魔法使い3
「……ええと」
フローラが何と言ったものか迷い、とりあえず声を上げてみると、男は無表情のまま黒板に文字を浮かべた。
『一瞬で楽にテーブルが片付くか後が大惨事になるのと、ゆっくり片付けて苦労と時間がかかるの、どちらがいい?』
「へっ?」
突然出された二択に戸惑いつつ、フローラはちょっと考えてから返す。
「だ……大惨事には、ならない方がいいのではないでしょうか……?」
『うむ……だが、あなたは大分お腹が減って』
「わたしは大丈夫です! 大丈夫ですからっ!」
『お、おう。よし、手動でやろう』
お腹を押さえながら真っ赤になって半ば抗議のように言うと、男も勢いに気圧されたのか引いた。口をひき結び、食卓をにらみつけてから、観念したように物の移動を始める。
非常に、こう、モタモタと。
まあ前振り――じゃない、この状況や彼の態度から十分予想できていたことだな、とフローラは温かい微笑みを浮かべたまま見守る。
結構長い間放置されているものもあるのか、埃がぱっと散った。瞬間、彼女は自分の表情がびしっと硬くなったのを感じる。無言のまま、半ば無意識に歩き出す。
「窓を開けても大丈夫ですか?」
『え? あ、ああ。大丈夫だ』
ほぼ反射的に最短距離で一番近い窓にたどり着いてから、振り返って男に聞く。相変わらずなんとも形容しがたい間延びした動きを見せつつ、彼は答えた。
フローラの若干有無を言わせない様子に押された感じもあった気がする。
空気の入れ換えをして、爽やかな晴れた日の朝の空気を取り入れ、ちょっと落ち着いたところで、彼女はそっと探りを入れた。
「あの……普段はどちらでお食事をいただいているのでしょう?」
『……一人だから。基本、立ち食いなんだ。台所とかで、ぱぱっと済ませてしまう』
返答は、文字上でも歯切れが悪かった。たぶん本人も罪悪感と言うほどでないにしろ、後ろめたさは感じているのだろう。どう見ても物を食べる食卓ではないことが一目でわかる。
納得しているフローラに向かって、言葉は続く。
『ちなみに先に言っておくが、私は人に振る舞うような物は作れない。昔張り切って作ろうとしたら、お前これは炭だよ、食べ物じゃない――と優しく諭されるように言われたから、二度と人間に食い物を出さないと誓った』
「…………」
『だから、朝ご飯は絶対に失敗しないパンと水だ。ひねりはないが、炭よりはマシだろう? 過剰に期待してくれるな』
「は、はい……」
どうしよう、すごくコメントに困る。激励したらいいのか、慰めたらいいのか、寄り添えばいいのか。迷ったのでとりあえず保留し、そっとしておくことにする。
しばらく家主に任せてみようかと思ったフローラだったが、5分ぐらい経ったところでまた控えめに話しかけてみた。
「あの……わたし、立ちっぱなしでも大丈夫、ですけれど……」
元々下働き同然の生活をしていた身だ。毎日食卓が用意されなかったというほどではないが、そういう経験に慣れている程度には日常茶飯事だった。
家主が懸命にしている以上、好意に甘えた方がいいのだろうかとも思ったが、たった5分見ていただけでも、食卓が永遠に片付かない恐れがあると判断できた。何がいけないって、時が止まるのがいけない。
食卓に積み上がっていた物の中で最も多かったのは分厚い本の類いだったのだが、男は一つに手をつけると(たぶん確認のために)ぱらりとページをめくって中をあらため――そのまま「おっ!」の形に口を開いて目を輝かせ、読み入ってしまう。
どこからどう見ても、超典型的な片付けられない人の行動パターンである。イングリッドも似たところはあったが、彼女より数段酷かった。
『…………』
フローラの魅力的な提案に、男の動きが止まり、ばっと上げられた顔には「願ってもない!」と浮かぶ。が、そこは家主のプライド、このまま屈していいものか迷っている。
だが、さっきから態度を見ているに、自分が「できない」人である自覚はばっちりあるのだろう。勇気ある決断は比較的早かった。
『台所で、いいか?』
「はい!」
フローラも思わず、満面の笑みで答えてしまうのだった。
台所も台所で、なかなか色々危ないものが見えた気がするが(というか今までこの家で安全が確保されていたのは、もはやトイレぐらいしかなかったように思えるが)、惨状を一度経験している客人は全力でスルーすることにした。
家の数だけ流儀がある。ならば、互いに見えている傷はほじくり返さないのがマナーだろう。
空いている棚の上(机や台の上でない辺り、十分何かを察することができる)にカップと皿を置き、パンを乗せる。パンを温めるかという案も出たが、丁重にお断りした。ここから顔を動かすと、見てはいけないものを見そうだからだ。
フローラはようやく朝の食卓(懐疑)が整うと、立ったまま自分の両手を合わせて組んだ。
「七人の賢者様、家族、友人、隣人、私を見守ってくださる方々に感謝します。大いなるあなたに、この祈りを捧げます。今日が一日いい日になりますように。健やかに、幸せに、生きられますように」
閉じた目を開けてみると、男がこちらをじっと見ている。フローラはあっと思った。どれだけ気が抜けていたというのだろう、つい、一人きりの時にする祈りの言葉を唱えてしまったのである。
何か言われるだろうか? 叔父叔母のように、おかしなものに祈らないでと。
「あの……すみません、おかしかったでしょうか?」
『いや。そうでなくて……』
男は言葉尻を濁してから、一度脇に黒板を置き、自分もフローラと同じように手を組んだ。そのまましばし止まる。
彼は口から言葉を出すことができない。心の中で祈りを唱えているのだと、フローラははっとした。
『よし、食べよう』
終わらせると、文字で促される。
たぶん、普段は一人で食べていると言うことだし、特に祈る文化のない人だったのだろう。そういう人も世の中には結構いると聞く。
けれど彼がフローラの――たぶん普通の人は聞き慣れないであろう祈りの言葉を聞いて、何を言うまでもなく合わせてくれたのが、くすぐったく、温かい気分にさせるのだった。
「も、申し遅れました。わたし……フローラ=ニンフェ、と申します。あらためまして、昨晩は大変お世話になりました」
ささやかな食事を済ませ、食器の片付けは家主に任せた後(何度も言うが、フローラが積極的に動くと、確実に視界に余計な物を入れるからである)、彼女は名乗り出る。
今更というか、遅いにも程があるが、昨晩も今朝も今までタイミングを失い続けていた結果だ。ようやく人心地ついて、話のできる気分になった感じがある。
男はフローラが名乗った名前に、一瞬だけ「おや?」とも、「ああ、やっぱりか」とも解釈できるような表情に変わった。しかし首を振り、さっさと元の状態に戻ってしまう。
『いや、なんでもない。私の名前はルゥと言う。すまなかったな、こんな家に連れ込んでしまって。私は反対したんだが、まあ色々あったんだ』
「い、いえ……」
こんな家。
一瞬納得しかけてしまいそうになるフローラだったが、慌てて失礼な考えを消し去り、男の出したいくつか気になるセンテンスのことを考える。
「……あの」
『何か問題でも?』
「どっ……どうお呼びすればよいのでしょう?」
『私の事か? 適当でいい。好きにしてくれ』
彼はルゥ、と名乗ったが、おそらく正式な名前じゃなくて略称だし、姓も言っていない。何か事情があって語らないのか、元からないのかはともかく、このままでは呼び方に困る。
フローラの困惑が伝わったのだろうか、かなり適当で投げやりだった文の後に、もう一つ補足が入る。
『知り合いは魔法使いと呼んでくるから、それでいいんじゃないか?』
「ま、魔法使い様……?」
『うん』
そういえば、文字が勝手に浮かぶ黒板といい、よくよく考えたら昨日から魔法に遭遇し続けていたかもしれない。本当に存在していたんだ、とフローラは改めて男を観察してしまう。
イメージ通りと言えばその通りで、ぶちこわしと言えばそれもそうだった。ローブとか、森奥に隠遁しているのはその通り。イメージと違うのは……あの、頭の上で遊んでいる独特の跳ね毛と、驚きの生活力のなさ(推定)の辺りだろうか。
そんなフローラの密かな感動と幻滅をよそに、魔法使いは昨晩できなかった真面目な話をしようとしているらしい。
『まず、最初に確認しておきたいことが一つある。あなたはどこか遠く――おそらくその言葉からしてディーヘンから来たのだと推測されるが、元の場所に今すぐ戻りたいか?』
フローラは血相を変え、ぶんぶんと勢いよく横に首を振った。
色のない人々の笑顔。冷たいアイスブルーの瞳。閉じ込められた部屋に――切り刻まれた前髪。
「元の場所に戻るのは……嫌、です。わたし、逃げてきたんです。逃がしてほしいって、頼んで、それで……」
ぶるぶる震えるフローラの肩に、魔法使いは迷ってから触れた。フローラがうつむいてしまったため、注意を引いて黒板を見せるためだろう。
『わかった。無理やり追い出すようなことはしない。何か込み入った事情があったことは、あなたの様子からこちらも察していた。逃げてきたということだし、あなたが話したくないことならこちらも強いては聞かない。言いたくなった時に言えばいい』
何せ、森の中をぼろぼろの花嫁衣装をまとってさまよっていたし、前髪に至ってはとても人の髪の毛の切り方とは思えない、髪が短くなればそれでいいとばかりにハサミを入れられていたのだ。
控えめに言って、事件の香りしかしない格好だったと自分でも思う。
……そういえば、服。
花嫁衣装から、この家で気がついたときにはだぼだぼのガウン(たぶん魔法使いの持ち物の余りだ)に変わっていた。しかも森で走り回ったときに結構泥だらけ傷だらけになっていたはずだが、今改めて確認してみると綺麗になっている。
……これはもう、気絶している間に誰かが世話をしてくれていたとしか考えられない。まさか、と魔法使いの顔を見てしまった瞬間、タイミングよく彼が黒板に文字を浮かび上がらせる。
『さて、戻りたいと言うことなら元の場所に戻しておしまい――というところだが、戻りたくないならこれからどうやって生活していくかが問題になるな? ちなみにここは、アルチュールの森と言う』
魔法使いを問い詰めるかどうか迷っていたフローラだったが、アルチュールの言葉に驚く。正確な位置までは記憶していないが、アルチュールはランチェの西方にある、そこそこ有名な魔の森だ。フローラの出身国であるディーヘンはランチェの東側に位置している。
やっぱり自分が人智を越えた移動の仕方をしていたのだとちょっとぞっとする一方、元の場所から離れられたということはあの怖い男とも再会しにくくなったのか、とほっとする。
また一方で、噂のアルチュールの森とは実際が異なっているような、と考えている間にも、魔法使いの文字は続いていく。
『私は基本的に、得意分野以外のことにまったく気が利かない。昨日、気を失っているあなたを世話してくれた女性がいる。今日の昼を過ぎた頃にまた訪ねてくると言っていたから、まずは彼女に会ってみたらどうだろう? お節介だが親切でもある人だから、これからのことについて力になってくれると思う。私よりよっぽど』
「ありがとうございます、十分すぎます……! このご恩は、けして、忘れません……!」
突然転がり込んで来た自分に対してなんて優しい人達なんだろう。あと魔法使い様、一瞬疑ってしまって本当に申し訳ございませんでした。
深々頭を下げるフローラに、魔法使いの方は反応がいちいちオーバーだと思っているらしかった。顔を上げた彼女だが、ふと魔法使いの後ろに何の気なしに視線が行ってしまう。
目に入れまい目に入れまいと意識し続けていたが、見えてしまったならもう仕方ない。ちょうどさっき、昼過ぎに人が来るという話が出た。まだ朝を少し過ぎたばかり、時間ならある。
「あの……」
『何か?』
「出すぎたことかもしれませんし、一宿一飯のご恩返しには、とてもならないと思うのですけど……」
フローラは一度息を吸い込んでから、生来引っ込み思案な彼女にしては珍しく、ぐっと握り拳を作って熱心に言う。
「よろしければ、洗い物をさせていただけないでしょうか!」
――埃が積もっているのはまだ我慢できても、水場が封鎖されていることだけはなんとかせねばと、家事魂に火がついたのである。




