俺の嫁
『嫁がほしい』
ここ最近そんなことばかり考える。
朝目が覚めて真っ先に思い浮かぶのはそんなことばかり。
一人暮らしをしているせいか、人が恋しくなるときがあるのだ。
俺は嫁が欲しい。そう、嫁が欲しい。
会社で同僚が夫婦間の愚痴をこぼしているのを耳にするたび、道端で手を繋ぐ夫婦の姿を目にするたびにそんなことを思ってしまう。
リア充爆発しろ! なんて憎悪が沸き起こるが、と同時に羨ましいなと思ってしまう自分がいる。
ああ、考えるだけでイライラする。お腹も痛くてイライラする。血が滲みそうだ。
まあ、俺には彼女すらいないのだけれど。
でも、彼女が欲しいわけではない。
嫁が欲しいのだ。
ずっとそばに寄り添ってくれる俺の嫁が、俺だけの嫁が欲しいのだ。
世の中には『俺の嫁』とか言って二次元の嫁を愛でる人もいるが、俺はリアルの嫁、現実世界に存在している嫁が欲しいのだ。触って、話せて、愛してくれる嫁が欲しいのだ。
そんな嫁を愛したいのだ。
何度だって言おう、嫁がほしい。
もしも俺に嫁がいたら俺の生活はどう変わるのだろうか。
きっと朝から晩まで俺の生活は変わることだろう。
バラ色の人生になるに違いない。
嫁がいる生活。想像してみよう。
俺の嫁はこうだ。
朝は「おはよう!」と元気のいい挨拶で俺を起こしてくれて。一日の始まりを告げるにふさわしい大きな声で俺を揺り動かしてくれて。あと五分……とか、お腹痛い……とか俺が深く布団に潜り込んで抵抗しても、「もぉ! そんなんじゃあ遅刻しちゃうよ!」とか言いながら布団をぽふぽふ叩いてきて。それでも起きようとしない俺に最終手段として布団を強引に引っぺがし、俺の名前を部屋中に響き渡る声で呼んでから満面の笑みとともにもう一度元気な声で「おはよう!」と言ってくれる。
そんな嫁が欲しい。
俺がどうにか起きると食卓にはすでに朝ごはんは準備されていて。低血圧で朝が弱い俺に「はやくはやく!」と席に座るよう促してきて。俺が座るやいなやにっこり笑顔で「いただきます!」と元気よく手を合わせて。寝惚け眼の俺とは対照的に朝とは思えない勢いでもぐもぐご飯を頬張って無邪気に笑っている。もちろんほっぺにはご飯粒。
そんな嫁が欲しい。
朝ご飯を食べ終えてスーツに着替えた俺にわざわざ鞄を持って来てくれて。曲がった襟を直しながら「今日もがんばってね!」と励ましてくれて。玄関を開けた時「行ってらっしゃい!」と俺の背中に真っ赤な紅葉ができるくらいに強く叩いて送り出してくれて。玄関を出てからも俺の姿が見えなくなるまで馬鹿みたいに手をぶんぶん振っていてくれる。
そんな嫁が欲しい。
朝っぱらからの盛大な応援のおかげで俺は加齢臭漂う通勤ラッシュに耐えることができて。仕事でクレームが入りそのせいで上司にがみがみ怒られ凹んだとしても机の上にある嫁の写真が俺のことを癒してくれて。お昼休みには持たせてくれた嫁手作りの弁当を食べてお腹を満たして。携帯を開くと「お仕事がんばってりゅ?」と誤字交じりに送られたメールにあざといと思いつつも微笑んでしまって心も満たされて。機械に弱いながらもちゃんと昼休みの時間帯を見計らって連絡してくれる。そんな意外と細やかな配慮ができる。
そんな嫁が欲しい。
仕事も終わって家に帰るとすぐさま「おかえりなさい!」と嫁は満面の笑顔で俺を出迎えてくれて。カバンを預かってくたびれたスーツをハンガーにかけるのを手伝ってくれながら「ごはんにする? お風呂にする? それとも、わ・た・し?」なんて冗談を交えながら腕をぐいぐい引っ張って家の中に引き込んでくれる。
そんな嫁が欲しい。
部屋に入るとやっぱり夕食は準備されていて。二人分の食事が手付かずで並べられているのを見て、俺が帰って来るのを待ってくれていたんだなあと申し訳なく思いながらも嫁の忍耐力に感謝して。席に着くと待ちわびていたように「いただきます」と手を合わせて。炊飯器から盛り付けたばかりの熱いご飯に大きな一口で挑戦するも、白い息をはふはふ出しながら苦戦して。それでも嫁はやっぱり口いっぱいに頬張って幸せそうな表情をしていて。具だくさんの味噌汁をすする俺に向けて「今日もおつかれさま」とねぎらいの言葉をかけてくれる。
そんな嫁が欲しい。
夕飯の最中も、食べ終わった後も嫁の話は止まらなくて。俺はマシンガントークを繰り広げる嫁のほっぺについた米粒を取ってやる。ひとしきり食事も話も済んでから「ごちそうさま!」で締めくくり。そのあとの食器洗いを役割分担しながらやっていると「今日はどうだった? 何かいいことあった?」とか俺の一日を興味津々に聞いてきて。俺が答えると「うんうん」と頷いて一生懸命共感してくれて。「それでそれで?」とどんどん話を広げてくれて。はじめは俺の話を聞いてくれるけれどでも結局は嫁自身の話ばかりになってしまって。俺が適当に相槌を打っているとそれがばれて「ねえ、ちゃんと聞いてるの?」とぷりぷりしながら頬を膨らませて。俺が隣にいるにもかかわらず俺の愚痴を好き放題言って。でも最後には「それがいいんだけどね!」とけろっとした様子でこちらに笑顔を向けてくれる。
そんな嫁が欲しい。
どっちが先にお風呂に入る議論ではお互いに譲り合って。「じゃあ、一緒に入る?」と嫁がさらっと言うのに俺が噴き出して。さっさと入ってこいと俺がやや強い口調で促すと嫁は「はあーい!」と、風呂が苦手で耐性が無い俺のことを小馬鹿にしたような軽快なステップでぱたぱた浴室に向かって行って。脱衣所に入ったあとひょこりと顔を出して「覗いちゃあだめだよ?」と動揺している俺に容赦なく追撃をしてくる。
そんな嫁が欲しい。
夕食を食べ終わったこともあって俺がウトウトしていると両頬を暖かな手で挟まれて。いつの間にかお風呂からあがった嫁の顔が目の前にあって。「お風呂、お先にいただきました」とタオルを肩にかけて湯気を出しながらぺこりと頭を下げている嫁がいて。「次どうぞ」と眠りそうな俺の背中をぐぐぐっと押して脱衣所まで連れて行ってくれて。「どうぞごゆっくり」と言ってぺこりと頭を下げる。
そんな嫁が欲しい。
俺が風呂に入っているときも「背中流そうか?」「お湯加減どう?」とか聞いてきながら洗濯器を回していて。俺は下着も嫌な顔一つせず洗って干してくれる嫁に感謝して。前には俺が嫁の下着を洗おうとすると顔を真っ赤にして「やめてー!」と言われたこともあったなあと湯船に浸かって。思い出して笑う代わりにぶくぶく泡を作りだして。「何がおかしいの?」と聞かれても返事の代わりに泡をぷくぷく噴き出してうやむやにして。しばらく経って風呂から上がった俺を待っていたように「はい、どうぞ」と冷たい麦茶を出してくれる。
そんな嫁が欲しい。
風呂のあとには、嫁が「ねえ、これ観よ!」と借りてきた映画を目の前に突き出してきて。有無を言わせず俺をテレビの前のソファーに座らせて。普段は機械音痴のくせにこのときばかりは慣れた手つきで再生機を操作して。「臨場感が大切なんだよ」とか言って部屋も暗くして。俺にぴったりとくっついて。濡れて乾ききっていない髪からシャンプーのにおいを漂わせて。わくわく目を光らせながら今か今かと映画が始まるのを画面を食い入るように見詰めていて。それがいかに陳腐なB級映画でもシーンに合わせるかのように笑って怒って泣いて感情を露わにして。怖い場面になると俺の腕にしがみついてきて涙目になりながらふるふる震えて。それなら目をつぶっていればいいだろという俺の言葉に、「でも観ないともったいない……」と頑張るも突然の音楽にひいっと悲鳴を上げてしまう。
そんな嫁が欲しい。
映画が終わって隣を見てみるとそこには目を閉じてよだれを垂らしている嫁がいて。起こそうと肩を叩くと「んー……」と大きなあくびをしてうっすらと目を開けるものの力尽きてまた目を閉じてしまって。もう一度起きるよう呼ぶと今度はむにゃむにゃしながら「連れてってー」と両手を広げて抱っこしてほしいと甘えてくる。
そんな嫁が欲しい。
でも、俺の小さな体じゃあ嫁を持ち上げられず、結局肩を貸しながら寝室まで移動して。嫁だけ寝かせようとするも体勢を崩して一緒にベッドに飛び込んで。逃げようとするも嫁の脚が俺に絡み付いて離れなくて。そのうえ睡魔もやってきてそのままなし崩し的に横になってしまって。理性が飛びかけている俺の胸の中でこちらの気など知らないように無防備にも猫のように体を丸めてすうすうと寝息を立てている。
そんな嫁が欲しい。
目を閉じる嫁を抱きしめて。嫁のにおいや柔らかさを感じて。嫁の名前を囁いて。俺がおやすみと言うと「おやすみ」と返してくれて。俺の名前を呼んで「だいすき」と言ってくれる。
そんな嫁が欲しい。
そして。
そんな一日を死ぬまで続けてくれる。
そんな嫁が欲しい。
でも、いない。
俺は嫁が欲しい。
でも、いない。
俺には嫁がいない。
俺の嫁はもう、いないのだ。
嫁はいない。
変わり者の俺を嫌わずに受け入れてくれた嫁はもういない。
ありのままの俺を認め、愛してくれた嫁はもういない。
いないいない。いなくなった。
俺の嫁はもう、いないのだ。
禁断の恋でもそれは確かに恋だった。
俺は嫁を愛していた。
そして俺は正座をする。
俺は嫁の遺影に手を合わせて目を閉じた。
俺の嫁は最高だ。
こんな日々を死ぬまで続けてくれたのだから。
俺の嫁は最低だ。
こんな俺を残したのだから。
ああ、お腹が痛い。昨日より酷い。きっと血が滲んでいることだろう。
我ながらなんと弱く、女々しいものだ。
俺は生理痛に悩まされながら思うのだった
『嫁がほしい』
もう、叶うことのない夢と知りつつも。
でも、できることならもう一度……。
愛しています。俺の嫁。