あなたのための魔法4
不意打ちを受けた魔法使いは、咄嗟にローブのポケットから何か取り出すと、フローラの方に放ってよこした。
地面に当たって砕けた小瓶の中から、白い小鳥のようなものが何体か飛び出してフローラの周りを飛び回り、飛ぶ跡に尾を引くような光を編んで、薄く淡い球形を作った。即席の光の球に閉じ込められた形になったフローラは、中で悲鳴を上げる。
「魔法使い様!」
煙の初撃をなんとか転がるようにして避けた彼が、体勢を立て直しながらさっき傷つけた左腕の袖をもう一度まくろうとした瞬間。
「馬鹿め、二度同じ轍は踏まぬ!」
煙がたわんで吠えたかと思うと、素早く伸びて線になる。線は伸びに伸びて魔法使いの手に飛びつき、彼が腕に文字を描くよりも早く、右手の動きを封じた。
「魔法使い様っ!」
深緑色の目が苦痛にゆがむ。右手が煙の中に飲まれた瞬間、さらに左手でローブから何か取り出そうとした彼だったが、またも後手に回った。煙の方が早い。
邪悪な黒い塊は魔法使いの身体を絡め取ると、右手の動きを封じたまま素早く彼を空中に放り投げ、そのまま腹の辺りにパンチでもたたき込むように突撃し――。
聖堂内に衝撃音が響き渡った。
ちょうど祭壇の向こう側、まがまがしく仰々しい、いかにも怪しげな儀式のための装飾がなされている部分に、魔法使いはたたき込まれた。
がらがらと、彼の背中で怪物をかたどった彫像が崩れ去る様子が、衝撃の大きさを物語る。あんな勢いで固く尖った石にぶつけられたらどうなるか。フローラは高い悲鳴を上げた。
散った埃が多少マシになると、応戦しようと上げていた彼の左腕がだらりと垂れ下がり、ぐったりと全身から力が抜けてまぶたが閉じられているのが見える。
まもなく支えを失って祭壇上に落っこちてきた彼の身体の上で、黒い煙がうねうねととぐろを巻きながら勝ちどきの声を上げる。
「フフフ……貴様が空を含めた複数属性使いであることはなかなかの脅威だったが、どうやら空の魔法は他属性と少々使い勝手が違うようだな? 普段は厳重に封じているのだろう、それを文字で解く作業を挟まねば、空の魔法をまともに使うことができない」
フローラははっとした。
言われて思い返してみれば、先ほど、ディアーブル伯爵に触れる直前、魔法使いは自分の腕にひっかき傷を作り、その血を使って腕に何か文字を描いていた。
そしてその後、壇上の魔法使いに近寄ろうとしたフローラを制しつつも、文字をぬぐって安全な状態に戻していた――。
(そんな――わたしが、わたしが!)
「消した範囲を見誤ったのもさることながら、小娘に触れられる可能性を案じて一度封印を戻したのが命取りだったな」
ディアーブルは、本人が説明してくれたとおりに悪霊が人間の男の身体を借りてできあがった存在だ。
先ほど魔法使いが消したのはあくまで表層である器の部分のみ、中身の悪霊までは抹消しきれていなかったということだろうか。
そうであれば、死霊魔法でできた手下どもは消えても、ディアーブルの作り上げたとか言うこの空間には変動が起きなかった理由にもうなずける。
魔法使いも警戒は続けていたぐらいだ、当然その可能性も考慮していたのだろう。
――それなのに、フローラが邪魔をした。フローラが彼の隙を作ってしまったのだ。
「それもなんだ、我輩を迎え撃つより、小娘に防御陣を与えることを優先しおったと来た。よほど可愛がっていると見える。げに人間とは愚かしくも無様な生き物よ、戦えない足手まといなぞ放っておけばよかったろうに」
(わたしの、せいで!)
「そうだ小娘、お前は本当に素晴らしい。貴様自身の素質もさることながら、こんな上等な、またとない獲物を我輩の所まで持ってきてくれた。本当にお前はよくできた花嫁だよ」
ディアーブルの猫なで声は、自分を責めるフローラをさらなる絶望の中にたたき落としていく。
黒い煙はぐったり気を失った青年の上でうねうねうごめき、自分を守る光の中で顔色をなくしている少女をあざ笑う。
「そこでおとなしく待っていろ。今からこの男を新たな憑依先にしてくれる。貴様の洗脳はそれが終わったら改めてじっくり施してくれるわ。この男程の力があれば、なんだってできる――あんな、他人の足を引っ張ることだけに優れていたちんけな男より、ずっとずっと邪悪な存在になれる! この男の身体があれば、我輩は本当に世界を壊すことができる! フハハハハハハハッ、ハーッハッハッハァーッ!」
(いやだ……そんなの、いやだ……!)
魔法使いの優しくも残酷な守りの中で、フローラははっと自分にもたった一つ、できることがあったのを思い出した。
(わたしのばか、なんで今まで――いいえ、後悔は後でいくらでもできる、今は――間に合わせないと! わたしにだって、できることが、ある!)
自分の愚鈍さを呪いつつも、素早く口を開いた。
「かまどの左手さん、井戸のせせらぎさん、屋根の上の風見鶏さん、足下の力持ちさん――!」
最初に唱えた時はわけもわからないまま願いが叶えられたわけだが、今回は何が起こっているのか見届けることができた。
呪文に呼応するように、フローラの周り、四方の床にさっと赤、水色、白にオレンジの四色の小さな魔方陣が広がり、そこから光の球が飛び出す。
精霊だ――フローラが口にしたのは、精霊を呼び出す呪文だったのだ。
一瞬、驚きで目を見開いてから、気を取り直した彼女は表情を引き締め、祭壇上を指さす。
「魔法使い様を助けて――その煙を、やっつけて!」
続けたフローラの言葉に応じるように、四色の光は一層強い光を放つと、ぐるぐる輪を描いて黒い煙に飛びかかる!
――が。
「素養のない只人が! これしきの低級精霊で、我輩がどうにかできると思ったのか!」
「――ああっ!」
四色の光はバシンと音が響く勢いで、黒の煙にはじき飛ばされた。
精霊達の声なき悲鳴が鼓膜の奥に響き渡り、フローラの心が、身体が痛んで、彼女は思わず身体を折り曲げる。
(ごめん……ごめんね、みんな)
喚びだした精霊が傷つくと喚んだ方にもダメージが来るのか、フローラの胸はずきずきと鈍い痛みを放つ。ディアーブルのすっかり図に乗って謳うような抑揚をつけた言葉が、さらに突き刺さった。
「低級精霊を攻撃に使うとは愚かな。貴様の鈍い刃で何が切れると言うのだ? この男も同じこと、お前達には自分が悪者になる覚悟が足りない、だから弱い。だが今のヘマのおかげで、何故貴様が以前我輩の城から姿を消したのかも理解できたよ。今回も自分のために使えば成功したろうに、自ら退路を断つことになったな――」
(もう、同じ呪文は通じない。でも、わたしが知っているのはこれだけ。いったい、どうしたら――)
状況は悪くなっていく一方だ。
かすむ視界の中、青年の上で渦巻く黒い煙がのたくっているのが見える。
「ぐぬっ――さすがは空の魔法使い、あの馬鹿とは違って簡単には主導権を譲らぬか」
どうやら煙は魔法使いの中にうまく入り込むことができないようだった。煙が触れようとするたびに、魔法使いの身体は反発するようにばちりと音を立てて光を放つ。
それが術によるものか、素養によるものなのかはわからないが、だからといってフローラ達の不利な状況が好転したわけではないことだけはわかる。
彼は依然として気を失ったままだし――よく見れば、額からつっと、赤い線が顔を伝って流れていっていた。彼女の胸は引き裂かれんばかりに痛んだ。
しばらく青年と格闘を試みていた煙は、やがて動きを止め、祭壇上から見下ろした。
聖堂内の中央付近で、自分の無力さに打ちひしがれ、がっくりとうずくまっている少女の方を。
「ふむ……今までこの男が崩れるときは必ず小娘が鍵になった。ならば今回もそうかもしれぬな」
不吉な言葉に青ざめたまま顔を上げたフローラに向かって、黒い塊が飛びかかってくる。
壇上からさっと降りてきた煙は、あっという間に少女を小鳥たちの作る防御の球ごと包み、じわじわと浸食を開始した。
「フハハ……そうだ、もっと恐慌に陥れ、絶望しろ! 負の感情が強まれば強まるほど、我輩の糧となる!」
大きな琥珀の瞳いっぱいに涙をため込んだフローラに、ディアーブルがいっそ優しい声音をかけてくる。
彼女はすっかり止まってしまいそうになる思考を懸命に動かそうとした。
(駄目――このままだなんて、絶対に駄目だ。なにか、なにか、考えないと。魔法使い様が寝てしまった今、なんとかできるのはわたしだけ――)
これだけ徹底的に、悪い原因になっておいて? フローラはいつもそうだ。いつも役立たずだ。悪いことばかり引き起こす、出来損ないの人間なのだ。
打ち消しても、打ち消しても、染みついた劣等感が、低い自尊心が、低く暗く、冷たい場所に絡め取って行こうとする。闇は徐々に広がり、光は細くなっていく。
諦めてはいけないことだけはわかる。彼女が諦めた瞬間、たぶんすべては終わってしまう。魔法使いも助からない。
だが、ただ目が良くて、少しだけ精霊に好かれやすいだけで、魔法には付け焼き刃程度の知識しかなく、素養のない彼女に、一体これ以上何をどうすることが出来るというのか。
(……できる。できるわ、わたしなら)
極限まで追い詰められたせいか、自分の深い場所まで降りていったせいか。
ディアーブルも聖堂も魔法使いもすべて見えなくなった、いつの間にか閉じていたまぶたの裏の暗闇の中、ふと唐突にフローラは思い出す。
――奥底に封じられた禁忌の扉の向こう側に、かつて眠らされた記憶の中に、解決策があったことを。まだ、自分に禁じ手があったことを。
(低級で話にならないというのなら、もっと上位の存在を喚べばいい。わたしなら、誰だって喚べたはず!)
――けれど。
それは、やってはいけないことだ。可能性を考えただけで、全身の鳥肌が止まらなくなり、冷や汗が吹き出る。
頭が忘れても、身体は覚えているのだ。かつて幼い身に降りかかった、恐ろしい出来事を。彼をこの場に喚ぶことが、自分の破滅につながるということを。
(彼らと仲良くするのはいいわ。でも、彼らは怖い存在でもある……)
(だめよ、フローラ。その先に行ってはだめよ……)
(でないと、あなたは――)
頭をなでながら言い聞かせてくれた母。けれど、彼女はもういない。
――守ってくれる存在は、もういない。
――けれどそれは逆に、フローラがもう一度同じことをしても、悲しむ人はいないということ――。
まぶたを開ければ、琥珀の瞳には不思議と、身を取り巻く守りの光球でも、それを侵そうとする邪悪な煙でもなく、少し遠くに倒れている青年の姿が、それのみがくっきりと浮かぶ。
フローラの身体から余計な力がふっと抜けた。彼女は花がほころぶように、微笑みを浮かべる。
(構うものですか。あの人を、ここで失うぐらいなら――)
――わたしは、どうなってもかまわない。
光球を作り出す光の小鳥たちが、一羽、また一羽と闇に飲まれ、消されていく。
最後の一羽が消えたのと、フローラが小さな、ほとんど消えそうなつぶやきを――ずっと昔から知っていた一人の精霊の名前を発したのは、ほぼ同時だった。




