初めての外出5
見知らぬ異国の町を、いるはずのない従姉妹の後を追って走る。城塞都市の中、壁が高くそびえた見通しの悪くぐねぐね曲がった道を走らされる。
イングリッドは時折止まり、フローラがついてきているか確認しているようだ。だが追いつかれそうになるとひらりと身を翻し、進んでいってしまう。
「ねえ、待って、おねがい――どうして、イングリッド、答えて!」
わかっている。彼女は意地悪だったが、フローラをこんな風に無視するようなことはほとんどなかった。
わかっている。時折ちらりと見える表情はすっかり消えている。表情豊かな従姉妹にあり得るはずのない、冷たい、温度のない、魂の抜けたような無表情。
いつの間にか人のいない暗い方に誘われている――そう、なんとなくすべてがおかしいと、この先にあるものがけしてよいものではないのだと、きっと一人でついていってはいけないのだと、わかっていても足を止めることなんてできない。
どれぐらい、追いかけっこをしていただろうか。
いつの間にか、辺りはすっかり夕闇の気配に包まれ、あれほど大通りにいたはずの人はどこかに消え失せている。
二人の少女が走り込んだ先は静かな、静かな、影の当たらない路地裏、その袋小路だ。
行き止まりでようやく立ち止まった従姉妹に合わせるように足を止めたフローラは、前に体を倒し、膝の辺りに両手をついてぜいぜいと粗い息を上げ、額に汗の粒をうっすら浮かべながらも問いかける。
「イングリッド、なんでしょう? どうしてこんなところに――」
は、とフローラの言葉が止まったのは、イングリッドが答えたからではない。従姉妹は静かに瞬きもせず、足を踏み出すこともなければ唇を動かすこともなく、ただただ立ち尽くしている。
フローラは自分の背後から別の足音が近づいてくるのを知った。
路地裏に、赤い夕日に照らされて影が伸びる。
振り返る前から、大して気温が寒いわけでもないのに鳥肌がぶわりと立った。
ごくりとつばを飲み込み、顔を上げ、向き直り、嫌な予感と対峙する。
フローラは血相を変え、息をのんだ。
「あなた、は――!」
「どうした、感動の再会だぞ? 泣いて感激でもして見せたらどうだね、その方が少しはかわいげがある」
無感動に、冷たく、どこか吐き捨てるように、少女二人を路地裏の袋小路に追い込んだ形でやってきた男は喋る。低い発声の仕方は唸るようでもあり、威圧的でどこか敵意を孕んでいるようにも感じさせる。
沈む日の赤色に照らされて少々色がわかりにくくなっているが、その姿、特にその氷や雪よりもずっとずっと冷たい色を宿したアイスブルーの瞳、忘れようもない。
「ディアーブル――はく、しゃく」
「ご挨拶だな、呼び捨てか? 様ぐらいつけてもばちは当たらないのではないかね」
咄嗟に目の辺りをかばうような仕草を取ってしまう。一ヶ月かかって、大分髪は伸びてきた。あのときほど酷い有様ではない。けれど、されたことの傷が癒えたわけではないし、まして忘れ去ってしまうなんてとてもできない。
「いいのか? そこの娘を一人置いていっても。本物か疑っているのなら、そのご自慢の可愛いお目々でもこらして、よく確かめてみたらどうだ?」
かつてフローラを合意なく連れ去り、その後何の許可もなく勝手に前髪を切るなど散々暴挙を働いた男は、少女が咄嗟に逃げ場を探して辺りを見回すような動きをすると、口の端だけうっすら上げて言い放つ。
フローラがはっとしてイングリッドの方を向き、影でも縫い止められたかのようにその場に立ち尽くすと、粘度をたっぷり含んだ眼差しで獲物を眺める。
視線で全身をなめ回されているような不快感に震え上がりながら、フローラは男をにらみつけた。しかし、言わば今の彼女はキツネに逃げ場のない場所まで追い込まれた無力な子ウサギのようなもの。
青い顔や震える唇も手伝って迫力は全くなく、精一杯の勇気と虚勢は残虐な男を喜ばせることはあっても、ひるませてくれることはない。
「……彼女に、何をしたの」
声まで震えてがたつくのをできるだけ抑えようとしながら、フローラは男に問いかけた。
彼女の尋常ならざるものさえ映す目には、イングリッドが夢幻の類でなく紛れもない本物として見えていたし、ここにいるのが自分の知り合いだという奇妙な確信があったからこそ、明らかに怪しい追いかけっこをやめることもできなかったのだ。
「その前にどうやってここまで追いかけてきたのかは、尋ねなくていいのか? ああ、ああ。そうか、君はなにやら厄介な男のところに逃げ込んでいたんだったね、だったら我輩の正体にも心当たりがあるか。おかげで今まで手が出せなかった。森から出てきてくれて助かったよ、どうやって誘い出そうか考えていたところだったからな」
男は余裕に満ちた嫌みな口調で話す。そう、フローラにも今更確認するまでもなく、ディアーブル伯爵と名乗った男がなにやら邪悪な魔法使いであることはわかっていた。未だ自分のことを諦めず、追っている可能性だって考えなかったわけではない。
(――でも。ここまで、粘着されていた、なんて。わたしの認識が、甘かったの? 思いがけず、幸せな一ヶ月だったから――わたしが、考えなしでいすぎたの?)
震えるだけの彼女を見下すようにねめつけて、男は言葉を続ける。
「素養のない人間から主導権を取り上げるなど、赤子の手をひねるように造作もないこと――だったはずなのだが、そういえばどこかの誰かさんには効き目が薄かったようだな。洗脳を自力で解くだけならまだしも、あの部屋から逃げ出されるとは思ってもみなかったよ」
「前に――最初に会ったとき、わたしにも同じ魔法をかけたのね。叔父さんにも叔母さんにも、レストランの人たちにも――皆、あなたが操っていたのね」
男は今度は言葉で答えず、不気味で醜悪な微笑みを浮かべるだけにとどめる。顔立ちは整っている方なのに、まがまがしさしか感じさせないのだから不思議なものだ。むしろ整いすぎているからこそ、おかしく見えるのだろうか。
「目的は、わたし――なのでしょう。わたしがほしくて、追いかけてきたのでしょう。どうしてイングリッドを巻き込んだの、彼女は関係ないはずでしょう!」
半ば悲鳴のように悲痛な叫び声を上げるフローラの横を、するりとイングリッドが抜けて男の方に歩いて行く。
いくら言葉をかけても反応がなく、ゆらゆら揺れるように歩く彼女はまるで糸で吊られたお人形だ。
男の横まで移動したイングリッドの豊かな金髪を一房取って、ディアーブル伯爵は嗜虐的な笑みを浮かべる。歯をむき出す様子はもはや笑いと言うより、むしろ威嚇のように見えた。
「最初はこんな能なしの庶民、我輩だって興味はなかったのだよ。事前の調べでは、君は周囲から孤立し疎まれていたようだったし、多少強引に引き離しても何の問題もないように思っていた。
――が、この女は表向き縁が切れたと喜ぶそぶりをしてみせる一方で、なんと我輩に密かに探りを入れて来ようとすらした。君が我輩のところで無事か、幸せか、この女の両親や使用人どもとは違って、興味関心を失わなかった。
正直に言って、とても驚いたよ。これだから人間という生き物の感情はしばしば度しがたい。それとも君たちの家系には、我輩をイライラさせる素養でも特別代々流れているのだろうかね?」
男の言葉に、フローラはショックを隠せなかった。
(……心配、していてくれたの? わたしのことを?)
穴が空く勢いで見つめても、今のイングリッドは何も返してくれない。青空のようにいつも輝いていた青色の瞳は、光を失ってもろいガラス玉のようだ。
フローラは引き取られた先でいつも居場所がなかった。あの家の人は皆、フローラを疎んじていて、出て行ったりふっといなくなったりしてしまってもなんとも思わない、むしろ邪魔な存在がいなくなってほっとするばかりだろうと思っていた。
――意地悪な、従姉妹。
本当にそうだったのか? それだけだったのか?
フローラの卑屈っぷりにイライラした様子を見せ、攻撃的なことを言いつつも、その言葉にはいつもどこか案ずる感情があったのではなかったか。
(わたし、そんな――わたしがいなくなって、心配してくれるような人が、気にかけてくれるような人がいたかもしれないなんて、思ってもみなかった。わたしが逃げ出して、わたしの関わった人に危険が及ぶかもしれないなんて、思ってもみなかった)
あの瞬間は命がけでもあり、必死だった。でもその後安全な生活が保証されても、フローラは前の家族のことを考えようとしなかったし、さほど思い出したくもなかった。嫌な思い出ばかりだと、思っていたから。
(それなのに、あなたは、わたしを――わたし、ずっと、気がつかなかった――)
自分の想像力のなさと薄情さが情けない。まぶたがじわりと熱くなる。こぼれ落ちそうになるものをこらえ、唇をかみしめてうつむいたフローラの様子を前に、男が満足げな表情を浮かべている。
「まあ、そんなわけで。つきまとわれていい加減邪魔だったから始末しようとしたところで、ふと思いついたのだよ。関係がないと思っていたから、目障りなだけだった。だが思考を逆転させれば、この女は君に関係があるのだ、だからこそ君を追う障害になり、我輩の前に立ちふさがる。ならば逆に、この女には君に対する人質の価値があるのではないか? ……その反応だと、目論見が当たってくれていたようで何よりだ」
「あなたは、最低な人です――!」
「最高の褒め言葉だとも。それに、ここで彼女の身を案じるぐらいなら、そもそもどうして逃げ出したりした? 想像できなかったのかね、自分が勝手なことをして、誰かがかわりに不幸になることを」
ひゅっと音を立てて鋭く息をのんだフローラを、イングリッドのうつろな瞳が見つめていた。
「君は、自分が可愛いだけの、偽善者だ」
男の言葉は蜘蛛の糸のようだ。するりするりと絡みつき、がんじがらめにして身動きをとれなくしてしまう。
今まさに押しつぶされそうになっていた罪悪感を刺激されると、フローラはますます血の気が失せ、反抗や逃走の意思が失せていく。
――実際に、いつの間にか体が動かなくなっていた。
「さて、遊んでばかりもいられない。厄介なお守りに見つかる前に、こちらに来てもらおうか」
ゆっくりと近づいてこられる間、無力な彼女にはなすすべがない。
――あるのかもしれないが、イングリッドの存在が、男の毒のような言葉が、行動を、思考を奪う。
かろうじてまだ動かせる口で、フローラは問いかける。
「どうして、わたしにこだわるんですか。あなたは一体、何者なんですか」
「そうだな。全部終わったら、ご褒美に教えてやってもいいかもしれない」
「わたしが、言うことを聞くから――イングリッドは、もう」
「それを決めるのは君ではない。交渉ができるような立場だと思っているのか?」
黒く、黒く、視界が覆われていく。
沈む、沈む、絶望の中に。
まるでいつかの時をやり直しているようだった。男が手袋をしたままの手を、フローラの琥珀色の目を覆うようにかざす。頭痛がする。だんだん強くなって、他に何もわからなくなる。
沈んでいく日が照らすアイスブルーの瞳に、ぎらりと危険な色が宿った。
「今度はもう、手加減をしないぞ」
(魔法使い様――!)
ぎゅっと目を閉じて、咄嗟に優しい人のことを思わず考える。
直後、フローラの頭の中で何かがばちんとはじける音がして、視界が真っ赤に、真っ黒に染まり――それでもう、何もわからなくなった。




