花嫁逃亡2
「お客さん?」
呼びかけられてフローラははっとした。おつかいの途中でついうっかり、ぼんやりと考え込んでしまっていたらしい。
縁談が来たせいか、こうしたことが増えてしまって本当に困る。
かといって自分の仕事が減るわけではない、むしろいる間にこきつかってやろうとばかりに、頼まれる事は増えた。
今だって、イングリッドに使いっ走りにされている真っ最中だったのだ。
カウンターの向こうでは、店員がこちらにいぶかしげな目をよこしている。
後ろの客達も、自分の順番になっても止まったままの先客に、困惑といらだちのまなざしを向けていたようだ。
「す、すみません! あの、本当に、申し訳ございません……」
自分のしでかしたことに青くなり、周囲の目を感じると今度は恥ずかしさで赤くなる。
頼まれた焼き菓子をなんとか注文しようとすると、消え入りそうな声だったせいか、少し強めの語気で聞き返された。
こんなとき、頭が真っ白になって滑舌がさらに曖昧になってしまう自分が情けなくて仕方ない。
イングリッドなら、たとえ自分が失敗したときだって平然としているだろうに――そもそもこんなキラキラした菓子屋にフローラをおつかいに行かせること自体間違えているのだ、ふさわしい彼女が自分で来ればいいのに。
そんなことを考えてしまう自分が、情けなくて仕方ない。
色とりどりのふわふわさくさくなお菓子達が、綺麗で可愛らしい包装で包まれていく。
この待っている間がいたたまれない。
「まいどあり!」
会計を済ませたときにかけられた威勢のいい声からすら、逃げ出すように店を飛び出る。
ただの買い物すらうまくできないなら、せめて気にしない強い心がほしかった。
くよくよ悩んではまた同じ失態を繰り返す――。
堂々巡りになりかけたマイナス思考が打ち切られたのは、ふと手にしたお菓子のことを思いだしたからだ。
イングリッドの好物である焼き菓子は、繊細すぎて細心の注意を払わなければ型崩れしてしまう、というほどではないにしろ、むやみに振り回したりぶつけたりしていいというものでもない。
もし中身が欠けたりしていたら、怒ったイングリッドにまた頬をつねられるかも。
叔母は箒で叩くかもしれない。箒ならまだいい、仕置き用の鞭を持ち出されたら――。
小走りだった歩調をゆるめ、立ち止まり、抱え込んだ荷物を見下ろす。
持たされたお金はいつになく大目にあったから、買い直しに行けないわけではない。
少し大目に買ってしまって浪費を怒られるのと、崩れたお菓子を怒られるのと、どちらの方が痛い思いをせずに済むだろう?
何にせよ、中がどうなっているか確かめてみなければ、と勇気を振り絞る。
おそるおそる、紙袋の中身を確認しようとした瞬間、何かがとんと足に当たった。
「きゃあっ――な、なにっ!?」
荷物を思わず放り出し、尻餅をついたフローラの手を、生温かい感触が舐める。
血の気が引き、咄嗟に逃げようとした彼女にさらに飛びかかって押し倒してきた物があった。
もはや恐ろしすぎて声も出ない。
ざらりと生温かいものが頬をなぜる――。
「ロッティ! おいたは駄目だぞ、こらっ!」
少年の声が響いたかと思うと、気配が離れる。
ぐるぐる目を回しているフローラが、半泣きのままよく見直してみれば、彼女を脅かしたものの正体はなんてことはない犬だった。
飼い主らしい少年が茶色の毛並みを抱え込んで、申し訳なさそうにフローラを見下ろす。
「ごめんね、お姉ちゃん。怪我はしなかった?」
「ええ、あの……わたし、は大丈夫。ありがとう――ああっ!?」
フローラは差し出された少年の手を取って立ち上がろうとしたが、お礼の言葉が悲鳴に変わる。
開けかけの紙袋から見事にお菓子の中身が路上に飛び出してしまい、黒い毛並みの犬がそれをかじっている惨状が目に入ってきたのだ。
「あーっ! こらっ、ベアテ!」
どうやらそちらも少年の連れていた犬らしい。
甘いにおいに釣られて飛びかかってきた、というところだろうか。
彼が慌てて黒い方の犬も首をひっつかんで引き下がらせるが、かじられたのはもとより、地面に散ってしまった時点でもう色々と駄目だ。
観念してもう一度買いに行くしかない。
はああ、とフローラの口から力のない息が漏れる。
「本当にごめんね、お姉ちゃん。いつもはこんなことする奴らじゃないんだけど……」
「い、いいえ……いいんです、わたしが悪いんです……」
そもそも確認しようと余計な事をしなければ、包装は店員にしっかりしてもらっていたのだから落っこちてもなんとかなったかもしれないのだ。
本当に自分という奴は、余計な事しかできない。
泣きそうになりながら唇を噛みしめる。
よろよろフローラは立ち上がり、散らばった残骸を片付けようとした。
するとその彼女の手を少年が押しとどめる。
「あ、いいよ。こっちが悪いし、片付けておくから」
「いえ! 散らかしたのはわたしですから、その……」
「いいっていいって。それより、本当にごめんね。さすがにこれを元通りにするようなことは、ぼくでもできないからさ。でも、せっかく出会えた幸運と今回のお詫びに、とっておきの呪文を教えてあげるよ」
え、の形に口を開けたままフローラが顔を上げると、長い前髪の間から少年のエメラルド色の目がちらちら輝いて見える。
――比喩ではない、夕闇の薄もやの中で、本当に輝いているのだ! しかも彼の連れている犬たちの目も、同じように赤い光を放っている。
ざわり、と風が不気味な音を立てた。
フローラの長い髪の毛が揺れ、彼女は再び息を呑む。
怯えて揺れるフローラの瞳を少年は何かを見透かすようにのぞき込み、怪しげな微笑みを深める。
「かまどの左手さん、井戸のせせらぎさん、屋根の上の風見鶏さん、足下の力持ちさん、お願い、どうか助けて――困ったときに唱えてごらん、心の中で念じるだけでもいい。君相手ならきっと皆、過剰サービスで応えてくれるよ」
突風が吹いた。
フローラは自分を庇うように顔を覆う。
風が止んでから辺りを見回してみると、少年や犬たちの姿も、そして地面に散らばった菓子の残骸もどこにもなくなっていた。
しんと静まりかえっていた路地に人の気配が多少戻ってきて、彼女はようやく我に返り、今何が起きたのか理解した。
「ああ……また、やっちゃったのかな。最近あまり会わなかったし、さっきの子は随分はっきり見えていたから油断した……」
フローラは前髪を弄って、大嫌いな自分の琥珀色の目を隠そうとする。
もう一度おつかいに再挑戦しようと忙しい彼女には、自分の目がほんのり淡い光を放っていたことなど気づきようがなかった。
「お帰りなさい、妖精の落とし子ちゃん。今日ものんびりしていたみたいね」
不思議な体験の後、羞恥心を堪えつつもう一度焼き菓子を手に入れることができたフローラは、こっそりと見つからないように家に入った瞬間、扉を閉める背中から呼びかけられ、思いっきりびくりと体を震わせた。
ぱっと振り返ると、階段の上から金髪の派手な美女がこちらを見下ろしている。
外に出かけてきたのにつぎはぎだらけの服をまとうフローラより、よっぽど豪華な室内着を着ていた。
「イ、イングリッド……」
「このぐらいでびくびくしないでよ、鬱陶しいわね」
「ごめんなさい……でも、その呼び方はやめてって、前にも……」
「わかったわよ、気をつけるってば」
あくびをし、乱暴に髪をかき上げる仕草は、粗野でありながらも生き生きした魅力をふんだんに振りまいていた。
何をしても地味な暗さのただようフローラと違って、従姉妹にはいつもどこか色っぽさがただよっている。
階段を下りてきたイングリッドがぞんざいに手を差し出したので、フローラは大人しく包み紙を渡した。
すると美女は露骨に顔をしかめる。
「こんなに時間がかかったのに。他には何も買ってこなかったの?」
「え? あの……ごめんなさい。よ、寄り道していたわけじゃ、ないの。一度、お菓子を落としてしまって、買い直したの。それで、帰りも遅くなって、あの、本当にごめんなさい――きゃっ!?」
イングリッドに指で額の辺りを小突かれ、フローラは思わず声を上げる。
「つくづくどんくさい奴ね。だからあんたはいつまでもグズなのよ。気の利かない子」
「ご、ごめんなさい……」
ふん、と鼻を鳴らし、そのままフローラの買ってきた焼き菓子を片手に自室に引き上げていきそうになったイングリッドだったが、ふと足を止めたかと思うと帰ってくる。
ほっとしかけたフローラはまたもこちこちに体を緊張させることになった。
明るい青の瞳が、どこか悪戯っぽい、意地悪そうな色を孕んだ。
「そういえば、例の求婚者様とはその後どうなの? そもそもどうやってたらしこんだの? 伯爵様なんて随分とまた大物引っかけたじゃない、色事皆無ですって顔のあんたにしちゃ上出来だわ。パーティーにも来たことないくせに、あたしちょっと見直しちゃった――」
フローラが何も言えないでいる間に、イングリッドは一通りすらすらと述べ立て、また彼女の額をちょんと突いた。
さっきよりは優しかったのだけど、フローラは思わず小さくひっと怯えた声を上げてしまう。
髪の隙間から視線を上げて従姉妹の顔に向けると、彼女は口の端を意地悪そうにつり上げていた。
「――で。終わらせてあげてもよかったんだけど? 肝心なところで台無しって言うか、つめが甘いわよねえ。あんたらしいと言えばらしいけど」
「……どういう、意味?」
「知らないんでしょう、知らなかったんでしょう、教えてあげる。あんたのお相手のディアーブル伯爵様とやらね、これで再婚四度目よ。わかる? もう過去に四人も妻が死んでいるの。なんて悲劇的、ミステリアス! ……なーんて、嘘。わかるわね? 曰く付きってことよ。まったく、変な相手を引っかけたこと」
指を突きつけられて言い聞かされる言葉に、フローラは顔面を蒼白にしつつも腑に落ちる思いだった。
元から何か裏というか落ちというかがあるだろうとは思っていたのだ。
なるほどそれならイングリッドの方に話が持って行かれず、フローラとの縁談に叔父叔母が乗り気だったのもうなずける。
邪魔者が持参金と引き替えに家からいなくなる上に、うまくいけばそのまま処分してもらえるのだ。
まさに二人には願ったり叶ったりだったに違いない。
二人にとって、フローラは常に目の上のこぶ、いらない子なのだから。
イングリッドはフローラの様子をうかがうように少しの間黙っていたが、相手が無反応のまま視線をさまよわせていると、きりりと眉をつりあげた。
「ちょっと! あたしはあんたに話をしているの、そのどこ見ているかわからない目はやめて!」
怒られてフローラは跳ね上がったが、イングリッドの希望通りにまっすぐ相手を見つめ返すことはなく、おずおず足下を見下ろす。
そんな従姉妹の様子に、イライラしてイングリッドは地団駄を踏んでいる。
「あーもう、あんたを見てると本当に嫌な気分になるわ。せっかくの機会だって言うのに、なんだってそんなにぼんやりしたままなの? チャンスの神様は前髪しかないのに、あんたにはいつまで経ってもつかめそうにないわね。いいわよ、そのままどこへなりと行っちゃいなさいよ、あたしは知らないから!」
言いたいことを言い終えたのか、イングリッドは今度こそ階段を音を立てて上っていく。
フローラは呆けたように、玄関に立ち尽くした。
このまま何も知らずに嫁いだ方が良かったかもしれないが、イングリッドはそれでは面白くなかったのだろう。
先に悪い情報を教えてもらったことで心構えができたと肯定的に考えたくても、やっぱり従姉妹の意地悪には気が重く沈んでしまうのだった。




