こわいこと 2
「どうして泣いているんだい」
気がつくと、見知らぬ少年が横に座っていた。年の頃はフローラより少し上ぐらいに見える。十歳程度、というところだろう。
フローラは顔を上げると、ずぶ濡れの真っ赤に腫らした目をぬぐおうともせず、えづきながらも答える。
「パパとママが、しんじゃったの。わたしのせいなの。わたしがいい子にしなかったから、きっと――」
「んん? ごめん、もう少しその辺詳しく。ちょっと何言ってんのかよくわかんない」
明らかに不幸があり、嘆き悲しんでいる幼きフローラを前にして、少年はどこか脳天気な調子を崩さない。つまりは無神経なのだと思われる。
少し傷つきつつ、けれどその、自分はまったく無関係なのだとでも言いたげな距離感に、助けられる部分もあるような気がして――フローラは、葬式の最中、他の人の前で言えなかった胸の内のわだかまりをぽつりとこぼした。
「わたしが、やくそくをやぶったから、いけないの。いっちゃいけないところまで、いっちゃったの。ママが、たすけてくれた。でも、でも、そのせいで――」
「あー。あれだな、君は自分のためにママが力を使いすぎて調子が悪かったから、事故を避けられなかったと考えているわけだな。そりゃあ、間違えてるよ。ちっぽけで無力な君たちの存在なんてたかが知れてるんだ、人の身で運命に因果を見出すのはむしろ傲慢というもの」
「よくわからないけど、いじわるいわないで……」
「なんでさらに泣くのさ、慰めているんだよ!?」
より一層はらはらと大粒の涙をこぼす彼女に向かって、少年はぎょっとしたような顔になった。唸って、首を何度もひねってから、人差し指を立てて振り、神妙な顔つきで言う。
「あのね。君のパパとママが死んだのは、ずっと前から決まっていた運命だから、君が責任を感じる必要はこれっぽっちもないんだ。たとえもし、君が今の記憶を持ったまま過去に戻っても、別の形で彼らは死んだだろうよ。運命とはそうしたものだから」
「うんめい……? しんじゃうことが……?」
「いつ死ぬか、そんな些細なことは皆もうとっくの昔に決められているんだよ。生まれてくる前から。今更君ごときが頑張ったところで変えられないって、だって君まだただの人間だもん」
「いじわる! わかんない、そんなの!」
「そうかあ、だめかあ」
少年はフローラの罪悪感を抑える言葉を――つまり彼なりの励ましの言葉をかけようとしているのかもしれなかったが、失敗した。
けれどフローラが鋭く彼を拒絶する言葉を発しても、それ以上何かをすることもなく、さらりと流して隣をキープする。
幼いフローラは再び膝を抱え、突っ伏して泣きじゃくっていたが、激しい感情というのはそういつまでも続かないもので、やがて泣き喚くのにも疲れてしまった。
そろそろと顔を上げると、まだ隣に少年がいる。
――薄けぶる雨の作るもやの中、ほのかに淡いエメラルド色の瞳が、大層印象的だったことを覚えている。きらきらと、きらきらと、宝石のように、輝いて――。
じっと眺めてから、ぐすん、と一つまたしゃくり上げ、フローラは素朴な疑問を向ける。
「あなた、だあれ?」
当然のように横に居座られているが、もっともすぎる疑問だった。
大人達の目をかいくぐって抜け出してきて、使われなくなった教会で一人泣いているフローラを、この少年はどこからやってきてどう見つけたのだろう? この近くの子どもだろうか。それにしては、何かがおかしい気がする。はっきりとは言えないけれど、何かが……。
しかし彼は彼で、フローラの言葉にくっと眉を跳ね上げ、ちょっと表情を変えて見せた。
「むむむ。なんと、心外なことを言うね。ぼくと君の仲じゃないか」
「……? わたしたち、まえに、あったことがあるの?」
「そうだなあ。さかのぼれば数千年前――まあ、そっちは絶対覚えてないからいいとして。直近の現世だと一月以内にお近づきになった仲なんだけどなー。そっか忘れちゃったのかー、おにーちゃんちょーっとショックだぞー?」
フローラは眉根を寄せ、尻でいざって少年から少し離れた。
彼女の方にはあまり心当たりがなかったように思えたし、何より数千年前が云々と言われたら、てっきりからかわれているのだろうと感じた。
先ほどから少年は両親を亡くして失意のさなかにある少女を前に、軽い調子を崩さない。はっきり言って、不愉快に思う気持ちも芽生えてきていた。
そんな彼女の心を知ってか知らずか、彼は何度か首をかしげていたが、ぽんと手を叩く。
「あ。ひょっとしてあれか。単純に見た目が違いすぎて、あれとこれが同一だって認識できてないのかな。とは言えこの場で本性を見せるのも……この辺り一帯が向こう百年ほど更地になる覚悟をだね……まあつまり、無理だってことなんだけど……さすがにそこまでやらかしたら各所方面から怒られそうだしねー」
「……?」
「それとも、ああ、そうか、そっちか。君はどうも目以外の能力は父方が濃く出たみたいだけど、君のママはニンフェの一族として素養のある――それもかなり力の強い人だったからね、危ないことは記憶ごと封じてしまったのかも知れない。ま、それも悪いことばかりでもないかもよ、ぼくに近いってことはその分人から離れていくってことだし。ちょっと寂しいけどさ」
「?????」
ぺらぺらと戸板に水を流すようにまくしたてられる内容に、フローラがすっかり困惑していると、少年はふ、と息を吐いた。膝の辺りをはらって、急に立ち上がる。
「さて。ぼくはそろそろ行くよ。人に生まれたなら、人のまま。それが君の親の願いだった、確認しに来てよーくわかったよ。ならばぼくも、しばらくはそう思っておこう。初めの時と終わりの時と同じように、選んで、選ばれてごらん。何度でも生まれて生み直し、また何度でも繰り返す。苦しみと楽しみの中、痛みのある世界で、営んで、育んで、そしてまた巡り会い、誰かに心奪われるんだろう。いつか円が線となり、終幕が訪れるその日まで」
幼かったこのときのフローラは、そのまま去ってしまおうとする少年に――たぶん、少しいらだちを覚えたのだ。
勝手にやってきて勝手にフローラの大切な一人の時間を荒らしていって、思わせぶりなことを言ったかと思うと、自己完結してそのままどこかに行ってしまおうとする。
ちょっと、それはないんじゃないの?
軽い抗議の声とともに、少年の手をつかもうとする。
――その瞬間、全身に鳥肌が立ち、体のあちこちに冷や汗が吹き出した。
(だめよ、フローラ。その先に行ってはだめよ……)
(ママのいいつけを。こんどこそ、まもらないと……)
(フローラ、いい? 何があっても約束を守ってね……)
(こわい。くるしい。ついていっちゃいけない。ふれちゃいけない。かれらに……)
ガンガンと鳴り響く頭の中で、今はなき甘く優しい大人の声と、それに準じようとする自戒の声がぐるぐる周り、円を描いて体を中に閉じ込める。どこかに行ってしまうことのないように。
頭を押さえてうずくまった彼女を、少年はすべて心得た、慈愛と哀れみを含む眼差しで見下ろしている。
「……いい子だね。楽しい思い出を忘れてしまえとは言わない、でもそればかりで酷い目にあったことを忘れてはいけない。
ぼくときみとは根本的に違う存在なんだ、だから人は人でないものを人外と呼ぶ。
ママは君に痛みと苦しみを残したかもしれないけど、それが君を守る輪になってくれている。君が人間のままでいたいなら、その怖いと思う気持ちを、嫌だと思う心を、けして失ってはいけないよ」
足音が遠ざかる。真下に下げて地面に向けていた視線を少しだけ上げると、遠くなっていく彼と自分の間に、線が見える。二度と超えてはいけない、超えられない線が。
(そう、もう、二度と超えてはいけない――)
古びた教会の扉を開けて、雨の中に出ていこうとした少年がふと足を止め、一度だけ振り返った。
「でもね。君が望むなら、ぼくはいつだって喚ばれてあげるよ、なんだってかなえてあげるよ。たとえどんな小さな声でも、聞き逃したりなんかしない。いとおしい、ぼくの――」
強い風が吹き上がり、大きな音を立てて扉が閉まった。




