼんやりうつろに消えるのをただ待っている。


(動じるな! 大精霊の言うとおりだ、当たり散らしてる暇があったら事態の打開策を見つけるんだ。考えろ!)


 自分を鼓舞しようとした心が、彼女に触れようとして腕が体の輪郭をすり抜けた瞬間、一気にしぼんで勢いがなくなる。


 青年は大きく深い緑色を宿した目を見開いた。おそるおそるもう一度、今度は腕でなく顔に、頬に触れようとする。


 やはり指は彼女の顔をつきぬけ、何もない空間を空しく掻いた。


 フローラの体は既に、触れることができないまでに消えかけているのだ。まだ、かろうじて姿だけは見えているが、このまま薄く消えていって、直に完全に見えなくなるだろう。


 魔法使いの顔はみるみるうちに青ざめていく。


 かつて、兄の腕を握り、ほんの少し力を込めた。その瞬間に、あまりにもよく似た光景。


(――うろ、たえるな、馬鹿!)


 がっと思いっきり噛みしめると口の中に鉄の味が広がったが、おかげで自失しそうになっていたところから、なんとか戻ってくる。


 切れた場所からあごに向かって垂れていく赤に構わず、彼は目の前の少女を凝視したまま頭をフル回転させようとした。


(魔法の代償――溶ける現象――)

(おそらく、からの属性による存在の希薄化――打開策は――)

(……駄目だ。からは存在を無に帰す魔法、あるものをなくす魔法。なくなっていくものを、あることにはできない。俺の知識では、力では――)


 十年前、数年間、十数年間、求め続けて結局得られなかった答え。それこそが今、彼に求められているものだった。


 静かに、静かに、諦念がひたひたと、そうひたひたと、足下から体を駆け上がり、ゆっくりずぶずぶ絶望の沼に引きずり込んでさらっていこうとする。


 それでも、諦めたくはないという思いだけが頭を動かそうとしていた。


 彼の背中から、静かに言葉が投げかけられる。


「ねえ、小さきものよ」

(うるさいっ!)


 反射的に鋭く返してから、はっと振り返った。落ち着いたエメラルド色を見る魔法使いの表情が、ほんのわずか、希望にすがりつく悲しくも醜い人の相を宿す。


(あんたは、助けてくれないのか?)

「ぼくは別に、生死はさほど気にしないから。彼女が溶けるなら、むしろそれは好都合ですらあるんだ。さっき、願いは叶えたよ。君をあの悪霊から助けて人間界まで安全に戻した。だからこれ以上は、何もしない」

(……人でなし)

「知っているでしょう? 大精霊は、人間じゃない」


 希望を砕かれ、憎しみに染まった深緑の目に対し、大いなるものの向ける瞳のなんと平らかで無情なことか。


 どれほど人間に擬態し、身近に振る舞い、寄り添っているように見えてもこれが精霊という存在の本性だ。


 彼らはけして人間に同情しない。関心や理解は持っても、真の意味で共感することはない。彼らの理に従って行動し、人の欲の浅ましさを突きつけてくる。



(わかっていたはずなのに、頼ろうとした俺が、おろかだった)


 それだけ打つ手を見つけられず途方にくれかけていたということでもある。切羽詰まっているのだ。本当に、手立てが見つからないのだ。


 大精霊に背を向け、先ほどより更に輪郭の薄くなっている少女に向けると、もう思考はほとんど緩慢になってまともに機能してくれない。無意味な堂々巡りばかりして、ひたすらに青年をさいなむ。


(人を避けて、森に籠もって、その間にも魔法の研究は続けて――だけど、結局肝心の所で、俺は何も出来ないままなのか。力があっても、奪うだけで、与えることはできないままなのか)


 うつろな琥珀色の目は、瞬きすらしない。絶えず感情と温もりを宿していたその体から、大事なものが抜けていく。


 自分は、それをここで見ていることしかできないのか。最後に触れることも、言葉を交わすこともできず、ただただ――。


「ねえ、ルシアン。ルシアン=フェルディ・ド・ランチェ。いにしえからの魔法を受け継ぎし男よ」


 再び、静かな人外の声が、座り込んでうなだれる青年の背に投げかけられた。


 今度の彼は、振り返らない。聞いているつもりがあるのかないのか、わずかに震えながらただうつむく彼は、失意のただ中にあるように見受けられた。構わずに人外は続ける。


「身を顧みず、けれど他人を諦めきれない哀れで小さなお前。愚かさはその子とよく似ているね。でも、それだけが君の姿? 君の力って、本当にそれしかできないようなものだったのかな」


 大精霊の方も、はたして聞かせるつもりがあるのかないのか、ぽつり、ぽつりと、独り言のように話している。


からに連なるものなら、とっくの昔にわかっているはずだよ。どうやったら満たされるのか。ねえ、君は本当に、消すことしかできない男なの?」


 けれど、不思議なことにその声は一言一句、奇妙によく、辺りに、青年の耳に、体に、心に通って響き渡るのだ。左右にお供を侍らせた大いなる存在は、小さく小さく、深い場所に囁きかける。


「ぼくはこれ以上何もしない(・・・・・)人は(・・)人が(・・)選ぶべきだから(・・・・・・・)。思い出すんだよ、ルシアン」


 風一つない草原がざわめいた。いや、何か変化があったのは、青年の内部の話だったのかもしれない。



 呆然とした魔法使いは大きく目を見開いていたが、先ほどまでとはほんのわずかその色が異なっていた。


 そう。彼は一度、からとなって消えていきそうだった人を取り戻したことがある。他でもない、彼が実家を出ようと決心したあの事件の記憶。


 けれど、その力はうまく再現できなかった。だからこそ、消すだけの自分の力を恐れた。大精霊の気まぐれで呪いを受けた瞬間、これでもう、二度と自分の嫌な部分と向き合わずに済むと、確かにほっとして、救われたような気がした。



 のど元に手をやる。目の前の、既にもう体のほとんどが見えなくなりつつある少女を見つめる。


 腹の中に力がある気配はあった。それを、枷を外して放り出し、御しきれたなら、望む結果を得られるのではないかという予感があった。


 ――だが。


(間違えたら、うまくいかなかったら。俺は今度こそ、大切な人を消してしまうことになる。この手で、自分の手で、大事な人を、初めて側にいてほしいと願った人を――殺す、ことになる)


 驚くことに。


 迷ったのは、一瞬だった。


 既にほとんど時間が残されていなかったせいだろうか。

 大いなる存在に背中を押してもらえたおかげだろうか。


 何にせよ、彼の中で、答えは出ていた。大きく息を吸う。


(ここで使わずに、何のための力なんだ! ここで動かずに、誰のための魔法使いなんだ!)


 決意して喉を押さえた彼は、吠える。声なき声が、草原を、空を、大地を揺らす。


 喉をかきむしるかのように動いた指は、見えない何かに傷ついた。鮮血が流れて、やがて彼の指がとらえた、首をぐるりと囲む透明な茨の枷の姿を描き出す。


 輪郭をとらえた枷を今一度ぐっと握りしめた彼は、一度目を閉じて指先に力を込め――そのまじないを、お守りを、過去の未練ごと引きちぎった。




 草原が揺れる。青年の髪が、服がはためき、飛んでいきそうになる。


 少し離れた場所の犬たちが主を見つめて不安そうに鳴くと、大精霊だけは相変わらず泰然とした態度のまま、微笑みを深めて見せた。




 脂汗を額に浮かばせた青年は、かつてないほど自分の中が荒れ狂うのを感じ、思わずうなり声を上げる。


 彼の声は、きちんと胸から喉を通り、空気を渡って広がっていく。


「――ああ」



 感嘆のような音が口から漏れた。聞き慣れないそれにきょとんと瞬いてから、表情を引き締める。


 青年は最初の試みがうまくいったことを悟ると――もはやその部分しか残っていない、少女の半透明の手に、自分の手を重ねた。


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