魔法使い4
最初に、皿洗いにあたって必要な物がどのくらいあるか、家主に確認する。
今までの生活の状態からして、最悪何もない(それこそ食器を冷水の中素手で洗うような)状態からスタートすることになるかと思っていたが、案外化石になりかけているだけで物は十分なほど揃っていた。
というか、この家にあるもの単体で見れば、とても森奥で隠遁生活をしている人の物には思えない。
たとえば、蛇口をひねるとあっさりお湯が出る。ランチェの事情はいまいちわからないが、温かいお湯が蛇口をひねっただけで十分出てくるなんて、ディーヘンではなかなか上等な暮らしぶりだ。
国民性から魔法後進国と揶揄されることもあるディーヘンだが、都市部の水道は充実しており、蛇口ぐらいならどの家にもある。だが、その上に安定して温水が出る設備を備えた家となると、もう少し限られてくるようになるわけだ。
清潔な水の流れる水道を引くこと、水圧を保つこと、その水を魔法石で温めること、さらに温度が調節できること――あると当たり前の生活をしてしまうと気がつけないが、温水一つ流すのにも地味に大変な技術と労力がかかるのである。
フローラが引き取られた家は、ディーヘンの大きな町に住んでいる庶民の中でも富裕層と言っていい暮らしぶりで、だから温水は出た。
魔法嫌いの叔父叔母は、きっと本当は魔法具に頼るのも嫌だったろうが、便利で快適な味を覚えた人類はたやすく堕落するし、何より彼らにはイングリッドという最大の言い訳があった。
フローラが本当の両親と生活していたときは、冷たい水や井戸が当たり前だったため、初めてかの家に足を踏み入れたときは、お城のようだと思ったものである。
それをまさか、森奥のこの一見超貧乏そうな、もとい質素な生活をしていそうな家でもう一度味わうとは――。
懐かしい思い出についつい流されそうになってしまうのは、目の前の惨劇を受け入れたくない思いも半分ぐらいあるのだろう。
遠い目になりそうなところを、両頬をパンパンと叩き、フローラは気を取り直す。
しかし、そんな恵まれた環境にありながら、魔法使いは彼女が驚いていると、何がそんなに新鮮なのかという顔をしている。魔法使いという人種が皆こうなのか、それとも彼が特別なのか、サンプル数が少ないため比較検討はしづらい。
ともかく、戦場に来たからには気合いを入れねば。
フローラは髪をささっとまとめ(縛る物は適当に魔法使いからもらった。ついでに明らかに使ってなさそうなエプロンも貸してもらった。やっぱりだぼだぼだった)、腕まくりして、まずは現状の正確な把握から開始する――。
――1時間ほど経過した頃のことだろうか。
手際よく動く彼女の後ろで、邪魔しないように、でもとても何か言いたそうにうろうろうろうろしていた魔法使いが、彼女が振り返ってほっとした顔を見せたのと同時に黒板を突き出す。
『おかしい。流し台から皿がなくなっている』
「いえ、その、おかしくは……」
『どんな魔法を使ったと言うのだ、言え!』
「いえ、何も……?」
『嘘をつくな! これのどこに不正がなかったと言うんだ!』
「不正!? し、強いて言うならこの家の魔法設備を最大限利用させていただきました、それだけですっ!」
『なぜだ! 私がやってもこうはならないのに!』
「なぜでしょう……?」
魔法使いも興奮していたようだが、フローラもフローラで興奮していた。
何しろ、見つければ見つけるほど、キッチンは掘り出し物であふれている。この家は宝の宝庫だ――たぶん、フローラにとっては。
最初の方こそ、あまり人様の家をごそごそするのは(しかもキッチンというかなりのプライベート空間なのだし)、と遠慮し、何をするにもいちいち振り返って後ろの家主に確認していたフローラだったが、それを発見してしまってから事情が変わった。
洗った食器の水切り場及び収納スペースを探し、棚をそっと開いた先に(この棚の開け心地もまた異常に軽くて驚いたのだが)、最初は念願の水切り場があったのだと思った。
ところがフローラの知っているただの水切りと様子が違う。普通水切り場とは流し台の上にあるものだと思うのだが、流し台の下、棚の中にそれはあった。
いぶかしげに見下ろすフロータの目に、次に飛び込んで来たのは棚にひっついている奇妙なボタンの群れだ。よくよく見ると、ボタンの説明だろうか、ランチェ語で何やらいくつか言葉が書いてある。
まさか、いや、そんな。
高鳴る胸を抑え、ひとまず洗った食器の中からよさそうなものをセットしてから、ボタンを押す。
ゴウンゴウンゴウン――。
間もなく何かが稼働する音が聞こえてきて、フローラは感動に震えた。
もう、間違いない。
これが、あの、あこがれの、魔法式食器乾燥機だ! たぶん食器洗浄機も兼ねている! 実物は初めて見た! イングリッドが話題に出していたことはあったし、どこかにはあると聞いていたけど、本当に実在していたし、しかも自分が使う日が来るなんて――!
両頬を押さえ、うっとりと静かに感激していたフローラだが、後ろで見守る魔法使いの方はたぶんそんな彼女に静かに引いていた。
そして、このような恵まれた設備が腐ったままではもったいないと、彼女の洗い物魂に火が入り――。
『これは何をしているのだ』
「ちょっと、煮沸消毒をしようかなと。あと、黄ばみを落とそうかなと」
『煮沸? 黄ばみ落とし?』
「はいっ! せっかくこんな、大きくて色々あるキッチンですし、汚れ落としの魔法石鹸なども充実しているようなので!」
……ついには、一度汚れを落とした食器に更に追い打ちをかけることにまで、手を出し始めたのだった。
「ついでですから、台所のお掃除もぱぱっとしてしまいますねっ!」
『ついで? お掃除?』
「大丈夫です、慣れてますから! ただ、これだけ色々あるので、試していると時間がかかってしまうかもしれません、よろしいですね!?」
『もうなんか、途中から私たちの話が通じていない気もするのだが、あなたの好きにすればいいんじゃないかな……』
「ありがとうございます!」
『いや、うん……あなたが楽しいならいいんじゃないかな。台所も、なんか生まれ変わってるみたいだし……』
下働きとして長年こき使われていたフローラだが、恐れていたのは叔母を筆頭とする関係者たちの叱責、特に怒鳴り声や暴力であり、家事をすること自体が嫌なわけではない。むしろ好きだ。というか、下手をするとマニアなところすらあったりもする。
歌を歌いながら実際の持ち主よりよっぽど正確に繊細に台所を掌握していく少女に、いい年こいた男は後ろで棒立ちして指をくわえているしかない。何せ、彼のできることは本当に何もない。あと家主のくせにまったくキッチンの仕組みをわかっていない。
もう一時間ぐらい見守っている間に、台所は見違えた。なんというかこう、明らかに白くなっているし、魔法使いは適切なもろもろの配置を見て、本来こう言う形が正しかったのかと感心するばかりである――家主のくせに。
そういえば、いつの間にか熱が入りすぎて自分の好きなとおりに動きまくっているフローラだったが、一応何か変化を起こす前に毎回確認は取っている。
魔法使いはこの小一時間、そんな彼女に時折うなずいては後ろで謎の感嘆を上げているだけの平和な置物と化していた。家主のくせに、インテリアを動かされても文句の一つも言わない。
いや、この辺は家事慣れしているフローラが、うまいこと男をこき使って収納をより円滑にできるように手伝わせている感じもあった。
『おお……ここまで綺麗だと、料理もできそうだ』
ぴかぴかに輝き、あらゆる汚れとおさらばし、散らばっていた食器があるべき場所に戻って広々したキッチンを見て、魔法使いは感動の声を上げる。
思わず漏れた言葉にくるりと振り返ったフローラが、微笑んだ。
彼女も彼女で、あこがれの魔法式設備が完備された技術の粋を集めたであろう贅沢キッチンをふんだんに利用し、あるべき姿を取り戻させたことにちょっと興奮している。
「お作りしましょうか?」
『……料理できるのか?』
「そこまで大した物は作れませんが……食材の残りを拝見させていただいても?」
当然、魔法使いは黙ってこくこくうなずいた。
もはや完全に、この場の実権は突然転がり込んできた――本来とてつもなく気弱なはずの――小娘に握られてしまっていた。