初めての外出1
その日もフローラは、そぞろな心をもてあましながら料理を作っていた。
ぼんやりしていても家事を行う手が止まることがないのは、日頃の積み重ねのたまものと言えるものだろうか。
時折、彼女はふと止まると、唇に指先を当ててぼんやり考え込む。ほんの数瞬そうしてから、はっとなってまた作業に戻る。そしてまた時間が経つと動きが緩慢になり、唇に指を当てる。その繰り返しだった。
(結局あれは、なんだったんだろう……)
心に浮かぶのは、少し前にあった嵐の晩のあれこれのことだ。フローラはまだ、あの晩何が二人の間にあったのか、正確なところを理解できずにいる。
いや、客観的な事実だけ切り取るなら、とても接近して、何かが起こりそうになって――何も起こらなかったのだ。それぐらいはわかる。
問題は、そのことにどうやって意味づけをし、理解するかというところだった。
魔法使いとはあれ以来、奇妙な緊張というか、お互い相手を警戒して距離を測り合っている感じがある。一応話はできているのだが、表面的な部分だけで、腫れ物を扱うがごとく、近づくことを恐れ合っているように思える。
「……あっ!」
ぼーっとしつつも黙々と料理を続けていたフローラが明らかに何かやってしまった声を上げると、ちょうどダイニングに出てきていたらしい魔法使いがひょいとキッチンの中をのぞきこんだ。
『どうかしたか?』
「ちょっと、焼き加減を間違えてしまって……」
パイに焦げ目がついてしまったのだ。しょんぼりしつつ、前にもこんなことがあったような、とフローラがとにかく渋い顔をしていると、できばえを見た魔法使いが励ましてくれる。
『それぐらいなら失敗の範疇に入らないだろう。美味しそうだ』
魔法使いは相変わらずフローラの作ったものに美味しいとしか言ったことがないので、どこまで彼の味覚が信じられるのかは疑わしい。
一回露骨に加減を間違えたものを出してみたら反応が変わったりするのだろうか、などと思うこともあれど、食材にも魔法使いにも申し訳ない気がして実行できずにいる。
『だが珍しいな。どこか具合でも悪いのか?』
「いえ……そういうことはないと、思うのですけど……」
フローラの反応が芳しくないのが魔法使いにもわかったのだろうか、彼は心配の声をかけてくれる。
沈黙が落ちて、ふと彼女が顔を上げると、何か言いたそうにじーっと凝視していた魔法使いと目が合う。彼は露骨すぎるほどにわざとその目をそらし、何もありませんよと言いたげに口笛を吹いた。
しかも下手だった。口笛というか、ただ空気が抜けるスースーした音が鳴るだけである。ごまかすにしてももっといい方法があるのでは、と思わず半眼になってしまう。
(やっぱり、気になる。気になって仕方なくて……今のところはこのままでも大丈夫だけど、こんなふわふわした気持ちのままだと、わたし、そのうちパイを焦がすぐらいじゃないことをしてしまうかもしれない。魔法使い様も気のせいでなければ、最近調合を失敗しがちみたい。わたしに、何か話したいことがあるのではないかしら?)
これで魔法使いがなんでもない様子だったらフローラは自分で悶々と悩んでいるだけなのだが、あの嵐の夜から明らかに向こうだって挙動不審なのだ。
一つ屋根の下にたちこめるぎこちない空気。いつまでもこのままではいけないし、何より居心地が悪いというか――フローラが、このままなのは、いやなのだ。
(……わたし。そんな風に考えることも、できたんだ)
「あの――」
積極的に変化を望む自分の心と、素直に口から出ようとする声に驚きつつも、彼女は勇気を振り絞る。
――ところが。
『今日は天気がいいな!』
出鼻をくじかれた。こちらが踏み出そうとしてみたところを、向こうは全力で阻止してくる。
今までは、フローラのしたがることを頭ごなしに拒否することなんて、なかったのに。一気に心が冷え込む。
「…………そうですね」
自然と冷え冷えした声が出てしまい、魔法使いがうろたえた気配がするが、彼女はもう彼の方を見ようとしない。
(魔法使い様の、ばか!)
心の中で彼に向かって舌を出す。
(……ばかは、言い過ぎかしら……)
けれどそうしてみたところで気が晴れるわけでもなく、ままならぬ心の解決手段は今はどこにも見当たらないのだった。
「フローラちゃん、お出かけしてみない?」
転機はセラ=セルヴァントの来訪とともに訪れた。
いつも通りやってきてかしましい会話をフローラと繰り広げていた夫人は、ふと黙り込んで二人を見比べたかと思うと、にっこり歯を見せてそんなことを言い出したのだ。
虚を突かれ、フローラは琥珀色の目を見張る。
「お出かけ――ですか?」
「そ。たとえば来週とか、普段はあたしがこうやってお二人の家に来ているわけだけど、フローラちゃんがうちの町に遊びに来たりとか、してみない?」
「町に……」
おしゃべりな女性は、相手の聞いている態度がけして後ろ向きではないらしいことを察知すると、饒舌に舌を回して説得に励み出す。
「ここの暮らしにもそろそろ慣れてきたでしょう? ってことは余裕が出てきた分、マンネリ化してる部分もあるのかなー? なんて思うわけ。たまにはちょっと気分転換に、森を出てみない? そんな大したものはないけどさ、まあ、普通の町にあるものはそろってるし。あたしが面倒見るから」
セルヴァント夫人はそこでぐるりと首を回し、後方に向かって大声で言う。
「魔法使い様もそれで構いませんか?」
いつの間にか作業場から出てきて結構二人の側に陣取っていたらしい魔法使いが、まるでいたずらを見とがめられた子どものようにばつの悪そうな顔をしながら、石版で返してくる。
『……いいんじゃ、ないか。セラがついているなら、安心だろうし』
「……出かけても、いいのですか?」
フローラからすれば、自分が一時的にでもいなくなることに魔法使いがなんとも思わないのか、ということを思ってぽつりと漏らしてしまっただけなのだが、彼はもう少し別の意味に受け取ったらしく、返答はなにやら機嫌が悪そうだ。
『何故駄目と言わなければならない? 私があなたの休日を制限するような、心の狭い男に見えるのか?』
「別にそういうことを言ったわけでは、ないですけど……」
急速に険悪になりつつある空気を割ったのは、セラの手を鳴らす音だ。
あっけにとられた二人の視線を集めてから、彼女は魔法使いの方につかつか歩み寄っていって、腰に手を当て彼の顔をのぞきこむ。
『な、なんだ』
セラはしばらく真顔で至近距離から威圧感を与えていたが、たじたじする彼の様子に満足したのか、にっかり笑みを見せた。
「駄目ですねえ、魔法使い様。まーるで何にも、わかっちゃいません」
『……は!?』
「お若いから仕方ないんでしょうけどね、うんうん。ある意味計画通りで、おばちゃんは嬉しくもあります」
『痛いっ、叩くな、なんだ、なんなんだ!』
「坊やにはわかりませんことよ、オホホホホホッホ!」
バシンバシンと豪快にひっぱたかれ、実際痛そうな音がする。
そろそろ止めに入った方がいいのでは、と思い始めた瞬間、セルヴァント夫人の顔が今度はこちらにぐりんと向いたので、フローラは危うく悲鳴を上げるところだった。
「フローラちゃん、ちょーっといいかしら? 魔法使い様は駄目ですよ、女同士のお話しですからね」
さりげなく男がひっついてくることを牽制してから、セルヴァント夫人はフローラを伴い、外に出る。干していた洗濯物を一緒になって取り込みながら、うつむきがちのフローラに優しく声をかけた。
「お節介だったかしら? なんか二人とも煮詰まっているようだったから提案してみたのだけど。正直に言ってちょうだい、あたしも無理強いするつもりはないし、外出はいやだってことならいつも通りにするから」
フローラはシーツを伸ばしていた手を止め、答えた。
「いえ……たぶん、その方がいいんです。わたしも、ちょうど……どうすればいいのかわからないけれど、距離を置いた方がいいのかなって、思っていて。なんだか、うまくいかなくて。もう一度離れてみたら、わかることもあるのかなって……」
考えながら言葉を紡ぐ少女に、女はしばらくうんうんと満足そうに相づちを打っていたが、ふと笑顔の種類が変わり、にじりよって耳打ちする。
「で、実際、どこまで行ったの? エー? ビー? シー?」
「……へっ?」
「あら、この言い方だと通じないのね。じゃ、もうちょっとわかりやすくしましょうか。キスぐらいしたんでしょう? それともまだなの?」
フローラは完全に停止した。ニヤニヤ見守るセラの前で瞬きをするだけの人形のようになりかけ――それから声にならない悲鳴を上げる。
「どっ――どどどどど、どうしてっ!?」
フローラが投げ出した洗濯物を器用に受け取ってから、セルヴァント夫人は高らかな笑い声を上げる。
「ホッホッホ! やっぱりそうだったのね! あー楽しくなってきたわ! 若い美男美女が一つ屋根の下、何も起こらない方がおかしいわよねえ、ンッフフフフフフフフ!」
「セルヴァントさ――セラさん、何か笑い声が怖いです!」
「おばちゃんという生き物はね、他人のお家事情で腹を膨らませるのよ」
セラはさっと髪をかき上げ、かっこいいポーズを決めてアダルティーに言ってのけた。酸いも甘いもかみ分け洗練された大人の女性に見えなくもないが、言ってること自体は下世話そのものである。
「ま、そろそろ何かある頃だとは思ってたのよ。で、今ちょっと二人の雰囲気がぎくしゃくしているみたいだから、これはガス抜きした方がいいかもなって。
あなたも魔法使い様も、あまり抵抗がなかったようだけど。本来、いきなり全く知らない人と一緒に暮らし始めるのって大変なことだらけで、文句や衝突の一つや二つ、あって当然だと思うの。特にあなたたちは、共通点の方が少ない感じでしょうし。
その辺りのためこんでいる部分、来週色々聞き出すつもりだから、このお節介おばちゃんを気分の入れ替えにうまく利用しちゃってみて。試してみて、もしもうちょっと長く彼から離れたいって思うのなら、宿だって用意するし」
なんと返していいのかわからず少女が口を開けたまま棒立ちになっていると、ヒラヒラ手を振りつつやや真面目な声音でセラはからりと言ってのける。
あっけにとられていただけのフローラは、やがて相手の少々強引な気遣いに思い至り、くしゃりと表情を崩す。
「セラさん……ありがとうございます」
「いいのよ、これぐらい。お節介はおばちゃんの特権だから、うっとうしかったらいつでも断って」
年上の女性はなんでもないことのようにからから笑った。