あなたのための魔法5
今から十年ほど前の話だ。
当時、まだ未成年の少年だった彼は、年相応に未熟で、けれど有り余る魔法の才能に恵まれていた。誰もが彼をうらやんだ。最初はただただ、魔法を使うことを楽しんでいた。
もちろん、物心がついた頃には、力を持つ者としての自覚だとか、その恐ろしさだとか、折に触れてちくちく周囲から言い聞かされていたし、彼も素直に殊勝にうなずいて見せたものだ。自覚しているつもりだった。持てるものとして。
でも、本当の恐ろしさなんて、まるでわかっていなかったのだ。
複数の属性が使えた彼は、当初自分に七つ目の魔法が扱えることを知らなかった。長い間、七つ目の魔法は彼の中で眠り続けていた。
ある日のことだ。少年は兄と喧嘩をした。なんのことはない、くだらない日常の一端だ。仲が悪かったわけではない、むしろ一番仲のいい兄弟だった。
ちょっとした小競り合いでどつき合って、ふと闘争心に火がついた。
わきあがる衝動のまま、放ったのは空の魔法――つかんだ兄の腕がみるみる透明になっていったあのときの衝撃は何にもたとえがたい。
幼い彼が危険な魔法を使わないようにと腕につけられていた安全装置は、作動すらしなかった。空の魔法を感知できなかったのかもしれない。
怖かった。自分が自分を全く制御できなかったことが。
怖かった。誰も自分を止められなかったことが。
――怖かった。他でもない自分の手で、親愛な兄を消滅させかけた、その事実が。
幸運にも事件は未遂で終わり、兄は五体満足のまま、ぴんぴんして後遺症等も見られなかった。
少年は、とがめられなかった。父も母も、その他の教育係達も、彼のしたことを彼以上に深刻に悩む人はいないようだった。兄に至っては、事件そのものがなかったかのように振る舞うほどだった。
結果だけ見れば、何も起こらずに済んだ。彼自身も疑うようになる。あれは何かの夢だったのだろうか? それにしては生々しすぎた。
ふと、何気なく試してみる。触れた物を消す魔法。伝説には聞いたことがあるが、まさか実在するはずもない。
求めるのは、無罪の証明。
握ったペンは思い通りに消えて、二度と戻ってこなかった。
安全装置は、やはりびくともしなかった。彼を縛り付けることもなければ、大人達に通報することもなかったのである。
こうなると恐ろしいのはもう一人の当事者の異様な静けさだ。
なぜ、兄は自分を告発しないのだろう。優しい彼の思いやりなのだろうか。弟にこんな力があるとおおっぴらに知られたら、彼を賞賛する人々の声は罵倒に変わるだろう。だから?
罪悪感と不穏が募る一方だった少年は、とうとうある日探りを入れる。
そして知った。なんてことはない。兄は自分の身に何が起きたのか、正確には理解できていなかったのだ。
彼はけして弟を許したわけでなく、ただ、弟が自分の認識を上回る存在だったことを、わかっていなかっただけなのだ。なまじ、弟がどうやってか、兄の腕を何事もなく、元通りにしてしまったため。
存在する物を消すやり方なら、ペンを消した時のように、息をするように理解出来た。
その逆の、物を存在させる方が、意識してやってみようとすると途端に出来ない。
火事場の馬鹿力という奴だろうか、兄の危機に立ち会ったあのときのみ、死にものぐるいで発動して、以降の普段は全く感覚がつかめない。
消す実感だけが積もって、消さない実感は一向にとらえられないまま。うっかり消してしまいそうになったとき、どうやったら元に戻せるのか。解決方法は見当たらない。
なかったことにされた事件。けれど起こした本人が忘れられるはずがない。掌の中で、温もりが、柔らかくも硬い感触が、消えていく――その瞬間をいつまでも覚えている、何度も何度も夢に見る。
次は、一瞬ですべてを消してしまうのではないかと。
後ろめたさは社交性を低下させ、周囲の目は変化に伴って以前より降り注ぐ。いつ、誰が自分を指さして、悪魔と罵るようになるのか、気が気ではない。
七つ目の空の魔法のことを、密かに調べる。
この魔法は希少だ。元々この属性を持って生まれてくる人間の数が少ない上に、人が無意識にこの危険な魔法を抑圧するからだろうか、素質があっても皆顕在化するとは限らず、一生自分が空属性であることを知らずに終わることも多いらしい。
身近に頼れる先人があれば相談も出来たろうが、彼ほど強い空の魔法を使える人間はいなかった。
孤独は募る。文献をあさっても、強力な空の魔法を使える人間に不幸が訪れることばかり知る。言わなければ、言わなければと思いつつ、優しく信頼に満ちたその目が、軽蔑と恐怖の色を帯びる瞬間だけは見たくない。
誰に教えられずとも奇妙な確信があった。先人の記録と、自分の感覚から導き出される推測。
きっとそのときが来たら――人に、絶望するときが来たら、自分は空になってしまう。空になって、辺り一帯を巻き込んで、無になってしまうのだ……。
とうとう、臆病な少年は自分の罪状を紙に書き記すと、城を出て人のいない場所を目指した。腹は減り、喉は渇いたが奇妙なほど歩き続けることができた。浅い傷はすぐに治った。
深い傷は、怖くて積極的には負うことができなかった。
――そうして、そのうち彼は森にたどり着き、そこで暮らすことになる――。
意識が落ちていたのだろうか。嫌な夢を見た気がする。
ぼんやりと霞がかった中で、頭が懸命に動こうとしている。
(なんてザマだ。どれだけ平和ボケしていたんだ、俺は)
意識の次に戻ってきたのは、指先の感覚だった。
硬い地面の上、突っ伏したまま握り拳を作る。ぐっと噛みしめた唇が、まもなく自嘲の形にゆがんだ。
(馬鹿だ。どんなに近くにいたいと思っても、側にとどめておきたいと思っても。空の魔法使いが、誰かと一緒にいたいなんて思っちゃいけない……そういうものだったじゃないか)
自分が何のためにアルチュールの森にやってきたのか、どうしてそこで一人で暮らし続けていたのか。
こんな大事なことを、何故ほんの一瞬でも忘れる気になれたのだろう。手放せなくなる? 自分で言った言葉に吐き気がする、最初から手にすることも出来ないくせに。
一人の時間はいささか長すぎた。不意に訪れた二人の時間が思いの外楽しくて仕方なかった。
彼女がもっと距離を取る人間ならこちらも事務的に接することができたのかもしれないが、いつも後を懸命に追いかけてきて、待ってくれるのだ。子犬のような愛くるしさ、けなげさに、ほだされた。
(俺はいつもそうだ――中途半端に、我慢できなくて。駄目だとわかっているのに、抑えきれなくて。取り返しのつかないことになってからでは、遅いのに――)
握りしめた拳で地面を突こうとして、ふと手が止まる。
自分は何をしていたのか?
悪霊との戦闘中、意識を失って――。
ようやく現状を思い出し、目を開けると景色が一変していた。
怪しげな城と聖堂は消え去り、どこぞの草原の中に一人放り出されている。森とまでは行かないが、辺りに木々もちらほらと見えた。人の気配はない。
ぽかんとしかけて、気を引き締めた。自分の格好や持ち物を改める。
(たぶん、俺自身の状況は、さほど変わっていない。あの空間から、おそらく人間界のどこかに戻ってきていると言うことは、ディアーブルが完全に消滅したということ……気を失っている間に、決着がついたのだろうか?)
彼は眉をひそめる。
不意打ちを受けた時、少女を守るための手は打った。強度や時間にいささか不安はあるものだろうが、彼女には精霊がついているし、呼び出すことができる。うまいこと逃げてくれればと、確か落ちる直前に思った。
――少女。
(そうだ、彼女は、どうなった? 無事か!?)
嫌な想像がぱっとよぎり、彼は慌てて周囲を見回す。
すぐに見つけた。想定していた最悪の状況ではない。彼女の方も、こちらの世界に戻ってきていた。
けれどある意味、さらに状況は悪化しているのかもしれない。
見覚えのある茶色の髪が目に入ったとき、安堵の息を漏らそうとした。直後、鋭く息をのむ。
魔法使いから少し離れた場所に、座り込んだフローラの姿はあった。表情はうつろで琥珀色の瞳は焦点が合っていない。
その体は淡い光を放ちながら半透明に透け――徐々に徐々に、薄くなって消えていこうとしているのだった。