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言えない言葉

「……!」

「…………」


 何か、違和感を感じた。意識が浮上する。


(……?)


 ぼやけた視界の中、言い争っている男女の声が耳に届いてきた。


「一体どういうことなんです、説明していただけませんか?」

「どういうことも何も、あなたが何度も食ってかかってくるので、こちらも身の潔白を証明しようと思ったのではないか。さあ、確認してみてくれ。妻はこの通り元気だ、何の問題もないだろう?」


 聞き覚えのある二人分の声に、フローラははっとした。ぼやけていた頭がすっきりする。


 すぐに自分が、なにやらうるさくわめき立てようとしているイングリッドと、酷薄な笑みにたっぷり余裕をにじませたディアーブル伯爵と一緒に立っているのを自覚する。


 服は出かけようとしたときのままだ。場所は――アルチュールの町とは打って変わっているが、どこか見覚えがある。


 すぐに思い出した。ここは、フローラが生まれ育ったディーヘンの町の近くの道だ。


(イングリッドの意識が戻っている……? でも、今度はかわりにわたしの体が動かない。それに、アルチュールの町から移動させられてしまったの? あれから、どのぐらい時間が経ったの?)


 最後に見たアルチュールの町は紅色に染まっていた。今は、薄暗い曇り空が見える。真っ暗でないから夜にはなっていないようだが、はっきりとした時間はわからない。


 意識がしっかりしたおかげで思考は回るが、体は声も出ない、指先一つ動かせない。自分が置物の人形の中にでも閉じ込められた気分だ。


 イングリッドがそんな彼女をいぶかしげにのぞき込んで、声をかける。


「……フローラ?」

「ここのところ気分が優れないらしくてね。だが、これでもうわかっただろう? 我輩が妻達を殺している? とんでもない、根も葉もない荒唐無稽な噂話だ。今まではあくまで縁に恵まれなかっただけのこと、それも今回で終わる。妻は素晴らしい、我輩達はきっと良い夫婦になれると、出会った瞬間に確信したよ」


 厚かましくも平然と、男は騙ってみせる。その言葉や相対するイングリッドの態度・反応から、どうやら彼女にかけられていた魔法は解除され、しかもその間のことを覚えていない状態なのではないか――とフローラは推測する。


 何にせよ、動けないままでは、注意を促すことも、事情を説明することもできない。


 フローラが立ち尽くしていると、ディアーブル伯爵の謳うような言葉でたちまち、蜜月を堪能していた新婚夫婦の事情を知らない外野のイングリッドが、余計な暴走・誤解をした――そんな偽物の物語が仕立てられていく。


 イングリッドは半信半疑というか、ディアーブル伯爵の言葉に漠然とした違和感を覚えつつも、決定的な証拠を握れていないので強硬手段に出られない、といった風情だった。


 そもそももし何かしらの確信を得られていたとして、彼女はただの人間の小娘で、伯爵は怪しげな術を使う魔法使い、しかも詳しいことはわからないが伯爵の身分を名乗っているような男なのだ。このまま一人で相手をするのには危険すぎるし、状況が改善されるとも思えない。


 無力な彼女に今すぐ立ち去ってほしい気持ちと、心強い唯一の味方にここにいてほしい気持ちが葛藤する。


 何よりも、こんなに考えていることがあるのに、伝えたい相手が目の前にいるのに、言いたい言葉が浮かぶのに――喉から何も出てこない、この状態がもどかしい。



 ふと、何かができないか、どこかが動かせないか試行錯誤しているうちに、ディアーブル伯爵の表情が視界に入ってくる。


 彼はフローラと目が合うと、露骨に口の端をゆがめた。


 フローラは自分の体の奥が冷え切るのを感じる。


(この人はっ……わざと、わたしが何も出来ないけれど、頭は、心だけははっきりしている状況を作り出して、何も出来ないわたしを、横であざ笑いながら、楽しんでいる!)


 さすがのフローラも、怒りの感情を覚え始めている。けれど無情にも現実は、どんなに彼女が心の中で叫んだところで全く動かない。


 伯爵がイングリッドとフローラの間に割り込むように一歩歩み出た。


「さあ、お引き取り願おうか。これであなたの目的は果たせたのだろう?」

「お言葉ですが、伯爵様。あたしは、フローラ本人の言葉が聞きたくて――」

「お忘れのようだが、我輩達は新婚なのだよ? あまり邪魔はしないでもらおうか。これ以上しつこくするなら、こちらも対応の仕方を考えねばならないな、マドモワゼル。それにはっきり言うが、君にはほとほと妻も迷惑しているんだ。昔からそうで、やっと縁が切れたと思ったらこれだと、我輩に話してくれたよ。もう、口もききたくないどころか、本当は顔を見るのだって嫌なのだそうだ」


(違う――違うのに)


 かつてそんな風に考えていたことが全くなかったと言い切れないだけに、つい最近まで彼女の方こそ意地悪で自分を嫌っているのだと考えていた時があるだけに、余計に胸が痛んで張り裂けそうだ。


 きゅっと、イングリッドが唇をかみしめたのが見える。


 彼女は少しだけ悔しそうにうつむいて地面をにらみつけていたが、すぐにディアーブル伯爵の背後に隠れるように立っているフローラを、射貫くように強い眼差しで見つめてきた。


「いいのね。全部あたしの余計なお世話、独り相撲だったのね。あんたは本当に、これでいいのね。あたしに何も言うことはないのね?」


(ある、あるわ! お願い、気がついて! この人に近づいてはだめ、言うことを聞いてはだめ。今まであなたのことをずっと誤解してきたの、あなたの嫌な部分ばかり気にしていたの、ごめんなさい。それなのに、わたしのことを気にかけてくれて、危険を冒してまでも追ってくれて、本当に、本当に、ありがとう――ああ、声に出したい言葉がこんなにも、こんなにもあふれ出して、はちきれそうなぐらいなのに、どうして!)


 イングリッドはじっと、かなり長い間、フローラの答えを待っていた。けれどフローラは動かない、動けない。


「そうね。あんたは元々、何も言わない子だった。色々考えているみたいなのに、口に出さない子だった。それにあたしはずっと意地悪だったもの、嫌われているのが当然よね。今更言うことなんて、何もない……か」


 彼女は、どうしても出てくる言葉がないのだと理解すると――ぐっと顔をゆがめてから、自嘲するような表情になった。


「それでも、あたし、一度ぐらいちゃんとあんたと喧嘩をしておきたかったのよ。あんたの声が聞きたかったわ。……でも、そんな風にしてしまったのは、きっとあたしのせいでもあるのね」


(イングリッド――!)


 勝ち気で矜持の高い従姉妹は、ぎゅっと唇をかみしめ、肩を、全身を怒らせながらも、自らの非を認めて優雅に腰を折る。


「大変、ご迷惑をおかけしました。ディアーブル伯爵様、および伯爵夫人様。あたしの――勘違いで、お二人の新婚生活に水を差すようなことをしてしまいました」

「わかってくれたのなら何よりだ。こちらも水入らずの新婚旅行中だったのに、わざわざ予定を変更してまで足を伸ばした甲斐があった」

「……今後はもう、このようなことはいたしません。どうぞ、お幸せに」


 ずきり、とフローラの胸は痛む。幸せに、の言葉は冷ややかではなく、温かみを伴っていた。


 イングリッドは顔を上げるとき、もう一度だけフローラを見てから、すっかり何かを諦めた表情になる。伯爵にもう一度だけ頭を下げてから、くるりと向きを変えて、振り返らずに道を歩いて行ってしまう。


 その背中を、遠ざかる後ろ姿を、フローラの目が必死に追う。


(待って、行かないで、イングリッド。わたし、あなたとまだ、何も話せていない。何も、あなたに――!)


「君が今後も我輩に従順に従うなら、このまま何もせず彼女を帰してあげよう。わかるね?」


 突如投げ込まれた冷ややかな言葉に、フローラは動けないままの体が凍えきるのを感じる。


 瞬きまで制御されていた先ほどまでと違って、今度は目だけが意思に従う。男がゆがんだ笑みを浮かべているのがわかった。


「彼女を殺せないこともないのだが、やはり居場所のある人間は後処理が面倒だ。ならばこのように、自主的に諦めさせる方が穏便に済むだろう。下手に火種を広げて、追っ手をかけられても我輩の計画に支障が出る」


 おびえきった琥珀色を向けられて、アイスブルーの瞳を持つ男は冷淡に嗤った。フローラの頬に、手袋をしたままの手を伸ばし、ざらりと指の腹で頬からあごにかけての輪郭をなぞる。


「その点、君は本当に都合のいい、最高の女だよ。未成熟な“迷い子”でありながら、保護者もなく、いなくなっても誰も心配しない。ようやく見つけたんだ――絶対に、逃がさないぞ」


 距離がそのまま詰められ、男の手がフローラの腰に回る。


 彼の言うとおりだ。誰も孤独なフローラを助けに来ない。頼みのイングリッドも行ってしまって、体は動かない。彼女に出来ることは何一つない。このままもう、好きにされるしかないのだ。


 不快感をこらえるようにぎゅっと閉じたまぶたの裏、さっと一筋の光が差し込んだ。


 ――だけど、全部終わったら、必ずここに、森に、私の家に戻ってきてほしい。私はこの先も、あなたを必要としている。あなたにいてほしい。ここに。


 邪悪な魔法使いがフローラを抱えているのと逆の手に、握っていたステッキをくるりと回すと、異空間への入り口が開かれる。その向こうに、いかにも危険で寂れた風情の漂う古城がぽつんと浮かんでいた。


「さあ、えらく手間がかかったし、遠回りになってしまったが、これでもう邪魔者はいない。改めて、我が城にご招待だ。式のやり直しをしようじゃないか」


 咄嗟に芽生えた小さな希望が、はたしてこの先救いとなるのか、それともさらなる絶望を導くのか。


 フローラはわからないまま、男に連れ去られた。

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