あなたのための魔法3
二人の位置関係は、ディアーブルが消滅する前と逆転していた。階段の上に魔法使いが一人で立ちすくんでいて、フローラは聖堂の中央辺りから彼を見上げている。
ディアーブルが消えると、辺りにあった不気味な骸骨や屍肉人形の姿も消えてしまった。術者がいなくなると、姿を保っていられない。そういう類のものだったのだろうか。
けれど、周りのことよりも何よりも、フローラは今、魔法使いにかけるべき言葉について、頭を悩ませていた。
「あ、ありがとう、ございました……」
ようやく話せた彼女に、微動だにせず壇上のディアーブルが消えた辺りを見下ろしていた魔法使いが振り返った。たった今、その存在を思い出したとでも言うかのような風情だ。
こちらを見下ろす彼の瞳の不気味な発光は収まり、向けられる眼差しにディアーブルに向けていたような冷酷さはない。
けれど、今までフローラを見ていた目より、何かこう、よそよそしさのような――距離を感じる。けして、フローラの気のせいというだけではないだろう。
(……壁が、できた。わたしと、この人の間に)
敏感に感じ取った変化に、階段を駆け上がって側まで歩み寄ろうとしていた足が、自然と止まった。
そんな彼女の様子を見て、彼は自嘲するように口角をゆがめる。半歩下がって、さらに自分から距離を開けていく。
『今の私に触らない方がいい。危ないから』
魔法使いが目を伏せた先、石でできた床の一部がバリバリと外れ、手の中に収まった。即席の石版に文字が浮かぶ。
気のせいだろうか、その筆跡すらどこか他人行儀な感じがする。まるで出会ったばかりの頃に、戻ったようだ。
(……いいえ。出会った時だって、こんな態度ではなかったわ。あのときはただ、この人も、急に現れたわたしに対する距離感がわからなくて、戸惑っていて――でも、いつだってわたしに、不器用でも、手を差しだそうとしていた。わたしがどんなヘマをしても、話を聞いてくれないことはなかった。なのに――)
少々乱暴な手つきで文字を見せた彼は、その後素早く腕をごしごしとこすっている。汚れでもついたのだろうか? 気が済むと、筆談を再開させる。
『ここは――この城のある場所は、ディアーブルの作り出した異空間なんだ。主がいなくなったらすぐに崩壊するかと思ったが、どうやらその気配がない。私はもう少し、この場所を調べていこうと思う。本当はこんな場所、あなただけでも先に帰したいところなのだが、私の見ていない場所で襲われるようなことがあっても、あなたは対処できないだろうし……だからまだ、あなたの目の届く場所に、私がいることを許してほしい』
「どっ――どうしてそんなこと、言うんですか……? わたしが、あなたから離れたがっているとでも言いたげな、お言葉です」
何を口にすればいいのかわからずに、おどおどしながら立っていたままのフローラだったが、これにはさすがに声を上げた。
魔法使いが今まで自虐するとしたら、傍目にも彼が平均よりできていないようなこと――つまり、主に壊滅的な生活力とか――しか話題にしようとしなかった。自分の性格だとか能力だとか、そういうものを悪し様に言ったことはない。
フローラの自信がなさすぎることに眉をひそめ、卑屈がすぎると叱ったことすらある彼だ。
こんな、自分への嫌悪感のにじみ出る言葉を明言する姿は――初めて見る。
それに、かけられた言葉にまるで針でちくりと刺されたかのように、びくっと肩をふるわせ、その目に不安の色を浮かべるのも。
『無理しなくていい。あんなものを見て、気分が悪くならないはずがない。触れた存在を抹消する空の魔法。そんなおぞましいものに、あなただって近づきたくはないだろう? 自分だって消されてしまうかもしれないんだから』
「わたしは――」
『それ以上近づくな!』
荒んだ様子の魔法使いに、フローラははっと息を飲み込んだ。
ところが滑稽なのが、直後に鋭く彼女の接近を制した彼自身が、自分で放った言葉によっぽど傷ついたような顔を一瞬することである。
彼はすぐに平常心を保ち、真顔に戻ろうとするが、フローラの目はいろいろなものがよく見えることに定評があるのだ。ごまかされたりなんかしない。
フローラは頭に浮かんだあらゆる言葉を、一度深呼吸で飲み込んで、自分の中に落とし込んだ。ここは慎重になるべきところだ。きっと、今は彼より自分の方が落ち着いていて、この状況を好転させることができるとしたら自分の方だ。
彼女は魔法使いの圧倒的な力に驚きはしたが、だからといって彼を避けようとは、全く思わない。確かに先ほど、驚きのあまり何も言えなかったことは、彼を傷つけたのかも知れないが――。
悩んで、迷っている間にも、一方的に広げられてしまう距離。どうやったら縮めることができるだろう。
(だいじょうぶ……今の彼が、いつもの――いいえ。前までのわたしと、同じなら。わたしはきっと、どう伝えればいいのか、どうしたら彼がわたしの言葉を聞いてくれるのか……誰よりもよく、わかっているはず。きっとまだ、言葉は届くはず)
考えてから、考えながら、フローラはさらに何度かゆっくりと呼吸を繰り返し、静かに唇を動かす。
「わかりました。これ以上、魔法使い様の嫌なことはしません。お仕事の邪魔だって、したくありません。ここから動くなと言うなら、動いていいと言われるまでここにいます。ご指示に従います。どうすればいいのか、教えてください」
耳を塞いでいる人間に下手にこちらの意地を通そうとしても、なおさら相手の態度も強硬にしてしまうだけだ。だから、最初はその場に立ち止まる。
「でも、これだけは勘違いしてほしくありません。わたし、あなたの力に、とても驚いて……怖いと思う気持ちも、確かにゼロではないです。けれど、それがおぞましいとは、けして思わない。それに、あなたがわたしの理解出来ない力を使えるからって、あなたと離れたいなんて、絶対に思わない」
相手が自分の砦に閉じこもっているとき、耳障りのいい言葉でなだめても、逆に反感を買うだけ。ならばいっそ、先にネガティブなことを言う。その上ですぐに、訂正する。どうか最初の言葉が呼び水になって、後の言葉もちゃんと聞いてくれますようにと、念じながら。
「離れている間、ずっとあなたが隣にいないことを感じていました。あなたがいないと、何かが足りない感じがして……早く、森に帰りたかった。もう駄目なのかと思ったときに、助けに来てくれて、本当に嬉しくて、幸せで――」
彼女は待った。程なくして、沈黙に疑問を抱いたのだろうか、単純にこちらが気になったのだろうか、視線を外していた魔法使いがゆっくり顔を上げた。きちんと目が合うまで待ってから、フローラは続ける。
「だから、そんな風に、まるでわたしが放っておけばこの場からあなたに背を向けて逃げ出してしまうって、決めつけているようなことは――言ってほしくない。わたし、あなたと離れたくないです。わたしがあなたと離れたがっている? 誤解です。……そんなことを言わないでください。お願いです、魔法使い様……」
両手を胸に、フローラが後半鼻声混じりになりつつも言葉を紡ぐと、魔法使いは大きく深緑色の目を開けた。
明らかに動揺している彼は、よろよろ後ずさり、ガンッ、と派手な音を立てて祭壇に腰をぶつけ、無言のままさすっている。割と、かなり痛そうだった。
彼はおろおろとしながら口を開き、自分の声が出ないことを思い出してびっくりした顔をし、慌てて石版を向けてこようとした。
――その、瞬間。
完全に二人ともお互いのことだけになって、周囲への注意がなくなっていた、その隙をついて。
「ハーッハッハッハッハァ! 油断したな、空の魔法使いィィィィィ!」
ぶしつけな声が聖堂に響き渡ったかと思うと、魔法使いのすぐ後ろにある祭壇の辺りから突如吹き出た黒色の煙が、無防備な彼に背中から襲いかかった。