嵐の夜4
いぶかしげな視線の先を追ったフローラは、自分を見下ろし、彼が一体何を凝視して固まっているのか悟ると小さく悲鳴を上げた。
「ち、違うんです! これは、その――」
言い訳を探す彼女を見つめる魔法使いはほぼ真顔だ。
咄嗟に口を開き、なんとか間をつなごうとする。
「ほ、ほつれていたので! 補修を! しようかと! 思っ、て……」
深緑色のまなざしが、若干生温かい気がしてきた。しかしここで黙ったら何か色々駄目な気がする。フローラは頑張る。
「あの、けしてその、やましい思いなどでは、なく……」
ぶっ、と音がした。今度はフローラの方が驚いて棒立ちになる。
吹き出した魔法使いは、ひとしきり笑い声を上げてから、そっと目尻をぬぐい、フローラに石版を向けてくる。
『別に言い訳をしなくてもいい。着てみたかったのだろう?』
「えっ……あの、あの」
『私も子どもの頃、いつか立派な魔法使いになる自分の姿を夢見たことがある。家族の服にこっそり袖を通したり、道具を手に取ってみたり。誰にでも経験があるものだ、そう恥ずかしがらなくてもいい』
近づいてきて手を取り、彼女の着ている服のだぼだぼの裾を見つめながら、彼は穏やかに、優しい表情で言う。
フローラの方が、触れられて真っ赤になりつつ、何か彼の喋っている方向がおかしいと眉をひそめたくなりそうにもなっていた。
『あなたは魔法使いというわけではないが、私の手伝いをして、森を一緒に歩いてくれているし、精霊の様子を伝えてくれてもいる。
……そうだな、私も気が利かなかったかもしれない。あなたは最初、魔法が苦手なように思っていたのだが、考えてみれば抑圧されていただけで、憧れもあっておかしくない。そんなにこれがほしかったのなら、私の古着などではなくあなた用に新しく作ろう』
フローラは「あ」とか「う」の形に口を動かしたが、もごもご口ごもってきちんとは言葉にできずにいる。
なにやら勘違いをされたのが、ほっとしたような、がっかりしたような。
(……がっかり? 何を落ち込む必要があるのかしら……笑われたことに?)
「……ありがとうございます……?」
奇妙な自分の心のざわめきに内心首をひねりつつも、魔法使いがまた彼女のために好意を向けてくれると言うことには素直に感謝の念が沸く。
(魔法使いの服が着たかったというより、魔法使い様の服だから、よかったのだけど……)
行き違いにほんのり切なくなった後、はっとしてからぶんぶん首を振った。
やましい思いはないとさっき言ったばかりなのに、自分は何を考えているのか、はしたない。
そんな彼女の様子に首をかしげた魔法使いが、また別のことに気がついたらしく表情が変わる。
『それにしても、もう真夜中だが。眠れなかったのか?』
ローブの下のフローラの服は昼の格好のままだった。そもそも夜に帰ってくるという彼を差し置いて、先に寝る気にはなれなかったのだ。
「あ……えっと、その。横になってみたりもしたのですけど、やっぱり目が冴えてしまったというか、どうしても気になってしまって……」
『私のことが?』
フローラははっと顔を上げた。深緑の目と、琥珀の目がつかの間、互いをはっきりと映し合う。
すぐに彼女の方がそっと視線をそらし、うつむいたまま小さく答えた。
「……はい。心配して、いました」
ほんのりと頬を染めて言う彼女に、魔法使いは沈黙する――いや、元からしゃべれないのだが、さらにビシッと固まった感じがある。
それなりの間を置いてからようやく、彼は石版に文字を浮かべる。心なしかいつもより筆跡が乱れがちだ。
『そ、その……嵐の中、一人にして悪かった。確かに、心細かっただろう――』
「違います!」
『えっ?』
「いえ、違いません。確かに一人で寂しいところも、なかったとは言いません。でも、それよりわたしは、この嵐の中を一人で出かけていったあなたのことが心配で、あなたに何かあったらと思って、それで――」
また、はっとした。夢中になって喋っていたフローラに圧倒されるように、魔法使いは黙り込んでいる。彼にしてはとても珍しいことに、黙ってはいたが、思わずといった感じにあんぐり口を開けていた。
緑色の目が白黒混乱しているのを見ると、我に返ったフローラの方もつられそうになる。
途端にどうしたらいいのかわからなくなりかけた彼女は、ようやく自分が今一番言うべきことを思い出した。彼が帰ってきたときのために、散々あらゆる準備をしていたのではないか。
「あの! そっ、それよりも、お風呂の用意をしてあるのですが――ええと、もう寝る場合でも、少なくとも、お着替えは必要ですよね? 一応、脱衣所に一式ご用意させていただいていますが……あ、脱がれた服はこちらで洗っておきます。それと、晩ご飯――いえ、お夜食の用意もしてありますので、そちらが先でも――ど、どうしましょう? わたし、言ってくだされば、今からでも、なんでもご用意します」
言い切ったフローラに、彼は相変わらず口を開けたまま硬直していたが、今度は比較的すぐ立ち直――ってはいない、ぎくしゃくしているが、なんとか動けるようにはなったようだ。
『……まさかとは、思うが。私のために、こんな時間まで用意して、寝ることもなく、待っていた――と?』
「……はい」
『ただでさえ、最初に伝えていたのより遅くなった。現にもう真夜中だ。もしかしたら、今晩だって帰れなかったかもしれない。それでもあなたは、私を一晩中待つつもりだったのか?』
馬鹿なことをしたと、責められているような気もする。フローラはちょっと小さくなった。おずおずと、魔法使いに尋ねる。
「あの……ご迷惑、だったでしょうか。わたし、出過ぎたことを、してしまったのでしょうか」
『そうではない、そうではないが――すまない、てっきりあなたは――もう、眠っているものかと思っていたんだ。起きていたとしても、こんな――準備をして、なんて、思ってみなかった。知っていたら、もっと早く帰ってきたのに』
「わたしが、やりたくて、やったことですから……」
『だが――』
魔法使いの言葉をやや遮るように、彼女は喋る。
フローラは要領が悪い。昔はいつも、怒られてばかりだった。
自分のしたことは、余計だったのかもしれない。現に彼は困惑しているらしい。
それでも、どうしても、やりたかったのだ。この気持ちだけは、否定してほしくない。心がざわめき、胸からのどに伝わって言葉が止まらない。不思議だ――こんなことがあったら、いつもは萎縮して黙っているばかりなのに。
「わたし、他には何もお役に立てませんから。せめて、きっととってもお疲れで帰っていらっしゃる魔法使い様が、ほっとできるといいなって。お疲れを、少しでも癒やしてさしあげられたらいいなって。思っていたの、です――!?」
彼女の言葉は途中で途切れた。なぜなら、大きくて温かい物にいきなり覆われたからだ。
しっとりと濡れた体に包み込まれ、相手の冷たさに震える。
全く未知の感触。それでいて既知の人。
魔法使いに抱きしめられているとわかったのは、もう少し経ってからだった。わかったからといって何かが良くなるわけではない。フローラがちょっとしたパニックになるだけだ。
彼女は言葉にならない悲鳴を飲み込んだまま、どうすればいいのかわからず、おろおろされるがままになっている。
(なんていじらしい。困った人だ。こんなことをされたら、俺はあなたを手放せなくなってしまうじゃないか)
フローラの頭の中に、何者かの声が響く。不思議なことに、耳を通してでなく、頭に直接響いてくるのだ。
こんなことが前にもあったような気がする。確か、そう――初めて、この家に来たとき。
(……これは、もしかして。魔法使い様の、声?)
何故だろう。彼は喋れないはずで、だから石版を使うなんていう面倒なことをしてコミュニケーションを取っているのだ。けれど今、確かに彼の声を聞いている。
戸惑うフローラは、ふと冷たさの向こうに感じる温かな体のぬくもりを感じ、思い出す。
そうだ。あのとき、最初の時も、魔法使いが彼女に触れて、それで声が聞こえた。彼は魔法使いなのだもの、もしかすると触れていなければいけないという条件付きではあるものの、逆に触れていれば相手に直接自分の声を届けることができるのではないか。
ふと、感触が離れる。離れるかと思ったら、魔法使いはフローラを腕の中に閉じ込めたまま、彼女を上向かせて自分の顔に向けさせる。
そこには彼の見たこともない――慈悲とも、哀れみとも違う、おそらく大切には思ってくれているのだろうけど――とにかくフローラは見るのが初めてで、何を考えているのか読み切れない表情があった。
ぞくり、とフローラの体の奥が反応する。それはけして冷気による寒さでもなく、また怖気でもない。奇妙な、奇妙な、体の高揚感。甘いうずきに支配される。
頭がふわふわする。魅入られるように熱を帯びた緑の目を見つめていると、大きくて硬い手がフローラの頬を優しく指の腹でなぞる。
(当たり前のように帰る家があって、そこで誰かが待ってくれていて、自分のために用意までしてくれている日がもう一度来るなんて。……思っていなかったのに)
魔法使いの緑色の瞳が、大きくなった。顔が近づいてくる。
(――キスされる!)
抱きすくめられ、フローラがぎゅっと目をつむった瞬間、だった。
ふわっ、とそのまま後ろに体が傾いたかと思うと、重心がずれ、盛大な物音を上げて足が上がる。
つまりは、後ろ向きにすっころぶ。
「きゃあっ――えっ?」
驚いて声を上げた。一度目は目をつむったまま咄嗟に。二度目は目を開けてから自分の下を見つつ。
なぜだろう、気がついたら、フローラの下で魔法使いが伸びていた。
あれっ、さっきまで確かに二人とも立ち上がって、なんなら密着していたはず、なぜ今床の上に魔法使いが倒れ込んでいて、自分はその上に乗っかっているのだろう――。
そこまで思考を巡らせてから、慌てて自分が彼の上になっているという事態を把握し、どいた。
「すっ、すみません! 大丈夫ですか!?」
魔法使いは頭を押さえるような仕草をして唸りながら起き上がり、横でおろおろしているフローラにその辺に落っことした石版を探して向ける。
『大事ない。あなたは大丈夫か?』
「わたしは――魔法使い様がかばってくださったので、何の問題もないのですが……」
フローラが言葉を切ると、向こうも黙り込む。なにやら気まずい、何を喋ったらいいのかわからない、というか何も喋ってはいけないんじゃないかという感じの嫌な沈黙が落ちた。
お互い、何故か相手の顔の若干下辺りに視線を向けて、しばらく固まったままである。そのうち、だらだらと嫌な汗を垂らし始める。
どどどどど、と未だ強く吹いている風が、ちょうど窓を叩いて揺らした。それをきっかけに、はじけるようにお互い顔を上げる。目が合うと、魔法使いはびしっと石版をまるで盾のように自分の前にかざした。
『きょ、今日はひどい嵐だったな!』
「そっ、そうですね!」
文字の勢いに吊られ、思わずフローラも裏返り気味の声で答える。
『風呂が沸いているという話だったし、この汚れた邪念――違う、体をみそいでこようかな!』
「みそぐ!? いえ、なんでもありません、そうですね、洗うのは大事ですものね!」
『そうだぞ、洗うのは大事だ!』
「は、はいっ」
『入ってくるぞ!』
「いってらっしゃいませ!」
『うん、行ってくる!』
「いっていらっしゃるといいと思います!」
もはやお互いに勢いでまくしたてあって、会話の内容が支離滅裂になりかかっている。
わたわたどたどた慌ただしく分かれてから、フローラはへなへなその場にしゃがみ込み、熱くなった両頬を押さえる。
(な、なに――今のは一体、なんだったと言うの!?)
残念ながら、突然激しくなった動悸を落ち着かせる方法は、その後もわからないままだった。




